― 本取材後編では、白井屋ホテルのオーナーであるJINSホールディングスの田中仁氏のお話を伺った。
Profile:田中仁
1963年群馬県前橋市生まれ。慶応義塾大学大学院政策メディア研究科修了。ジンズホールディングス代表取締役CEO。1988年にジェイアイエヌ(現ジンズホールディングス)を設立し、2001年にアイウエアブランド「JINS」を開業。国内トップの年間販売数で、米国や中国などにも展開。2011年 『Ernst&Youngワールド・アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー2011』モナコ世界大会に日本代表として出場。2014年、群馬県内での地域活性化活動を目的に田中仁財団を設立し代表理事に就任。
遠山:もともと田中さんがアートに興味を持ったのって、ジンズホールディングスの顧問を務める藤本幸三さん*を私が紹介したことにはじまるのかなと思っています。それまで田中さんはどちらかというと、建築が好きなのだと私は思っていました。(*注:藤本幸三氏…かつてはエルメスジャポンのコミュニケーション担当執行役員アーティスティックダイレクター、アニエス・ベージャパンの代表取締役社長のポストを歴任。現在ジンズホールディングス顧問を務める。)
田中:20代から建築は大好きでしたね。本社の設計を青木淳さんにお願いしたこともありますし、若い建築家を見つけて、「この建築家はくるな」とか思いながら、建築雑誌を読んでいました。
鈴木:田中さんといえば、建築家とよく仕事をされているイメージがあります。例えば2009年に藤森照信さん、伊東豊雄さん、妹島和世さんたち11人がメガネをデザインしたことも印象深いです。
遠山:海外の店舗は石上純也さんたちが設計したりしていますしね。それに今回ホテルを建築・設計した藤本壮介さんとはかなり前からのお知り合いで、田中さんのお兄さまの住宅建築をされているんですよね。
田中:そうなんです。めちゃくちゃ才能がある建築家がいる、と聞いて友人に紹介されたのが藤本壮介さんでした。それが2002年のこと。壮介さんが建築家としてデビューして間もないころだったと思います。それでぜひ壮介さんと仕事をしたいと思った時に、JINSのロードサイドの店舗をつくる計画があったんです。それで壮介さんに相談し、模型などもつくってもらったのですが、残念ながら計画が頓挫。幻に消えてしまいました。でもちょうどそのころに私の兄が前橋の家を新築することになり、壮介さんを紹介したんです。それで彼の初の住宅建築となるT HOUSE(2005年)が建てられました。
鈴木:そこから壮介さんと前橋の関係がはじまり、彼にとっても前橋は大事な土地になっていった感じがしますね。そして今、田中さんと一緒に前橋を盛り立てている。
田中:そうなんです。ただ、住宅を設計していただいたあと、壮介さんは超人気建築家になってしまって、おいそれと依頼できなくなってしまったんです。それに私としても、ただJINSの店舗だけを設計してもらいたいという気持ちもなくて。何か別の形で壮介さんとは仕事をしたいと思っていました。そこで私が白井屋を購入して新たに前橋のシンボルとなるようなホテルをつくる、となった時に、ようやく壮介さんと一緒にやりたい仕事が出てきた、壮介さんと一緒に仕事をするのに相応しい仕事だと思い、彼に連絡を取りました。
遠山:それがいつのことですか?
田中:2014年の7月でしたね。とても久しぶりにメールをしました。
遠山:それから7年近くかかってこのホテルが出来上がったんですね。
鈴木:建築が好きな田中さんにとったら、壮介さんとの仕事は刺激があったんじゃないでしょうか。
田中:すごく刺激をいただきましたね。しかも自分が購入して自分でつくるホテルだから、期限も特になかったんです。それがまたよかったなと思いますね。じっくり時間をかけて、納得いくまで話し合うことができました。妥協はなかったです。
遠山:最初からアートを盛り込むつもりだったんですか?
田中:まったく思ってなかったですね。ただ、アートを何かしら入れようとなったのは、ホテル計画が始まった当初から。その時は、レセプションやラウンジには何かしらホテルを象徴するような見応えのある、本物のアートを飾り、客室はリトグラフとかを飾ればそれなりになるから、それでいいかなという安易な思いでした。それが決定的に変わったのが2018年ころでしたね。
鈴木:それは何がきっかけだったんですか?
田中:レアンドロ・エルリッヒとの出会いです。プロジェクト仲間の紹介で、森美術館でレアンドロの個展が開催されていた時に一緒に寿司を食べに行ったんです。そこで彼にホテルの話をしたら“建築家は誰だ?”と。そこで、“Sou Fujimotoだ”って言ったら、“俺は藤本のファンだ。どんなのをつくっているのかぜひ現地で見たい!”と言って、一緒に前橋に行ったんです。彼自身も建築家の家系に育ち、建築にとても興味がある人だから、私も見てほしかった。
鈴木:その時のホテルはどういった状態だったんですか?
田中:吹き抜けの工事が進んで、躯体が剥き出しになっていましたね。躯体には配管などの穴も空いていたから、そういった状態が彼のインスピレーションを刺激して、《Lighting Pipes》が出来上がったんです。それでレアンドロの作品が入り、壮介さんの建築と絡み合う姿を目の当たりにして、これは考えを変えなければいけないと思いました。だってすごいスケール感と迫力があるから、この空間は本物だから、この空間に合うようにすべての客室に本物のアートを置こうと決めました。そして作品が決まってインストールしたのがオープンの半年前ぐらいでした。それこそ幸三さんの存在が大きかった。彼の意見を参考にしながら、ホテルの仕上げにかかったって感じですね。
遠山:やっぱり私、田中さんがアートを好きになる、興味を持つ“一番最初の瞬間”に立ち会った気がしていて。
田中:そのとおりです。遠山さんに幸三さんをご紹介いただき、原宿でランチをしましたよね。あれがたぶん5年ぐらい前なんですが、私からアートのことを教えていただきたいというのではなくて、遠山さんが幸三さんを私に紹介したいということで、ランチをしたんですよね。
鈴木:幸三さんといえば、現代アートだけでなくデザインなどいろんな分野に造詣の深い方。幸三さんからアートの指南を受けた感じですか?
田中:幸三さんにどんどんアートの沼にハマるように仕向けられた感じがしますね(笑)。でも私は本当にアートには興味がなかったんです。遠山さんに紹介される前に、別の場所で幸三さんと会ったこともあったんですが、特にビジネスしようとかってこともなく、いい人だなっていうぐらいの印象(笑)。だから遠山さんと一緒に会った時も、アートじゃなくて、プロダクトデザインのところで一緒に何かできるかな、と思ってたぐらいで。彼自身スペシャルルームの一つをつくってくれたジャスパー・モリソンとも仲がいいし、そういったところで一緒に何かできるかなと思いました。
鈴木:今日田中さんがかけていらっしゃるメガネもジャスパー・モリソンがデザインしたモデルですよね。そのメガネも幸三さんと一緒にということですか?
田中:幸三さんからジャスパーを紹介してもらい、一緒につくりました。だから本当にデザインから始まったんです。
遠山:出会ってから、幸三さんがアート・バーゼルとか、国内外のギャラリーとか美術館とかに田中さんを連れ回すというか、引っ張って行ってましたよね。
田中:そうなんです。仕事でパリやアメリカ、ロンドンに行くと、私はまったく美術に興味ないからホテルの部屋でゆっくりしたいのに、幸三さんはほんの少しでも時間ができたら、美術館やギャラリーばっかり行くんです。それに連れ回される(笑)。
鈴木:あまり乗り気じゃなかったってことですよね(笑)。
田中:はじめは苦痛で嫌々でした(笑)。でもそうやって連れまわされているうちに、幸三さんは好きでも私は好きじゃないとか、これはすごく好きだなとか思いはじめたんです。そういう好き嫌いのフィルターがだんだん自分の中で生まれてきた。でもまずはそこまでだったんですよね。でも幸三さんと出会ったことで、アートの本質というか、「本物」とは何かということを教えてもらったし、自分で取捨選択して、自分で楽しんだり、ビジネスに取り入れられたりできるようになりました。その一つの形がこのホテルですね。
遠山:普通のアートホテルと何が違うって田中さんは思ってますか?
田中:アートホテルってどうしても統一感を持たせたりとか、コンテクストがどうとかってキュレーションしがちだと思うんですよね。でもこのホテルは私が好きなものから選んだんです。幸三さんに意見を求めたし、提案も受けたけど、最終的には私の好きなものだけしか置いてないんです。オーナーが選んだからこそのパワーを感じてもらえると思いますね。そして全部が、私の思う本物のアートであることもほかとまた違うところだと思います。
「新素材研究所」が設えた「真茶亭」
鈴木:前編でもお話ししましたが、本当にこのホテルには超有名アーティストから、群馬に関係した作家までたくさんのアーティストの作品が飾られています。その中で杉本博司さんも大きく関わっていますよね。ホテルの顔でもあるレセプションには杉本さんの「海景」シリーズの《ガリラヤ湖、ゴラン》が。そしてこの鼎談をしている「真茶亭」は、ホテルのために杉本さんと建築家・榊田倫之*による新素材研究所が場を設えました。
※注:──榊田倫之氏の榊の漢字は、木ネ申
田中:レセプションには杉本さんの作品を、というのもけっこう頭の方から考えていて、杉本さんが選んでくれてこの作品になりました。海ではなく湖なのですが(笑)。ここに展示するにあたって、杉本さんが実際にどう光が入るのか、どう反射するのかなどすべて実物大の模型をつくって確認までしてくれました。
遠山:さすがですね。
鈴木:杉本さんといえば、ダジャレで茶室や建物の名前をつけたり、思いがけないところで超有名な古い神社仏閣から出た木材や石などを使っている場合がありますよね。「真茶亭」というのも、敷地内に移設されている旅館の女将さんが使われていた茶室の壁が抹茶色だったからその名前になったというお話も。
田中:それに《ガリラヤ湖、ゴラン》もちょっとしたダジャレみたいな感じです。ガリラヤ湖というのは、イエス・キリストが海上歩行の奇蹟を行った場所。そして前橋の奇跡の白井屋ホテル。だからキセキつながりだと杉本さんが(笑)。さらには「会計」する場所に「海景」という意味もあるらしいです。
鈴木:杉本さんらしいですね(笑)。この内装の設えも新素材研究所らしいですよね。入って左側には、立ち手水が。これは江戸後期のもののようですが、この手水から水が流れ波紋になるかのように、一枚板の机が置かれている。
遠山:まさに水が左から右に流れているみたいですよね。
鈴木:それに「真茶亭」と書かれた扁額。よく杉本さん銘木を使うから銘木かと思ったら、なんと御徒町の古い商店から解体の際に出てきた廃材だったそうです。もちろん揮毫は杉本さんです。
遠山:でも銘木に見えるのは杉本さんが手がけたからこそですよね。
前橋という場所で
遠山:田中さんは前橋市の出身。やっぱり前橋市出身として、まちを盛り上げたい、貢献したいという気持ちは昔からあったんですか?
田中:昔からは持っていませんでしたね。それこそ故郷に錦をという気持ちはほとんどなかった。でも前橋のことを考えるきっかけとなったのは、2011年にモナコで開催された起業家の世界大会。そこに参加して、欧米の起業家が個人での社会貢献を大規模にやっているというのを目の当たりにしたんです。そこで自分には何ができるのかを考えた時に、やはりそれは縁がある地元だ、前橋の衰退ぶりをなんとかしたいと思ったんです。
遠山:ということは、最初の思いとしては出身という事実だけだった?
田中:最初は本当にそれだけでしたね。でもまちづくりってやればやるほど難しい。でも起業家として難しければ難しいほど、山が高ければ高いほど挑戦したくなるんですよね。それで結果を出そうと思うと、中途半端に盛り上げたいとか、お金を使うだけじゃ成功しないんです。だからサドンデス(笑)。結果出るまでやりきろうと思ってはじめました。
遠山:そして前橋市をはじめとする群馬県の魅力ある都市形成と豊かな地域社会実現のため、文化・芸術の振興、起業支援等の地域活性化のための活動を促進し、地域社会の発展及び市民生活の向上に貢献することを目的とする「田中仁財団」もつくって。それがいつのことですか?
田中:2014年6月6日ですね。
遠山:もしかしたら、地元愛が強すぎず、客観的に前橋というまちを俯瞰して冷静に見られたのがよかったのかもしれないですね。
田中:それは大きかったと思います。ただ正直なところ、今まで前橋を盛り上げようってやってきた人たちも大勢いたけど、途中で投げ出してしまった人たちもいるわけです。だから市民からもなかなか受け入れられなかったところはありましたね。“田中もどうせ途中で投げ出すだろ”って。でもそれは絶対にしない。一過性のものにするつもりはありませんから、前橋市を変えたいと取り組んでいるわけです。その本気度が行政や市民にも伝わって、仲間がどんどん増えていきました。
鈴木:今では前橋市出身の著名人の皆さんも田中さんに賛同して、一緒に地域創生を盛り上げていますよね。
田中:そうですね。その中でも糸井重里さんの存在は大きいですね。今前橋には、民間の視点から前橋の特徴を調査・分析し、市の将来像を見据え、どのようなまちを目指すのか、という「前橋ビジョン」があります。これは2016年に策定されたんですが、それまでずっと私たちの財団から前橋市に根気強く働きかけ、提案し、前橋をどう創生していくか、どう変えていくかをずっと考えて、提案してきました。その中でドイツのコンサルティング会社に市民への聞き取り調査をお願いして、そこで出された結果が「前橋に個性がない」だったんです。でも最後に「Where good things grow.(いいものが育つまち)」という言葉があり、これがビジョンの原型となりました。それでこの原型を糸井さんが独自に解釈してくれて、前橋ビジョン「めぶく。」が発表されました。今前橋はこの「めぶく。」という言葉をある種の合言葉にして、どんどんと変わってきています。
鈴木:ホテルもこの「めぶく。」というビジョンを落とし込んでいるんですか?
田中:そうです。「めぶく。」というビジョンを具現化するホテルにしようっていうことで、最終形態が決まりましたね。それが草木の生えた丘だったりとか、植栽だったりとか。ただホテルをつくりたかったわけではないんです。前橋という土地、ビジョン、すべてがつながる場所がこのホテルなんです。ホテルをつくるために前橋のビジョンまでつくってしまったということなんです。
遠山:これは私の会社の話になるけど、私はよく社員に「自分ごと」と言っているんです。もちろん地域や他人のためっていうのはあるけど、誰かのためってちょっとあやしいと思っていて。田中さんは地域のため、前橋のためと動いているけど、やっぱりその根底には自分がつくりたい、自分の好きなものを置きたい、というのがあると思うんです。それがうまく地域とつながり、形になっているのがすごいなと思いますね。でもそのエネルギーってどこから来るんでしょうか? もしくは、どういう気持ちでホテルを買い取り、再生し、さらにまちを創生しているのか。
起業家の挑戦
田中:それは起業家の挑戦ですね。私の挑戦。正直まちづくりが実を結ぶのは50年、100年先だと思うんです。自分の活動は自走するまで10年だと考えています。最初に手がけた地域貢献事業の群馬イノベーションアワードを立ち上げて、起業家を生む環境が生まれ、それが自走しはじめるまでに5年かかりました。その過程でまちづくりも同時並行で本格化するわけですが、まちづくりは10年かかると思うので、あと5年で一つの形はできると思います。そうなると多くのプレイヤーが参加をして自走をはじめると思います。これまでもちろん平坦だったわけではありません。
遠山:それでもビジョンがしっかりしてくると、自分ごとに考えられなかった人たちが、どんどん自分ごとになって、大きなうねりになるんじゃないでしょうか。
田中:本気度は上がりましたね。ホテルをつくったことだけでも大きなインパクトを与えられたと思います。前橋という場で、内の人と外の人が混じり合って、「めぶく。」場所になってほしいと思います。それを私たちは今本気でやっていて、形にしていっているんです。
鈴木:実際に再開発が進み、まちなかには新しいレンガのお店ができ、これからもどんどんと地域創生のための建築ができあがっていくわけですよね。でもあと5年後、自走しはじめた前橋のなかで、田中さんは何をやっていると思われますか?
田中:私はまた何か別の役割に挑戦しているような気がしています。ただその場所はどこかわからない。でも私ができること、やりたいことをやりますね。
遠山:今は自分自身を前橋に捧げているっていう感じですね。
田中:そうですね。
遠山:そこまでどうして献身的になれるのか、そしてあと5年、田中仁がどう動き、前橋がどう変わっていくのか。それは誰の目でも見て確かめることができるほどの大きな動きです。これからの田中さんの挑戦、そして前橋の挑戦を私たちも楽しみに、体験していきたいですね。
Information
白井屋ホテル
371-0023
群馬県前橋市本町2-2-15
027-231-4618
www.shiroiya.com
profile
1962年東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、85年三菱商事株式会社入社。2000年三菱商事株式会社初の社内ベンチャーとして株式会社スマイルズを設立。08年2月MBOにて同社の100%株式を取得。現在、Soup Stock Tokyoのほか、ネクタイブランドgiraffe、セレクトリサイクルショップPASS THE BATON等を展開。NYや東京・青山などで絵の個展を開催するなど、アーティストとしても活動するほか、スマイルズも作家として芸術祭に参加、瀬戸内国際芸術祭2016では「檸檬ホテル」を出品した。18年クリエイティブ集団「PARTY」とともにアートの新事業The Chain Museumを設立。19年には新たなコミュニティ「新種のimmigrations」を立ち上げ、ヒルサイドテラスに「代官山のスタジオ」を設けた。
▶︎http://www.smiles.co.jp/
▶︎http://toyama.smiles.co.jp
profile
1958年生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。82年、マガジンハウス入社。ポパイ、アンアン、リラックス編集部などを経て、ブルータス副編集長を約10年間務めた。担当した特集に「奈良美智、村上隆は世界言語だ!」「杉本博司を知っていますか?」「若冲を見たか?」「国宝って何?」「緊急特集 井上雄彦」など。現在は雑誌、書籍、ウェブへの美術関連記事の執筆や編集、展覧会の企画や広報を手がけている。美術を軸にした企業戦略のコンサルティングなども。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。明治学院大学、愛知県立芸術大学非常勤講師。