市ヶ谷から飯田橋にかけて江戸城外濠の風景を今に残す牛込濠。それに沿う外堀通りを住宅街へ続く逢坂に向かって左に折れると、「アンスティチュ・フランセ東京」が現れる。施設内の庭園に続く入り口(取材時は工事中のため閉鎖)から石積みの擁壁(ようへき)を見上げると、せり出した屋根とユニークなバルコニーの柱からなるモダンな建物に目を奪われることだろう。逆円錐状に広がる柱頭はギリシアの神殿を思わせ、白い壁に並ぶ柱の青が強い印象を与える。近代建築の巨匠、ル・コルビュジエに師事し、戦後日本の建築を支えた建築家、坂倉準三による名作建築だ。
1952年に「東京日仏学院」として創立された「アンスティチュ・フランセ東京」は、フランス政府の公式機関として日仏文化交流を図る施設だ。2012年にフランス大使館文化部、横浜日仏学院、関西日仏学館、九州日仏学館と統合し、「アンスティチュ・フランセ日本」の東京支部となった際に現在の名称に変更された。
館内ではフランス語講座をはじめ、フランス映画の上映、コンサート、演劇やダンス、展覧会、講演会などの文化イベントを開催するほか、図書館や書店、レストラン(取材時は建て替えにより休業)、カフェ(取材時は新型コロナウイルス感染拡大予防のため休業)などを有し、フランス文化に関心を持つ人々に広く門戸を開く。自ずとフランスを愛する人々、そして日本で暮らすフランス人が集う場となった。「アンスティチュ・フランセ東京」から程近い神楽坂はフランス人が多く暮らす街としてよく知られるが、その始まりに「東京日仏学院」があるとも言われる。
開校から愛される建物が完成したのは1951年のことだ。「東京日仏学院」が坂倉に設計を依頼した経緯は明らかではないが、ル・コルビュジエの門下生であること、そして1937年に開催されたパリ万国博覧会日本館の設計で建築部門のグランプリを受賞した経歴が評価されたであろうことは想像に難くない。なにより戦後日本の建築をリードした坂倉が建築を学んだのは、フランス・パリでのことであった。
岐阜県羽島郡の造り酒屋に生まれた坂倉は東京帝国大学(現東京大学)文学部美学美術史学科に進学し、中世の美術史を学ぶうちに建築に関心をもつようになる。ル・コルビュジエに師事したいと心に決め、卒業後の1929年に渡仏。現地の専門学校で建築の基礎を学んだ後、1931年から1936年までル・コルビュジエのアトリエに勤務した。坂倉はル・コルビュジエの代表作「サヴォア邸」の完成にも立ち会い、主要なスタッフとしてプロジェクトに参加するが、実家からの要請で日本に急きょ帰国。しかし半年も経たぬ間にパリ万国博覧会日本館を建設するために再び渡仏している。現地で建設管理業務を行うはずであった坂倉が諸事情から日本館を再設計することになり、完成した日本館は国際的に高い評価を受けることとなった。
完成後もル・コルビュジエの事務所で都市計画の策定に携わった坂倉は、フランスから再び帰国した翌1940年に坂倉準三建築研究所(現・坂倉建築研究所)を設立する。本格的な設計活動を望めるはずもない厳しい戦中を経て、終戦後に本格始動するなかで生まれたのが「東京日仏学院」だ。同時期に戦後モダニズム建築の傑作として名高い「神奈川県立近代美術館」(1951年11月竣工)も手掛けている。
1950年、語学学校として開設申請の許可が下りた「東京日仏学院」は同年12月に着工している。この工事で建てられたのが、逢坂に面する南側の建物、そしてそれとL字型に直交する棟の一部だ。そこは複数の教室、ホール、事務所、そして最上階に学院長の居住スペースが配置された。朝鮮戦争の影響による建設資材の不足から工事は遅れ、円形オーディトリウムは将来の増築に回されたものの1951年9月に完成する。
いまも牛込濠を挟んだ向かいの千代田区側にある外濠公園から「アンスティチュ・フランセ東京」を眺めると、建物は丘に浮かぶ白い船のように見える。完成時は周辺に建物も少なく、おそらくその印象がより強かったはずだ。梁のない薄いコンクリート製のフラットな床スラブと建設当時から現存する木製サッシのカーテンウォール。スラブを支えるのは、坂倉自身がその形からフランス語でキノコを表す「シャンピニオン」の愛称で呼んだ柱の数々だ。柱頭部分が膨らんだ柱を、坂倉は後の家具にも応用している。この構成はル・コルビュジエが唱えた「近代建築の五原則」を実現したもののように思う一方、障子や襖が連なる日本の建築をも想起させる。
また、この建物で多くの建築ファンを唸らせるのが二重のらせん階段を収めた塔の存在だ。開校当時は最上階に学院長の居住スペースがあったため、生徒が使う階段と分けるために二重の階段を採用したのだろうとされる。上の写真中央の床左手が裏階段への入り口だ。トップライトが差し込む明るい階段の裏にもう一つの階段が隠されているとは、なにも知らなければ気が付かないのではないか。
また、角を落とした三角形状の平面形は「おにぎり」や「かまぼこ」を思わせる愛らしいものだが、これは坂倉が設計したかつての東急東横線渋谷駅ホーム上に立っていた目隠し壁とよく似た意匠である。坂倉の建築にしばしば登場する形は現在、「渋谷スクランブルスクエア」と「渋谷ストリーム」をつなぐ通路に再現されている。
外観のどこか日本的な佇まいに加え、ここでもさらにル・コルビュジエから学んだモダニズムを備えながら、アール・ヌーヴォー的な曲線の装飾的優雅さをも織り込むところに坂倉の手腕が見られる。坂倉の作品はいずれも、外から眺めた佇まい、入り口から足を踏み入れて室内へと広がっていく空間、椅子やドアノブに至るまで、空間のあらゆる体験をなめらかに連続させていく。
坂倉は事務所を開設した1940年、近年国際的な再評価が進むフランス人デザイナーのシャルロット・ペリアンをいち早く日本に招聘している。坂倉と彼女はともに工芸や民芸の世界に触れ、坂倉自身が事務所内に工房をもつきっかけともなった。戦後は自ら三保建築工芸を設立して家具づくりに邁進したほか、山形県の家具メーカーである天童木工とも協働して椅子を作るなどし、日本の家具の在り方を追求した。建築にまつわる包括的な視点こそ、坂倉がル・コルビュジエに学んだ最も大きな点であったのかもしれない。
坂倉は同時期に進めた「神奈川県立近代美術館」の完成以降、自ら図面を描くことがなくなったという。自ら鉛筆を動かすのではなく、所員の図面を徹底的に読み解き、議論を重ね、修正を重ねさせ、設計を進めるようになっていった。それと同時に坂倉の視点はより広くなる。住宅、公共施設、商業施設、家具デザイン、展示構成、そして都市計画に至るまで大小さまざまなスケールのプロジェクトを形にしていくことになるのだ。先に触れた渋谷駅の総合的な開発、新宿西口の広場や小田急百貨店本館など、知らずとも多くの都民は坂倉とその所員が描いた線の上で暮らしているのだ。パリからの帰国後、すぐに戦時体制となった日本では本格的な活動ができなかったため、再活動後の初期作品にあたる「東京日仏学院」は「神奈川県立近代美術館」とともに、坂倉がより広い視点をもつ時期への橋渡しとなる名作と言いえるのではないか。
4つの教室でスタートした「東京日仏学院」は、開校から10年足らずで生徒数が開校時の10倍以上に増えていった。それを受け、1960年には坂倉による拡張工事が行われた。そこでは増床による教室数の追加、図書室の移設、そして当初計画されながら実現しなかった多目的ホールの新設が行われた。ホールの存在は現在の「アンスティチュ・フランセ東京」における多彩なプログラムにつながっている。
坂倉による増築後は、1994年にのちに建築設計事務所「みかんぐみ」を創設するマニュエル・タルディッツと加茂紀和子が多目的ホールを映画館へと改修するなどの改装改築を行う。2004年にはデザイナーのクラウディオ・コルッチが1階エントランスホールとカフェを改装。さらに2021年の完成を目指して、世界的に活躍する建築家の藤本壮介が敷地内に新たな増築と改修を進めている。
坂倉がフランスで得たエスプリは脈々と受け継がれ、建築というよりも一つの共同体となって、さまざまな人々がバトンをつないでいる。それは建築家やデザイナーに限らず、ここでフランス語を学び、書店で本を探し、カフェでおしゃべりを楽しむ人々も含まれる。坂倉は建築を通して、街をつくり出すということを、なによりル・コルビュジエから受け継いだのだろう。
坂倉の「神奈川県立近代美術館」は保存運動もあり、「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」として新たなスタートを切った。坂倉が数々の建築で構想した渋谷駅も再開発が進むが、その一部にはいまも坂倉の意匠や思いが見られる。坂倉の真骨頂は、常に人に寄り添う空間をつくり上げてきた点にある。そうした意味で「東京日仏学院」はやや小ぶりな作品かもしれない。だからこそ、坂倉の優れた造形力、そして後世につながるさまざまな仕掛けを純粋に見つけ出すことのできる建築といえる。現在の工事を経て、そこに立ち上がる姿を楽しみに待ちたい。
取材協力
アンスティチュ・フランセ東京
▶︎https://www.institutfrancais.jp/tokyo/
参考文献・資料
『大きな声──建築家坂倉準三の生涯[新装版]』(鹿島出版会、2009)
『建築家 坂倉準三 モダニズムを生きる|人間、都市、空間』(建築資料研究社)2010年
『建築家 坂倉準三 モダニズムを住む|住宅、家具、デザイン』(建築資料研究社)2010年
『坂倉準三とはだれか』(松隈洋著 王国社)2011年