大名と華族、政府高官、財界人が愛した城南五山
「城南五山」と総称されるのは、「花房山(はなぶさやま) 」「池田山(いけだやま)」「島津山(しまづやま)」「八ツ山(やつやま)」「御殿山(ごてんやま)」の5つ。これらの「五山」が擁する邸宅街を順に探訪した。
花房山には、かつて播磨国三日月藩邸と花房子爵の邸宅があった
現在の品川区上大崎3丁目付近を「花房山」という。急坂が多いことで知られる目黒駅付近で、ひときわ高台に位置している。この通りを歩くと、目黒駅の喧騒が遠のいていくのがわかる。すれ違う人も、大型犬を連れた紳士や名門小学校の制服姿の子供たちが目立つように。ほかの土地にはない、豊かで落ち着いた時間を感じる人も多いだろう。
花房山の由来となった花房義質子爵も三日月藩のルーツである岡山県の出身でもあるのは、偶然の一致だろうか。そんなことを考えながら、花房山通りを歩くのもまた一興だ。
古地図を見ると、この一帯は、江戸時代に播磨国(兵庫県)三日月藩の上屋敷だったことがわかった。この優美な名前の藩の開祖は森 長俊(1649-1735年)で、この森一族の有名人といえば、織田信長(1534-1582年)に近習として仕えた森 蘭丸(別名・成利/1565-1582年)だ。実は森家は清和源氏の流れを汲んでおり、優れた為政者を輩出していることはあまり知られていない。この三日月藩も廃藩置県まで9代174年間存続しており、後に森氏は子爵となった。
「池田山」が有する名スポット、池田山公園
「池田山」の名の由来は、1668年にこの地に備前国岡山藩池田家の下屋敷が建てられたことにある。江戸当時の敷地面積は、約3万8000平方メートルだったという。霊峰・富士山が望めるのはもちろん、鴨場もあったというから驚きだ。
昭和初期まで池田家ゆかりの人が居住していたというが、時代の波に呑まれていき、周辺は分譲住宅地として当時の富裕層に売り出されていった。
それでも、池田家の庭と邸宅は残っており、そこに着目した品川区が約7000平方メートルを公園用地として手に入れる。整備を終えて1985(昭和60)年に開園したのが池田山公園だ。ここには下屋敷時代に造られたといわれる池があり、湧き水の中を鯉が悠々と泳いでいる。
ちなみにここは、富士山からの「気」が流れる龍脈上に位置しており、滝や池がパワースポットだと注目を集めている。この公園に赴き、四季折々の美しい花を眺めつつ「気」をいただくという楽しみ方も提案したい。
花の見ごろは、梅(2月中旬~3月中旬)、椿(2月下旬~3月)、つつじ(4月中旬~5月中旬)、花しょうぶ(5月下旬~6月上旬)、あじさい(6月~7月中旬)、紅葉(11月中旬~12月上旬)だという。
池田山といえば、上皇后陛下・美智子さまのご実家・正田邸があったことでも知られている。現在、建物はないが、2004年から跡地を整備し品川区立の公園「ねむの木の庭」として開放されている。
美智子さまが高校生時代に作られた「ねむの木の子守歌」という詩が公園名の由来だ。園内には、ゆかりの樹木や草花約50種が植えられている。
なかでも有名なのは英国品種のバラ「プリンセスミチコ」だ。アプリコットオレンジの高貴で華やかな姿は、春と秋に見ごろを迎える。この品種は、1966(昭和41)年にイギリスのディクソン社から当時皇太子妃であられた美智子さまに贈られた。
この一帯は、空が広く、邸宅街特有のさわやかな風が吹き抜けていく。それは、第一種低層住居専用地域に指定されているからだろう。道も整備されており、車移動のストレスも少ない。住宅地としてのインフラが整っていることも選ばれる理由なのだろう。
ジョサイア・コンドルの名建築が残る島津山
「島津山」に到着した。江戸時代の約130年間にわたり仙台藩伊達家下屋敷だったが、1873(明治6)年に鹿児島県の島津家が引き継いだ。広大な敷地が島津公爵邸となったことで、この名がついた。
この地で最も有名なのは、英国人建築家のジョサイア・コンドル(1852-1920年)が設計した洋館だ。1906(明治39)年に、島津家が当時工部大学校(現・東京大学工学部)建築学科教授だったコンドルに依頼して計画がスタート。このイタリアルネッサンス様式の洋館は9年の歳月をかけて完成する。
館内設備や調度品の指揮は洋画家・黒田清輝が執った。階段の手摺、暖炉の彫刻、ステンドグラスは、ほぼ当時のままの姿で残されているという。
大正天皇・皇后も行幸啓した島津邸も、昭和恐慌や第二次世界大戦の歴史の波に吞まれていく。戦時中に日本銀行に売却され、GHQの接収を経て、1961(昭和36)年に清泉女子大学が買い取り現在に至る。
文教地区と邸宅街は親和性が高い。その後の時代のうねりをものともせず、周辺は邸宅街としての威容を保っている。目を閉じれば明治・大正期に西洋に範をとった和洋折衷の生活様式をする紳士淑女の姿が見えるようだった。
貴顕紳士が好んで住む「八ツ山」の風雅
島津山から「八ツ山」の方向へと歩いていく。現在の品川駅南側一帯を指し、ここには多くの邸宅マンション、プリンスホテル群、そして、三菱開東閣(旧岩崎彌之助高輪本邸)がある。
地名の由来はこの地に“8つの出洲”があったなど諸説あり、活発な都市の雰囲気と、ゆるやかな時が流れる郊外の雰囲気が混在していることが特徴だ。
独自の雰囲気の源泉が気になり、江戸末期の1818年に江戸市中の範囲を定めた「朱引き」と呼ばれる古地図を見る。これは歴史上初めて正式に江戸市域(大江戸)の範囲を示したもので、当時はその範囲内を「朱引内(しゅびきうち)」とか「御府内(ごふない)」などと呼んでいた。
これを見ると、かつての江戸市内の南限は高輪近辺だったが、江戸末期には八ツ山や御殿山を含む南品川エリアまで拡大していることがわかった。
ここから、品川駅に向かって坂を下りていく。一歩進むたびに、屈指のビジネス街たる品川の喧騒に近づいていく。また、品川駅は交通の要所でもあり、新幹線、JR各線、都営地下鉄、京浜急行線ほか、多くの電車が行き交う。羽田空港への所要時間も20分と良好で、都内で有数のターミナル駅となっている。駅舎の住所を確認すると港区高輪3丁目だった。駅名にこそ品川が冠されているが、港区高輪にあるのだ。
資料から目を上げると、駅の南側には高層のオフィスビルが立ち並んでいる。それらのビル群は、明らかに海を埋め立てた低地に林立していることがわかる。八ツ山からの眺望で、邸宅街とビジネス街の境界線を感じることができた。
さて、品川駅の山手線圏側の高輪口といえば、プリンスホテル群で知られる。現在4つあり、1953(昭和28)年開業のグランドプリンスホテルは高輪竹田宮邸、1978(昭和53)年に開業した品川プリンスホテルは毛利公爵邸の跡地に建てられている。
そして、大名屋敷だった土地に、1982(昭和57)年にグランドプリンスホテル新高輪が、1998年(平成10年)にはザ・プリンスさくらタワー東京が開業している。
東京の邸宅街を歩いていると、江戸時代の大名や武家屋敷が個人宅や集合住宅になっていることが多いが、高輪の場合、ホテルや商業施設になっているのは交通の要所だからだろう。
駅から離れれば邸宅街が広がる。八ツ山の北端にあるのは、旧岩崎家高輪別邸である「開東閣」だ。1万1200坪の広大な敷地面積を有する非公開の施設は、周囲を森に囲まれている。
建物を手がけたのは前出のコンドルで、開東閣は1908(明治41)年に完成している。外部からは建物は見えない。
ソニー村といわれた御殿山は再開発のただ中にある
城南五山の最後に“登頂”したのは、かつて「ソニー村」として知られていた「御殿山」だ。地名の由来は、江戸時代に将軍の狩猟の休息所(御殿)があったからだという説が有力だ。
御殿山の地名は、1947(昭和22)年に創業間もない東京通信工業(ソニーの前身)が、東京・日本橋から御殿山に本社を移転したことにより、「世界のソニー、技術のソニー」が開発・販売したトランジスタラジオやウォークマンなどとともに、御殿山の地名は世に広まっていった。
それから60年後の2007年に、ソニーは港区港南の新本社ビル「Sony City」への移転を完了する。跡地は近年は住友不動産が再開発を進め、2022年に大規模オフィスビル「住友不動産大崎ツインビル東館」を開業。現在も一帯は再開発のただ中にある。
ビジネス街でもある御殿山は、邸宅街でもある。この地に1979(昭和54)から2021年まで存在したのが「原美術館」だ。1938(昭和13)年に完成した、実業家の原 邦造(1883-1958年)の私邸を改装しており、戦前の邸宅街の趣を残す佇まいもまた美術作品のようであった。
ほかにも多くの邸宅が存在したが、その多くは集合住宅に姿を変えていった。しかし、それらの近代建築も街の雰囲気を生かした設計がされており、姿は変われども高級住宅街の趣を今に伝えている。
複合施設「御殿山トラストシティ」にあるホテルが「東京マリオットホテル」だ。1990年に開業した「ホテルラフォーレ東京」が、2013年にマリオット・インターナショナルと提携し、東京マリオットホテルとして新たに開業した。
自分自身が海外からの旅行客になった気分でこの地に立つと、品川駅の利便性に改めて気づく。東海道新幹線で京都や大阪に行くことができ、羽田空港まで約20分、成田空港へも約60分で、直通リムジンバスも運行している。
近くには大名庭園の風情もある「御殿山庭園」があり、都会の喧騒と現代の時の流れから解放される。御殿山が多くの富裕層やビジネスパーソンに選ばれてきた理由が腑に落ちた。
さらに、朱引きの古地図を見ながら歩みを進める。御殿山はかつて、桜の名所としても知られていた。現在の桜の名所はどこだろうと、邸宅街を歩く初老の女性に尋ねると「権現山公園」だという。急坂の頂にあるその公園は、集合住宅に囲まれているが、かつて海が見えたことがわかるほどの高台に位置していた。
朱引きの内にある品川神社と幻の「品川県」
ここまで来たら江戸市中の境界まで行ってみようと、「品川神社」まで歩いた。高台にあるこの神社は、源頼朝によって1187年に建てられたという。かつては海が見えたのだろうと思いながら、東側を望む。そのときに、高貴と雑多さが混在する品川独自のおおらかな魅力に気付いた。
「東京と神奈川の間に、品川県という別の文化があるようだ」とひらめき、なんとなしに「品川県」と検索してみた。すると、驚いたことに実際に品川県は存在していた。その期間は廃藩置県の混乱に揺れていた1869(明治2)年から約2年間のみで、まさに幻といえる。
品川県は品川区のほかに、目黒区、大田区・世田谷区、渋谷区、新宿区から多摩地区まで広がる、広大な県だった。もし、存続していたら東京はまた様相を変えていたのではないかと、想像してしまう。
城南五山を歩くと、時代のグラデーションがわかる。そして、土地には人間と同様“徳”があるのではと感じるだろう。よく「あの人は、人徳がある」などというが、城南五山の土地には「地徳」があると感じるのだ。
そんな徳と一緒に、土地の懐の深さや文化を感じながら歩くうちに、この地に居を定めたくなるだろう。
参考サイト
国立国会図書館「近代日本人の肖像」花房義質
▶︎https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/557/
品川区公式サイト
▶︎https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/
港区公式サイト
▶︎https://www.city.minato.tokyo.jp/
品川観光協会公式サイト
▶︎https://shinagawa-kanko.or.jp/recommended_route/jounangozan/
佐用町公式サイト
▶︎https://www.town.sayo.lg.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=727
森家資料調査会
▶︎http://www.spy.ne.jp/~satomako/
岡山県庁「池田山公園(品川区東五反田)岡山藩下屋敷」
▶︎https://www.pref.okayama.jp/page/detail-29236.html
神宮会館「皇族の名を冠したバラ、プリンセスローズ」
▶︎https://www.jingukaikan.jp/rose/princess_roses.html
清泉女子大学
▶︎https://www.seisen-u.ac.jp/shimadzu/
東京都公文書館「江戸の範囲~天下の大江戸、八百八町というけれど」
▶︎https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0712edo_hanni.htm
「グランドプリンスホテル新高輪」開業40周年
▶︎https://www.princehotels.co.jp/shintakanawa/informations/40thanniversary/
開東閣
▶︎http://www.kaitokaku.jp/
ソニーグループ公式サイト「タイムカプセル ソニーを紐解くとあの時代が見えてくる」Vol.8: さらば! 御殿山本社
▶︎https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/capsule/08/
住友不動産 大崎ツインビル東館
▶︎https://office.sumitomo-rd.co.jp/building/detail/shinagawa/osaki_higashi
原美術館
▶︎https://www.haramuseum.or.jp/
五反田バレー
▶︎https://gotanda-valley.com/
国土交通省 関東地方整備局 港湾空港部「東京港の変遷」
▶︎https://www.pa.ktr.mlit.go.jp/tokyo/history/pdf/e-do01.pdf
多摩川流域史研究会 編『多摩川・秋川合流地域の歴史的研究』
▶︎https://foundation.tokyu.co.jp/environment/wp-content/uploads/2011/04/4c7d51a4a7853f2566fb7f64ffec4080.pdf
品川神社
▶︎https://shinagawajinja.tokyo/