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オシャレとメルヘン、そしてモンブラン……<br>泉麻人が語る「自由が丘」
泉麻人の「東京カルチャーストリート」

オシャレとメルヘン、そしてモンブラン……
泉麻人が語る「自由が丘」

泉麻人が語る、自由が丘の往来——“モンブラン”なオシャレ夫人が“メルヘン”な路地を闊歩する……元祖・郊外高級タウンの変遷

東京・昭和のカルチャーやトレンドの第一人者であるコラムニスト・泉麻人が、都内の街や通りをテーマに時代の移り変わりとそのカルチャーを解説する連載コラム。第3回は「自由が丘」。昭和時代の幕開けとともに誕生し、70〜80年代にかけて郊外のオシャレタウンとして全国区となった街である。現在でも、路地の名前から軒を連ねるショップ、そして行き交う人々までも独特な“自由が丘っぽさ”を醸しているように思える。エリアの歴史をひもときながら、文化の変遷を考察していこう。

Text by Asato Izumi

かつて「オカジュー」、今「ガオカ」。郊外高級タウン、自由が丘

現在の自由が丘駅前。改札左は1953(昭和28)年に建てられた商店街ビル「自由が丘デパート」。

自由が丘は東横線沿線の高校、大学に通っていた時代によく寄り道した街だ。立ち寄る場所というとほぼ喫茶店の類い。名前が思い浮かぶ店を挙げてみると、ティンカーベル、サンレモ、トップ、イングランドヒル、キャット&ドッグ……といったところだが、もはや残っている店は1軒もない。まぁ70年代中頃の話だから、いたしかたないだろう。

ちなみに、当時通いなれた連中は、自由が丘を逆さ読みして「オカジュー」という符丁をよく使っていたものだが、最近は「ガオカ」という省略形のほうが優勢のようだ。そんなオカジュー、僕らが喫茶店に溜まっていた70年代頃から女性向けのシャレたブティックがぽつぽつと見受けられたが、当時はまだ東京ローカルの街だった。自由が丘の街が全国区的なオシャレタウンとして認識されるのは80年代に入ってからだろう。とくに、『JJ』や『CanCam』……の卒業世代のマダムをターゲットにした女性ファッション誌や生活情報番組が隆盛する80年代終わりのバブルの頃からは、当初のブティックに加えてグルメやスイーツ、ペットグッズ……なんぞも充実した郊外高級タウンとなった。「女神通り」「カトレア通り」「サンモア通り」……と、細道にまでメルヘンセンスの名前が付けられているのも自由が丘の特徴だ。

現在のカトレア通り。「メープル通り」や「サンセットアレイ」など、路地に名付けるクセが強めである。

と、書いてきたところで、この街の歴史をもっと先のほうまで遡ってみよう。「自由が丘」という造語調の名から察せられるとおり、前回の神保町のような江戸大名がらみの由来などはなく、これはいまも健在な私立学校「自由ヶ丘学園」が発端なのだ。大正デモクラシーの時代に“自由教育論”を提唱した教育者・手塚岸衛が立ち上げた学校で、開校のちょっと前に開業した東横線の駅名に採用されたのだ。

1960(昭和35)年当時の自由が丘駅前広場。正面のロータリーや自由が丘デパート、1932(昭和7)年創業の一誠堂(宝石・時計販売)など、現在もほぼ変わらぬ場所で自由が丘の発展を見守っている。Photo:朝日新聞社/アマナイメージズ

東横線の開業(1927年8月)当初の駅名は九品仏だったのだが、その2年後、九品仏(浄真寺)にもっと近い場所に大井町線の駅が設置されることになって、九品仏はそちらに譲り、自由が丘(当初は自由ヶ丘)駅が誕生した。もっとも、この案に固まる以前は界隈の町の名「衾」(ふすま)が有力候補になっていたという。衾は寝具を意味する古い言葉だが、フスマって語感は、ファッションタウンのネームとしてはきついかもしれない。

左は自由が丘デパート、右下はひのき通り。撮影は1956(昭和31)年6月、レインコートとレインブーツ姿の女性に梅雨を感じる。Photo:毎日新聞社/アフロ

つまり、まさに昭和時代の幕開けに誕生した街、といっていいだろうが、この街のバックに田園調布のお屋敷街が存在したことは見落とせない。大正時代末の震災前後に分譲が行われた田園調布が隣接することによって、自由が丘にも上品なイメージ付けがなされたと考えられる。

昭和30年代の自由が丘に「はでな子ども」と「自由ヶ丘夫人」現る

そして、戦後の昭和30年代。僕が生まれた翌年の1957(昭和32)年に刊行された『世界文化地理大系』という平凡社のシリーズ本の関東の巻に〈東横沿線〉というタイトルを付けて自由が丘駅前のヘリ空撮と思しき写真がこんなコメントを添えて掲載されている。

「沿線の中心自由ヶ丘駅の付近は銀座を小型にしたような店がならび、屋上のローラースケート場の子供もはでだ。」

「自由ヶ丘デパート」の屋上に子どもの姿がちらほらと見える。Photo:『世界文化地理大系3 関東』(平凡社・刊)より/撮影:荒井義之

この写真から、子どもがどういうふうに派手なのか……よくわからないけれど、ローラースケート場のある屋上はいまも営業中の自由が丘デパートで、この本が刊行される4年前の創業。つまり、郊外のトレンドスポットの意図で撮影されたのだろう。

さらに昭和30年代の自由が丘といえば、1960(昭和35)年に『自由ヶ丘夫人』というゴキゲンな娯楽映画が作られている。90年代の頃にマニア向けに発売されたVHSビデオ(東宝)を持っていて、時折古いデッキにセットして眺めたりしているのだが、新珠三千代や淡路恵子らが演じる有閑マダムの生態がおもしろおかしく描かれている。ビデオのパッケージに記された、映画の宣伝文句がイカシてる。

「女房(うち)に限って! トンデモない! 奥様は火遊びのマッ最中! シャレた都会調で描き出す 山の手・自由ヶ丘風俗!」

風俗小説を得意としていた武田繁太郎の『芦屋夫人』に続く第2弾が原作というが、三島由紀夫の『美徳のよろめき』(昭和32年)以来、こういう“よろめき夫人”モノがちょっとしたブームになっていた。

右から新珠三千代、淡路恵子、安西郷子、杉葉子、千石規子。近くの多摩川台公園のシーンで、背後に東横線が写り込んでいる。Photo:『自由ヶ丘夫人』/画像提供:東宝株式会社

「火遊び」のエピソードはドロドロしたものではないけれど、興味深い自由が丘風俗が次々と登場する。マダムたちは開園してまもない「田村魚菜学園」で西洋料理を習い、ここで習ったと思しき「ビーフステーキ・カルメンシータ」なる料理の名が新珠や淡路の口からたびたび発せられる。さらに、新珠(ダンナは池部良)宅の応接間に藤村有弘扮するダンス名人の証券マンを呼んでマンボ(チャチャチャ)のレッスンを受けたり、洋裁店でレディーメイドのワンピースを注文したり。そう、店名はアレンジしているようだが、「自由が丘モンブラン」らしき喫茶店も彼女たちの溜り場として登場する。

創業当初の「自由が丘モンブラン」。現在の店舗と大きく変わらない、洗練された外観。Photo:自由が丘モンブラン

栗のケーキ・モンブランと東郷青児画伯のケーキ包装紙で知られる戦前の1933年(昭和8)年創業の老舗だが、なんでも『自由ヶ丘夫人』の舞台版で主演の山本富士子がここのモンブランを味わう場面があったのを機に、評判が広まっていった……という話を店の人から伺ったことがある。

喫茶室で味わうモンブラン。壁に飾られた東郷青児の作品を眺めながら、自由ヶ丘のオシャレ夫人たちも甘美なひと時を楽しんだのだろうか。Photo:自由が丘モンブラン

栗のケーキ・モンブランから、自由が丘の祖・栗山氏へと思いを馳せる

熊野神社の栗山久次郎銅像。自由が丘を訪ねる際は、ぜひモンブランとセットで詣でていただきたい。

さて、最後にもう一箇所、重要な場所を。駅西口のロータリーの一角から豊川稲荷の小さな赤鳥居が立つ小路に入りこんで奥へと進んでいくと、熊野神社の門前に差しかかる。ケヤキやヒノキの大木がそびえる武蔵野の面影漂うこの神社に〈栗山久次郎翁〉と記された銅像が建立されている。

かつて碑衾(ひぶすま)村(碑文谷と衾の合名)の村長を務め、一帯の地主でもあったこの人物こそ、宅地開発の指揮を執り、「自由ヶ丘」という新地名にゴーを出した街の祖なのだ。栗山という姓も、「モンブラン」との因縁をふと想像させる。

資料協力

平凡社
▶︎https://www.heibonsha.co.jp/

自由が丘モンブラン
▶︎https://mont-blanc.jp/

profile

泉 麻人

1956(昭和31)年、東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。『週刊TVガイド』等の編集者を経てコラムニストに。主に東京や昭和、カルチャー、街歩きなどをテーマにしたエッセイを執筆している。近刊に『1964前の東京オリンピックのころを回想してみた。』(三賢社)。

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