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日本の近代史と街の発展に触れながら「上目黒・中目黒・下目黒」を歩く
街歩きの風景

日本の近代史と街の発展に触れながら「上目黒・中目黒・下目黒」を歩く

つなぐキーワードは“馬”!? ――かつて郊外、今は屈指の邸宅街。日本の近代史と街の発展に触れながら「上目黒・中目黒・下目黒」を歩く

その街に住んでいるように、街を歩く。すると、その街ごとに醸成されていった、独自の文化に気づく。「街歩きの風景」シリーズでは、魅力あるエリアを歩き、見つけた“街の風景”を紹介する。10回目は「目黒エリア」。上目黒、中目黒、下目黒……名前は似ているが、そのカラーはまったく異なる。中目黒は高級邸宅街にして都内屈指のトレンドタウン、目黒は江戸・明治の面影を現代にも伝える街。今回は、中目黒駅から目黒駅までの約2kmを歩く。このルートは「上・中・下」の目黒エリアを巡ることができるのだ。そこにはいったい何があるのだろうか。

Text by Aki Maekawa
Photographs by Noriyuki Fukayama

東京屈指の高級住宅街は、地図上には存在しない

東京の由緒ある高級住宅街を歩いていると、マンション名や道路標識に、地図にはない地名が冠されていることに気付く。多くが昔から受け継がれている呼称であり、それらのエリアはだいたい高台にある。例えば、仙石山(港区六本木1丁目一帯)、城山(港区虎ノ門4丁目一帯)、諏訪山(目黒区上目黒3丁目一帯)、長者丸(品川区上大崎2丁目一帯)などだ。今回歩く目黒エリアは、諏訪山から目黒駅付近の長者丸まで、ともいえる。

まずは中目黒駅に降り立った。駅名こそ中目黒だが、駅がある地名は上目黒だ。

そもそも、なぜ「目黒」というのだろうか? その地名の由来は「馬」にあるという。めぐろの「め」とは馬(駿馬)であり、 「くろ」は畔(あぜ)、すなわち畔(あぜ)道だ。「めぐろ」は、馬畔(めぐろ)という音から生まれたという説が濃厚だ。

ニューヨークを思わせるカフェがある中目黒駅西口。

中目黒駅の改札を出て目黒川方面に歩くと、カフェや雑貨などハイセンスな店が並んでいる。この街が大きく変わったのは、2002年に「中目黒ゲートタウン」が完成したころだろう。かつて駅の東にあった雑多なエリアが再開発されたあとに立つ、地上25階建てのタワービルだ。住居棟、オフィス棟があり「中目黒駅前図書館」が入る。かつての街の面影はどこにもない。

『目黒区史』をひもとくと、この街の発展は、1923(大正12)年にさかのぼる。それまで田畑が広がっていたところに、目黒銀座通りが開通した。そして、1927(昭和2)年に中目黒駅(東横線)が開業。住宅街、商業地として爆発的に発展したのは、1964(昭和39)年の地下鉄日比谷線開通がきっかけだ。これにより、駅周辺にはマンションやアパートが林立。商店も増え続けた。

とはいえ、30年ほど前には、目黒川も今のようには美しくはなかった。今でこそ春になれば約800本もの桜が咲き誇る観光名所として知られているが、雨が降ると増水し警報が鳴り響き、時折悪臭を放っていたかつての面影を知る人は少ない。現在のスタイリッシュな目黒川沿いを歩いていると、違う街にいるようにも感じる。

駅周辺も変わった。きっかけは、2008年の中目黒駅改良工事と高架橋の耐震補強工事だ。それ以前のガード下には下町の風情を残す飲食店やゲームセンターがあり、周辺にはパチンコ店なども多かった。この気さくな住宅街は、20年ほどの歳月をかけて、変化していったのだ。

線路をはさんで西側は閑静な住宅街。東側は飲食店や雑貨店など小規模な商店が並んでいる。

かつての「中目黒」の面影が見たくなり、駅西側の諏訪山に向かう。武蔵野台地の谷底に位置する目黒川から歩くとかなりの勾配を体感する。明治末期の古地図を見ると、このエリアに「諏訪山」と記載されているが、その由来は不明だという。

諏訪山エリアは、第一種低層住居専用地域に指定されている。格調高い街並みで知られ、著名人が居を構える。
諏訪山の邸宅街には、会社経営者、アーティストなど富裕層の邸宅が多い。セキュリティの高い要塞のような外壁が続く。

東京の名建築のひとつ、目黒区役所

再開発以前と変わらない中目黒を象徴する存在といえば、村野藤吾(1891〈明治25〉年~1984〈昭和59〉年)が設計した、目黒区総合庁舎だ。

1966(昭和41)年竣工。旧千代田生命保険本社ビルで、外壁に当時は珍しいアルミ鋳物フェンスを採用。1969年に国内の建築作品に贈られるBCS賞(第10回)を受賞した。

この建物の設計者は村野藤吾。その名を聞けば、新高輪プリンスホテルや日生劇場を連想する人も多い、戦前から活躍していた著名な建築家だ。都内には村野藤吾の設計による建物が幾つか現存しており、その多くが商業施設のため、一般の人でも中に入ることができた。しかしここは当初、企業のオフィスだったので基本的には入れなかったのだ。その後、目黒区役所となった2003年からは入館が可能になり、建築ファンの“聖地”としても知られるようになった。建物内のおすすめは、街が一望できる屋上庭園・目黒十五(とうご)庭だ。

緑化推進の一環として作られた庭園。ベンチもあり、近隣の人々の憩いの場である。

カルチャーの発信地「目黒インテリアストリート」

中目黒駅から目黒駅まで歩く。地名の「中目黒」エリアを知るために、山手通から1本裏手の中町通りを歩く。庶民的な住宅が続くなか、邸宅が点在するエリアが出現する。いぶかしく思い、検索すると一帯が「大塚山」と呼ばれる高級住宅街だとわかった。斜面を利用した遊具がある大塚山公園があり、かつての古墳跡ともいわれている。

大塚山を過ぎると、目黒通りに出る。この通りを渡れば、地名でいう「下目黒」エリアに入る。通り沿いに軒を連ねるのは、ハイセンスなインテリアショップ。ヴィンテージ家具、照明、ミッドセンチュリー、北欧家具、壁紙の専門店……歩いていると目移りしそうだ。通りの両側に約60店のインテリアショップが点在するこの一帯は「目黒インテリアストリート」と呼ばれている。

照明の専門店。目黒通り沿いの店のショーウィンドーを眺めているだけでも、美意識が磨かれる気がする。

これらの店をつなぐ商業団体が『MISC』(目黒インテリアショップスコミュニティ)だ。2007年に結成されてから店舗や街の情報を発信し続けており、元は富裕層やアーティストなどが好む知る人ぞ知るエリアだったのが、今では感度の高い若者などで連日賑わいを見せている。

土地に刻まれる目黒競馬場の記憶

目黒通りを歩いていると、馬の像が目に留まった。目黒の地名の由来・馬畔(めぐろ)を意味するものかと思ったら違うようだ。

銅像付近には「元競馬場」というバス停と交差点の標識がある。どうやらここは昔、競馬場だったらしい。とはいえ、広大な敷地を要する競馬場と、住宅がひしめくこのエリアはにわかに結びつかない。

信号の標識、バス停名などに土地の痕跡が残る。
信号の標識、バス停名などに土地の痕跡が残る。

調べると、目黒競馬場は1907(明治40)年に開場し、1933(昭和8)年に閉場した、この地に設けられた競馬場だという。閉場後の移転先は現在の府中市の東京競馬場だ。

かつて存在した目黒競馬場は、馬場の1周が1マイル(約1.6km)、総面積64,580坪(約21万㎡)。観覧スタンドは、貴賓室などを設けた3階建ての1号館と、間口が48間の2号館から構成されていたという、競馬場としては小規模な施設だった。

開場してすぐに馬券の販売停止になるなど紆余曲折あったそうだが、馬券の販売が再開されると、レースは盛んに行われ、人気を博していく。そして1932(昭和7)年に現在の「日本ダービー」である東京優駿大競走が開催。あふれんばかりの客が来たという。

目黒競馬場跡の碑。銅像の馬の「トウルヌソル号」(競走成績は24戦6勝)は、昭和初期に活躍した英国生まれのサラブレッド。名前の由来はフランス語の「ひまわり」。

目黒競馬場は徐々に規模も拡大していったが、それと同時に近隣の宅地化も進行。用地不足のほか、さまざまな問題も起こる。増え続ける観客を収容するため拡張が喫緊の課題だったが、広げるどころか、周辺の風紀の乱れによる地元の反対などもあり、存続自体が困難になってしまった。その後、運営側は1933(昭和8)年、春季の開催を最後に目黒競馬場を廃止し、府中に移転した。そしてこの地は現在のような宅地になっていったのだ。

区の散策マップ。写真の左、ピンクにマークされている部分が競馬場があったエリア。コースの痕跡がカーブと直線の道に残されている。
競馬場の面影は、道に残されている。ここは外周通路だったカーブの道。
スタンド側から見て奥側の直線・バックストレッチ側の通路だった道。伸びやかな直線が続く。

鉄道や自動車が普及する昭和初期までは、このあたりは農耕馬や荷馬車も往来していたのだろう。そんなことを想像しながら、競馬場近辺の明治期の地図を見ていると、「日本獣医学校」とある。これは現在、武蔵野市にある日本獣医生命科学大学の前身だったそうだ。

日本獣医学校は、1881(明治14)年創立の日本初の私立獣医学校で、移転したのは競馬場閉場の4年後の1937(昭和12)年。現在、学校の跡地は商店になっている。おそらく昭和初期から住宅地としての開発が加速。獣医見習いたちの実習用とはいえ、牛馬を飼育することが困難になったのではないかと推測した。

ランドマーク「目黒不動」も、目黒の地名の由来

記事の冒頭で、目黒の地名の由来は「馬畔(めぐろ)」と記したが、もう一節が「目黒不動」ともいわれている。この瀧泉寺は、808(大同3)年開山の天台宗の寺院だ。

江戸時代1630(寛永7)年に、徳川家ゆかりの寛永寺の子院・護国院の末寺となり幕府の庇護を受けて発展。江戸三大不動、江戸五色不動のひとつで、庶民の信仰を集めてきた歴史がある。

三間一戸の朱塗りの楼門は、1962(昭和37)年造。さつまいもを江戸に伝えた幕臣であり、“芋神様”の異名で崇拝される青木昆陽の墓があることでも知られている。
山門をくぐると、山王鳥居が見える。これは、本堂裏手にある大行事権現という名の神社の鳥居。天台宗の寺院内に神社が存在するという、このような神仏習合の寺院は今では珍しい。
仁王門付近にある、平井権八と遊女小紫の比翼塚。権八は江戸前期の元武士であり強盗罪で刑死した。彼の墓前で遊女・小紫は自害。この悲恋は歌舞伎狂言や浄瑠璃で取り上げられ「権八小紫物」として大正時代あたりまで人気を博していた。

参道から目黒駅に向かう。落語の『目黒のさんま』の舞台はここにあった茶屋だという話もある。そもそも『目黒のさんま』は、主人公が将軍だったり殿様だったりと、落語家によって異なるので、どこの茶屋がモデルかどうかはあまり気にしなくていいのかもしれない。
目黒でさんまは獲れないが、筍はよく取れる名産地だった。目黒不動の実際の名物は、筍飯や粟餅、飴などだったという。江戸を舞台にした人気歴史小説『鬼平犯科帳』(池波正太郎著)にも、目黒不動尊の「黒飴」が出てくる。

目黒駅側から見た参道の様子。不動尊(下目黒方面)に向かって緩やかな坂になっていることがわかる。
いい香りの煙が流れ、目黒のさんまかと思ったらうなぎ屋さん。調べると昭和35(1960)年創業のうなぎ店で、開店するや否や行列ができていた。

ここから目黒駅方面に歩みを進めていく。行き先は目黒区を代表する高級住宅街のひとつ、長者丸だ。

山手通りを越えると、目黒川にぶつかる。デザイナーズマンションが多い。
『ホテル雅叙園東京』は、1931(昭和6)年に移転した料亭。日本初の総合結婚式場ともされている。“昭和の竜宮城”と絶賛された本館では、さまざまなイベントが開催されており、当時の面影を伝える。

雅叙園から目黒駅に向かうためには、急な行人坂(ぎょうにんざか)を上らねばならない。坂の下は目黒区下目黒。坂の上は品川区上大崎というこの坂は、富士見の名所としても知られている。

江戸時代には、目黒不動や目黒大鳥神社、碑文谷円融寺などの人気寺社の参道としても栄えていた。坂の上からは、遠くに富士山が見えることもある。
歌川広重作・江戸自慢三十六興「目黒行人坂富士」。国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」より

なぜ「目黒駅」は品川区にあるのか

行人坂を上がり、目黒駅に出た。JR目黒駅は1885(明治18)年に開業。目黒駅と名前はついているものの、実際の住所は品川区上大崎に存在する。当初目黒駅は目黒川沿いに建設予定だったが、目黒川沿いの農家が蒸気機関車の煤煙を気にして反対運動を起こし、現在の地になったという。

現在のJR目黒駅。1923(大正12)年に目黒蒲田電鉄(現在の東急)の駅が、2000年に東京メトロと都営地下鉄の駅が開業。東急目黒駅は1997年に地下化した。

目黒駅周辺の品川区上大崎エリア、目黒区三田エリアの一部は「長者丸」と呼ばれる高級住宅街で、城南五山の花房山に位置する。目黒駅から5分も歩かないうちに、周辺が品の良い雰囲気に変わっていくのがわかる。電線もあまり目立たず、街並みも美しい。

高級住宅街の「証し」ともいえるのが、大使館の存在。目黒区三田には写真の駐日ポーランド共和国大使館、駐日アルジェリア大使館がある。

このあたりはかつて農業が盛んだった。江戸初期に「玉川上水」から引かれた「三田上水(用水)」が流れ、飲用だけでなく農業用水として利用が許されていたからだ。この水は明治期には農業だけでなく工業にも使われた。『目黒火薬製造所』(現・防衛省関連施設)では火薬の、『日本麦酒醸造会社』(現・サッポロビール)ではビールの製造にも活用された。この三田上水(用水)は1974(昭和49)年に通水が停止されている。

邸宅街の中に、土地の高低差が激しい部分が出現した。
徳川幕府は1857(安政4)年、千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(えんしょうぐら/火薬庫)を移転し『目黒砲薬製造所』を造る。明治になってからは、海・陸軍の『目黒火薬製造所』になるが、1923(大正12)年の関東大震災の翌年に閉鎖。現在は防衛省の関連施設だ。

歩きながら地図を見ていると「茶屋坂」という文字があることに気づいた。ふと「目黒のさんま」のモデルは、ここではないかとひらめいた。

調べてみるとそのとおりだった。江戸初期、このあたりは狩猟場として知られていた。その坂上の眺望の良いところに1軒の茶屋があり、三代将軍家光は遊猟の帰りにこの茶屋で休憩をしていたという。家光は茶屋の主人・彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたため、店の名前が「爺々が茶屋」になったと伝えられている。

茶屋坂の碑。歴代の将軍や大名が狩猟の際にこの茶屋に立ち寄っていたという。「清水」とあるのは、清冽な水が湧いていたからだ。
初代歌川広重作・名所江戸百景「目黒爺々が茶屋」。国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」より

目黒エリアを歩いて感じたのは、日本の近代の歴史だ。農村の発展には、用水と川、そして馬が必要だった。近代の街の発展には、集客力がある施設や、鉄道と道路が深く寄与した。

そして現代の街の発展には、洗練された環境、利便性と美しさを兼ね備えたデザイン、そして文化が不可欠だ。現在の目黒エリアには、そのすべてがある。これからもますます発展していくだろう。

参考文献

目黒区公式ホームページ
▶︎https://www.city.meguro.tokyo.jp/

MISC公式サイト
▶︎http://misc.co.jp/

日本獣医生命科学大学
▶︎https://www.nvlu.ac.jp/universityguidance/002.html/

天台宗東京教区公式サイト
▶︎http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/6ryusenji/

国立国会図書館 錦絵でたのしむ江戸の名所
▶︎https://www.ndl.go.jp/landmarks/

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