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国際色豊かな邸宅街・赤坂が内包する歴史のドラマ
街歩きの風景

国際色豊かな邸宅街・赤坂が内包する歴史のドラマ

ビジネス、政治、文化の中枢として独自に発展した赤坂を歩く

その街に住んでいるように街を歩き、文化、息づかい、地形の起伏などを感じていく連載。今回、歩いたのは赤坂。江戸期は大名の上屋敷街として、明治維新後は政府高官や財界人の邸宅街として発展してきた。
現在はオフィスビルが林立し、多くの大企業が本社を構えている。また、国会議事堂も近く、放送局や劇場も存在している。つまり赤坂はビジネス、政治、文化の中枢なのだ。また、花街の面影を残す繁華街でもあり、独自の伝統が現在も続いている。
繁華街とTBSのイメージの強い赤坂だが、今回は住宅街としての赤坂に注目した。ここは日本で最も住宅価格が高いエリアのひとつなのだ。この街を愛した先人の足跡をたどりながら歩みを進めていった。

Text by Aki Maekawa
Photographs by Nakaaki Fukunaga(ANZ)

邸宅街は歴史の舞台であり、逸話の宝庫

赤坂は1~9丁目までとかなり広く、とにかく坂が多い。高台に瀟洒な邸宅街が、坂の下にはオフィスビルが多い。

地名・赤坂の由来は、諸説ある。有力なのは、現在の紀国坂近辺に茜が多く咲いていたこと。茜坂が赤坂になったという説だ。

江戸期の古地図を見ると、徳川家と縁が深い紀伊、松平などの有力大名の屋敷がズラリと並ぶ。明治時代に赤坂御所ができると乃木希典、高橋是清など政府高官や財界人が居を構えるようになる。

緑の奥に鎮座する、積極的財政の高橋翁

まずは、『高橋是清翁記念公園』から歩き始めた。ここには、高橋是清(1854〈嘉永7〉~1936年〈昭和11〉年)の自邸があった。

彼は大胆な財政政策で知られる明治後期の金融界の重鎮で、アメリカ留学経験もある異色の人物だ。帰国後はさまざまな職業を経験し、1892(明治25)年に日本銀行に入行。その後総裁に就任し、大正から昭和にかけて、大蔵大臣や総理大臣も経験した。

しかし、1936(昭和11)年の二・二六事件で殺害されてしまう。その歴史の舞台となった自邸は1901(明治34)年に完成した。長くこの地にあったが、現在は移築され、東京・小金井市の『江戸東京たてもの園』で一般公開されている。

明治から昭和にかけて活躍した財政家であり政治家の高橋是清の邸宅は赤坂にあった。現在は公園になり遊具も備えた憩いの場になっている。
緑豊かな和風庭園。明治から昭和初期にかけての邸宅の雰囲気を偲ぶことができる。写真左奥に高橋是清の銅像がある。

大使館が多い街で感じる、海外との距離の近さ

国道246号線沿いに歩みを進めると、駐日カナダ大使館の壮麗な建物に圧倒される。旧町名・新坂のエリアのなかでもひときわ広い。古地図を見ると、かつてここは青山子爵の所有地だった。

駐日カナダ大使館の前身は、1929(昭和4)年に開設したカナダ公使館。その後戦争を経て、現在の建物が完成したのは1991(平成3)年。設計は日系カナダ人建築家のレイモンド・モリヤマ氏が手掛けた。

駐日カナダ大使館は公開しているエリアもある珍しい大使館で、「E・H・ノーマン図書館」「高円宮記念ギャラリー」などの施設は特別な許可がなくても利用できる(条件あり)。

東京の由緒ある邸宅街には大使館がある。赤坂エリアには、アメリカ合衆国、バーレーン王国、ジョージアなどの大使館があり、多くの外国人が行き交っている。この海外との距離の近さもこの街の魅力のひとつだ。

駐日カナダ大使館の外観。内装の見どころは、1933(昭和8)年当時の建物で使用されていた建材が流用されているところ。4階の正面玄関の扉などがそれにあたる。
駐日カンボジア大使館に隣接する大使公邸には、壁面に仏像があしらわれており、住宅街に異国情緒を加えていた。

国道246号線をTBS方面に歩こうと細い道に入ると、一転して静かな住宅街が広がっていた。大手不動産会社による最上位のマンションブランドのプレートのある建物が並び、ペットを連れた人々の姿も多く、人が居住しているのだとわかる。

この新坂エリアを歩いていると、人に徳があるように、土地にも徳があることを感じる。穏やかな雰囲気に身を任せて、好奇心の赴くままに歩くことにした。

緑多き邸宅街の清涼な風に誘われて

現在の赤坂8丁目、旧町名・新坂の高級邸宅街には、重厚な建材のマンションが並ぶ。
景観を意識しているのだろう、緑を効果的に使った建物が多い。

新坂エリアを歩いていると、かなり緑が多く空気が清浄であることを感じる。渡る風も心地よく、木々に誘われるように歩いていると、「乃木神社」に着いた。ここは明治期の軍人・乃木希典とその妻・乃木静子を祀った社で、1923年(大正12)年に鎮座祭が行われた。

神社になる前は、木戸孝允の子孫である木戸侯爵の私邸だった。現在は夫婦円満や家内安全、子授けの神社として信仰を集めている。

緑豊かな境内には、結婚式場もあり、神前婚をする花嫁の姿を見かけることも多い。
境内には「乃木大将と辻占売少年像」がある。乃木が貧しい辻占売りの少年を励ましたところ、その後少年は金箔職人・今越清三郎として成功を収めた逸話が由来。この話は戦前の教科書に掲載されていた。

時代が彼らを求めていた……復興期のヒーローの気配

乃木大将は戦前の少年少女の英雄だったのだ……と手を合わせて思いをはせたところ、ふと浮かんだのは戦後の日本人から絶大な人気を誇ったプロレスラー・力道山(1924〈大正13〉~1963〈昭和38〉年)だ。テレビ放送の黎明期に、その試合を見るべく、街頭テレビに集まる群衆の写真には圧倒される。

力道山は実業家としても活躍し、ナイトクラブ経営、レジャー施設の運営など多角的に事業を広げていたが、その多くは歴史に流されるように消えてしまった。

たったひとつ、彼の名を冠した分譲住宅「赤坂リキマンション」が残っている。1963(昭和38)年に販売を開始し、当時の値段で550~1500万円で売り出された。現在の価格だと5000万円~程度だろうか。現在はリノベーションが行われて、根強い人気を誇っているという。

力道山の頭文字「R」が冠された赤坂リキマンション。鉄筋コンクリート製の7階建で、総戸数は46戸。
「赤坂リキマンション」の書体に完成当時の雰囲気が残っている。

高級マンションの時代は、赤坂が発信地!?

再び、TBSに向かって歩くことにした。赤坂リキマンションから薬研坂(やげんざか)に出て、急な坂をひたすら上っていく。

この坂は、赤坂4丁目から7丁目をつないでいる。中央がくぼんでおり、両端が高くなっている地形から、薬研坂と名付けられたという。

坂の中腹から左手に、音楽関連会社「日本コロンビア」の本社があった(現在は移転)。そこから赤坂見附方面に抜ける道は「コロンビア通り」と呼ばれていた。

道沿いの飲食店では音楽家やプロデューサーがしきりに音楽談議を行っていたという。この通りも赤坂の文化の発信地だったのだ。

薬研坂の風景。急勾配のため、積雪時に交通規制がかかることもある。

薬研坂を歩いていると、この近辺にはヴィンテージマンションが多いことに気が付く。

その代表格といえば印象的な外観で知られる、三井不動産の「赤坂パークマンション」(1975〈昭和50〉年完成)だろう。

ほかにも、ライオンズマンション、三菱地所レジデンスの「パークハウス」などが軒を連ねている。いずれもステイタスとしての住宅・高級分譲マンションだ。その歴史はここから広がったのではないかと感じた。

赤坂パークマンションは、雁行型というデザインが印象的。斜めに住戸が連なっており、どの部屋も角部屋のような開放感があることが特徴。

赤坂のランドマーク「TBS放送センター」に到着した。ここは1960年代まで一ツ木町という地名だった。

この地に1893(明治26)年から配置されていたのが、天皇の警護を受け持つ近衛兵(近衛歩兵第三連隊)だ。古い絵葉書を見ると、ここに赤煉瓦造り3階建ての兵舎が存在していた。

関東大震災、第二次大戦を経て、1952年に「ラジオ東京」が開局。1955(昭和30)年にテレビ放送を開始し、1960(昭和35)年に商号を東京放送(Tokyo Broadcasting System)に変更。これが後に放送局の「TBS」になった。

1961(昭和36)年に地上7階建ての「TBS本館」が完成し、本社機能やスタジオが設けられた。「TBSホール」ではイベントや公開放送なども盛んに行われ、大カルチャータウンとして人々を惹きつけていった。

当時を知る人の話を聞くと、一ツ木通りはマスコミ関連や芸能人が多かったという。料亭も多数あったので、政治家、経済人を待つ黒塗りの車がズラリと並んでいた。ナイトクラブでは海外の有名歌手を招聘(しょうへい)し、盛んにショーも行われた。ひと晩で使う金も桁違いだったという。

光が強ければ影もまた濃くなる。街に闇が見え隠れしているような感覚や猥雑さも街の魅力だったそうだ。

街が一変したのは、バブル経済がはじけたこと。そして、1994(平成6)年に現在の「TBS放送センター」が完成したことだ。猥雑さは消えていき、オフィス街として注目されるようになった。周辺にはビルが林立していき、スタイリッシュなビジネスパーソンが闊歩するようになっていった。

カルチャータウンとして注目されるようになったきっかけは、2008(平成20)年に旧社屋跡地の再開発が完了したことだろう。

劇場やライブハウスを擁する複合型エンタテイメント施設「赤坂サカス」がオープン。施設の名前には、エリア内にある100本の桜を「咲かす」と、街にある坂(複数形・坂s〈サカス〉)の意味が込められている。

赤坂サカスから、TBS放送センター(通称・ビッグハット)を望む。このビルは1991年から1994年まで、2年11カ月をかけて造られた。

政治と深くかかわった花街

東京には6つの花街がある。明治時代から発展してきた赤坂は軍や政財界の人々が利用しており、他の花街と一線を画していた。芸者衆も華やかで機転が利き「(赤坂芸者は)牡丹の花」と称されていた。

戦後、どん底から立ち上がり、日本は繁栄に向けて疾走した。政財界の要人は、夜な夜な赤坂の料亭に集い、会合を繰り広げていたという。自他ともに「政界の奥座敷」と言うのも納得だ。

しかし、長く続いた繁栄も、80年代末期には失速していく。最盛期は400人いたという芸者衆も、今は数える程度になった。

しかし、唄や踊りなどの伝統芸能は今もなお生きている。現在も年に1回「赤坂をどり」などのお披露目会が行われており、華やかで艶やかな赤坂の文化を継承している。

街を歩いているとどこかから三味線の音が聞こえてくるのもまた一興だ。

現在も料亭として営業を続けている「浅田」は150年の歴史がある加賀料理の名店。奥の白いビルは、政治の舞台になったグランドキャバレー「コパカバーナ」があった場所。今もビル名としてその名が残っている。
街を歩いていると、料亭を意識した新しいタイプの飲食店をよく見受ける。
オフィスビル「プルデンシャルタワー」がある場所には、東洋一のナイトクラブと称された「ニューラテンクオーター」があり、1959(昭和34)~1989(昭和64・平成元)年の30年にわたって営業した。ルイ・アームストロング、ナット・キング・コールなど世界的ミュージシャンもその舞台に立ったのだ。
江戸城の鎮守として徳川家の崇敬を受けた「日枝神社」。江戸三大祭のひとつの山王祭が行われている。特徴的な鳥居は山王鳥居という。付近のビジネスパーソン、政治家、芸能人などから信仰を集めている。

格式高い神社が集まる街

神社といえば、「東京十社」のひとつ「赤坂氷川神社」は外せない。赤坂近辺には格式高い神社が集まっているのも特徴のひとつだ。

せっかくだから歴史の舞台を通りながら歩こうと古地図を見ながら「山王ホテル」方向に進む。

ここは1936(昭和11)年の二・二六事件の舞台のひとつだ。帝国ホテルと並ぶ高級ホテルで戦禍も免れたが、戦後は連合国軍に接収。その後は在日アメリカ軍の施設になり1983(昭和58)年に返還された。

現在はインテリジェンスなオフィスビル「山王パークタワー」(2000〈平成12〉年完成)がそびえ立つ。

赤坂氷川神社に向かい、再び坂を上っていく。途中の氷川公園は元大名屋敷であり、現在はバラの名所でもある。庶民的な商店なども多く、このエリアは下町の面影を残している。

赤坂氷川神社は、緑に覆われた静謐な神社だ。建立したのはこの地で幼少期を過ごした八代将軍・徳川吉宗。この本殿のほか、『紙本着色神馬額絵・獅子額絵』(狩野豊久)などは都の重要文化財に指定されている。

境内を歩いていると、江戸の趣を随所に感じられる。聞けば、狛犬、石碑、石灯籠は江戸期に造られたものだという。

境内に、「四合(しあわせ)稲荷」というしゃれの効いた稲荷社があった。命名者は江戸城無血開城を実現した政治家・勝海舟。この神社には勝海舟の筆による掛け軸もある。

勝海舟の邸も赤坂にあった……と思いながら、神社をあとにした。

この赤坂氷川神社から檜町公園までの閑静なエリアは、旧赤坂氷川町だ。ここは邸宅マンションが立ち並ぶエリアとして知られている。特に赤坂氷川神社、駐日アメリカ合衆国大使館職員住宅、檜町公園の緑を望むマンションの人気が高い。

赤坂エリアを歩いていると、都心とは思えないほどの緑がある。高級物件のなかには、屋外の景色を絵画のようにとらえて、枠取りするようにしつらえるピクチャーウインドーを設けた建物もあった。

境内の樹齢400年のイチョウの古木は、国指定の天然記念物だ。縁結びに御利益があるとされ、東京三大縁結び神社のひとつだ。
神社を出ると、旧町名・氷川町の高級マンションが並ぶ。低層で重厚感があるデザインが多い。
氷川坂の上に赤坂氷川神社がある。坂の片側に高級マンションが並ぶ。
クランク状の坂が特徴的な本氷川坂。
本氷川坂の案内板。坂が曲がっているために風景がダイナミックに変わる。

江戸城無血開城を成し遂げた偉人もこの街を愛した

幕末のヒーロー・坂本龍馬が弟子入りを志願した勝海舟。その旧宅跡はビルの片隅にあった。

貧しい御家人として出生し、長じて蘭学を学ぶ。安政の改革で才能を認められて幕臣に登用される。

その後、幕府から渡米を命じられ、1860(安政7)年に咸臨丸で渡米し、日米修好通商条約の批准に携わる。

帰国後は、軍艦奉行になるも、幕府の未来を見切っていた勝は、反幕派の浪人たちと親交を持ち、幕府から蟄居(ちっきょ)を命じられる。勝の人生をたどると、その自由さと先見性に驚嘆する。

そんな勝のもとに、1862(文久2)年、土佐藩を脱藩した坂本龍馬が勝のもとを訪れた。龍馬は勝を暗殺するつもりだったが、すっかり勝に魅了され、その場で弟子入りを志願したという逸話がある。

勝海舟は1859(安政6)年から1868(明治元)年までをこの地で過ごしていたというから、この地の土を龍馬は踏んだのだ。

その後、明治政府の枢密顧問官などを歴任した勝は、赤坂の地を愛し満75歳で亡くなるまで住み続ける。終焉の地は、ここからほど近い赤坂6丁目だ。

勝海舟が36歳から45歳まで住んでいた場所には碑が立っている。この時期に江戸城無血開城を果たしている。

四季の変化と最新カルチャーを堪能

アートイベントが行われ、ハイブランドのポップアップショップなどが開催され、行くたびに刺激を受ける施設「東京ミッドタウン」( 2007〈平成19〉年完成)も赤坂にある。

隣接する「檜町公園」は、江戸時代は毛利家の屋敷があり、明治時代には、第1師団歩兵第1連隊の駐屯地であった。戦後は米軍の接収を受け、その後、防衛庁があった。

公園としての歴史は古いが、東京ミッドタウンの開発に伴い、景観をリニューアル。日本庭園の趣がアーティスティックな遊具と調和している、スタイリッシュな公園に生まれ変わった。

檜町公園からミッドタウンを望む。写真の滑り台は“風景をつくる彫刻家”として知られる高須賀昌志氏。『SANJIN やまのかみさま』という名前がついている。
檜町公園の芝生広場。開放的で空が広い。
公園からタワーマンションを望む。

赤坂の街を歩いていると、重層な歴史に圧倒される。この街で政治、経済、文化、情報、人物が行き交っていたのだ。これからどのような時代になるのだろうか。赤坂を愛した先人たちの背中を見ながら、この街を歩いていくのもまた一興だろう。

参考文献

港区ホームページ
▶︎https://www.city.minato.tokyo.jp/

港区立郷土歴史館
▶︎https://www.minato-rekishi.com/

江戸東京たてもの園 高橋是清邸
▶︎https://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk0828/

駐日カナダ大使館
▶︎https://www.ca.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html

月刊「事業構想」
▶︎https://www.projectdesign.jp/201904/creativeaoyama/006227.php

東京赤坂組合
▶︎https://akasaka-geisha.com/

乃木神社
▶︎https://nogijinja.or.jp/

大林組 TBS放送センター
▶︎https://www.obayashi.co.jp/works/detail/work_58.html

日枝神社
▶︎https://www.hiejinja.net/

赤坂氷川神社
▶︎https://www.akasakahikawa.or.jp/

『力道山―空手チョップ世界を行く (人間の記録)』力道山 光浩著 日本図書センター

『東京アンダーナイト』山本信太郎著 廣済堂出版

『赤坂ナイトクラブの光と影 「ニューラテンクォーター」物語』 諸岡寛司著 講談社

『氷川清話』 勝海舟著  講談社学術文庫

『勝海舟と江戸東京』樋口 雄彦著 吉川弘文館

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