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泉麻人が綴る、下北沢「迷路の町と小劇場カルチャー」
泉麻人の「東京カルチャーストリート」

泉麻人が綴る、下北沢「迷路の町と小劇場カルチャー」

――泉麻人が綴る、下北沢「迷路の町と小劇場カルチャー」

東京・昭和のカルチャーやトレンドの第一人者であるコラムニスト・泉麻人が、都内の街や通りをテーマに時代の移り変わりとそのカルチャーを解説する連載コラム。第7回は「下北沢」。泉氏も足繁く通ったという小劇場に象徴されるように、下北沢はサブカルチャーの聖地として、若者に支持されてきた。また、駅前には新しいショッピングモールが出現し、話題を集めている。独自の文化が根づくシモキタを、迷路をたどるように探ってみよう。

Text by Asato Izumi

新旧のランドマークが混在する、入り組んだ町

僕は自宅から仕事場への足として井の頭線をよく使っているが、駅に置かれたフリーペーパーやポスターで「ミカン下北」という新しいショッピングモールが下北沢の高架下にできたことを知った。ちょうどこの原稿を書こうとしているのが、3月30日のオープンの翌日。ふらっと見物に行ってきた。

「ミカン下北」という名は、まず果物のミカンを連想させるけれど、これは未完成(つまり常に進化していく)を意味するようだ。場所は井の頭線のホームの渋谷寄りの高架下で、小田急線の地下駅の入り口にも近い。最近は鉄道の高架下に新しいスタイルの商店街をつくるのがちょっとしたハヤリでもあるけれど、ここはどんな感じなのだろう。

京王井の頭線の高架下にある「ミカン下北」。

まず、シモキタらしい古着屋があり、中目黒の高架下にもあるTSUTAYA BOOKSTOREが入っていて、食の店はベトナム、タイ、台湾、韓国……と、アジアン系が目につく。「チョップスティックス」というベトナム料理店は高円寺にある店で、ここのモチっとしたフォーは大好物なのだが、この日はその隣のタイ料理店に入った。バンコクあたりの屋台をイメージしたような店で、窓のすぐ脇のプロムナードが水路っぽく見える。ジャンキー風の店舗を並べたこの高架下モール、シモキタの町のムードになかなか合っていると思った。

飲食店や書店などが並ぶA街区。

行きあたった茶沢通りを小田急線のほうへ行くと、道の右側に「鈴なり横丁」と記した古いネオン看板が見えてくる。戦後バラック街の面影を残した飲み屋横丁の一角に「ザ・スズナリ」という劇場がオープンしたのは昭和56(1981)年、ここがシモキタ特有の小劇場カルチャーの起点となったのだ。翌昭和57(1982)年に幕を開ける「本多劇場」やその後の「駅前劇場」も含めて、劇場を立ちあげた本多一夫氏は、1950年代の映画黄金期の新東宝ニューフェイスだった元俳優さん。

「ザ・スズナリ」は本多劇場グループの最初の劇場。提供:ザ・スズナリ
昭和62(1987)年頃の「ザ・スズナリ」場。提供:ザ・スズナリ
有名劇団の公演にも利用される「本多劇場」。SUYA/PIXTA

僕がザ・スズナリや本多劇場に足繁く通ったのは80年代後半から90年代の前半くらいにかけての約10年間だった。当時、司会をしていたフジテレビの深夜番組「冗談画報」に出演する常連劇団(ワハハ本舗や大人計画……)の公演がこの辺のハコでよく行われた。芝居がハネた後に評判の居酒屋なんかへ行くと、柄本明さんやら誰やらが向こうの席で飲んでいる……みたいな、いかにも小劇場役者の町のムードが根づいていた(もちろん柄本明さんは当時もうすでに売れていて、“大劇場”にも出演されていたが)。小劇場に限らず、松田優作がボトルをキープしていた伝説のバー……などの役者に絡んだ店は多い。

鈴なり横丁の裏方に狭い川の暗渠(あんきょ)が続いているが、北沢、代沢、深沢、奥沢……と、世田谷は沢や小川が至る所に湧き、流れていた地域なのだ。ちなみに下北沢の名は駅にしかないけれど、明治、大正の頃の地図を眺めると、ずっと南方の代沢3丁目のあたりに下北沢の地名が付けられている。

関東大震災直前の代沢周辺地図。提供:東京時層地図

そんな下北沢の駅、まず小田急線の駅が昭和2(1927)年に、交差する井の頭線の駅が昭和8(1933)年の開設だから、つまり、新宿や渋谷とつながるインフラが整ったのは昭和の時代。文字通り「昭和信用金庫」というのが「ミカン下北」の先の茶沢通りに立っているけれど、この信金の開業も昭和7(1932)年だというから、まさに昭和のスタートとともに都市化していったのだ。

地元の経済活性化のための取り組みも行う「昭和信用金庫」。

しかし、それ以前のクネクネ農道が区画整理されない段階でX型に交差する駅ができたので、ともかく道がわかりにくい。迷路のような道を歩いていて方向感覚を失うような感じもシモキタの魅力といえる。

個性的な商店街から由緒ある邸宅地まで

さて、小田急線のほうは地下化された後、昔の線路のところがまだ空き地のようになっていて、新宿の方角にすっくと聳(そび)えるNTTドコモ代々木ビルがよく見える。所々に仮設型のカフェなんかが立っているが、この一帯もやがて整備されていくのだろう。

下北沢駅前から新宿方面を見ると、NTTドコモ代々木ビルが目に入る。

この辺にくると思い出すのは、ほんのひと頃まで線路端の一角に存在していた「下北沢駅前食品市場」だ。戦後のバラック建てマーケットから発展した一帯で、看板に「食品」とあるように乾物屋や魚屋が並んでいたが、奥の方へ行くと上野のアメ横と同じようにジーンズやウエスタンシャツ……の類を陳列したアメリカ輸入衣料の小店が2、3軒あった。もう晩年は別の屋号の店に変わっていたけれど、アメ横とここにあった「るーふ」という店は、70年代中頃の学生時代、映画「アメリカン・グラフィティ」の影響でハヤり始めたリーバイスの501とかミッキーマウスの絵が入ったウエスタンベルト……なんかを物色しにきた思い出がある。「るーふ」などの初期の店は占領下の米軍の払い下げ品から始まったらしいが、こういった店が下北沢の古着屋文化の土壌になったのかもしれない。

下北沢駅北口近くにあった「下北沢駅前食品市場」は平成29(2017)年に取り壊された。ベイグラント / PIXTA

小田急線の北側に「一番街」のアーチ看板を掲げた筋は、「一番」というくらいに古くからの商店街だ。これをちょっと行った奥に巨大な天狗面(2月の節分の頃の天狗祭りで使われる)を境内に置いた、真龍寺というお寺があった。散歩の最後にあの天狗を見物していこうと心あたりの場所に行ってみたら、寺はなくなっていた。3年前に小田原のほうへ引っ越してしまったらしい。

180店舗以上が軒を連ねる「下北沢一番街商店街」。
昭和14(1939)年に結成された東京北澤通商店街商業組合(現:下北沢一番街商店街)。提供:下北沢一番街商店街
世田谷区北沢にあった真龍寺。©️まりも

調べてみると、そもそも小田原の奥の天狗信仰で知られる大雄山最乗寺の末寺で、下北沢の寺の創建は昭和4(1929)年というから、その2年前に開通した小田急線が重要なパイプラインになったのだろう。しかし、あの大天狗もお寺と一緒に小田原に行ってしまったのだろうか……(天狗面はどうやら「下北沢一番街商店街」が保管しているらしい)。

「下北沢天狗まつり」では、天狗面をのせた車が練り歩く。提供:下北沢一番街商店街

この真龍寺のあった北沢や代田、代沢の坂上のあたりには、趣のある洋館、ゆったりとした木立ちに囲まれたようなお屋敷が見られる。そう、まだマスコミのプライバシー管理が甘かった僕の小中学生時代、マンガ誌や芸能誌の欄外に〈はげましのお便りを送ろう〉なんて文句とともに、人気マンガ家やタレントやスポーツ選手の住所がそのまんま載っていたりしていたものだが、世田谷区北沢や代田の町名をよく見かけた。下北沢という町には昭和30年代のスターが暮らした由緒ある邸宅地の横顔もあるのだ。

静かな時が流れる、代沢の住宅街。

profile

泉 麻人

1956(昭和31)年、東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。『週刊TVガイド』等の編集者を経てコラムニストに。主に東京や昭和、カルチャー、街歩きなどをテーマにしたエッセイを執筆している。近刊に『銀ぶら百年』(文藝春秋)。

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