2000年代前半のパリで見つめた、過渡期のモード界
ひとつの作風に固執せず、1作毎にスタイルを変える小説の数々が高い評価を得るほか、自分自身のことや他人との関係を考え直すために「分人」という新たな概念を提唱した『私とは何か 「個人」から「分人」へ』や、誰もが日常的に使う“カッコいい”という概念について多角的に考察した『「カッコいい」とは何か』といったエッセイも話題を呼んできた、小説家・平野啓一郎氏。5月26日には、29歳の主人公が事故死した母のヴァーチャル・フィギュアを製作する中で母の本心を探ろうとする、近未来を舞台にした新聞連載小説『本心』が単行本として刊行され、ますますその発信に注目が集まっている。
多様な文化芸術に精通していることでも知られている平野氏がファッションに興味を持つようになったのは、2004年に文化庁の文化交流使として1年間パリに滞在したことがきっかけだったという。
「パリではカメラマンやスタイリストのようなモード関係者と友達になったんですが、彼らから聞く本場のモードの話が面白かったんですね。ちょうど “リアルクローズ”※が大ブームになっていた頃で、それに彼らは戸惑っていた。90年代以降、LVMHやグッチ・グループ(現ケリング・グループ)、リシュモンなどによる老舗ブランドの買収合戦がそのブームを後押しし、グローバリゼーションとともに、モードがビッグ・ビジネス化していった時期でした。
※“リアルクローズ”……日常でも着やすい服。フィービー・ファイロがクリエイティブ・ディレクターに就任したクロエやトム・フォードなどが当時の代表格。
1988年にアメリカ版『ヴォーグ』の編集長に就任したアナ・ウィンターによる“セレブ路線”※も、モード業界に大きな影響を与えていましたね。マスの中でどうクリエイティビティを発揮していくかという問題は、00年代に僕が文学を通じて考えていたことと重なるところもあり、それで興味を持ち始めたんです」
※“セレブ路線”……スーパーモデルを使い、スタジオでシーンを作り込んで撮影するスタイルから、ヘアメイクもナチュラルなストリート撮影へ移行。表紙にも女優を起用して話題に。
アルベール・エルバスが表現した、本物のエレガンス
奇しくも平野氏がパリにいたのは、2002年にイヴ・サン=ローランが引退し、モード界でひとつの時代が終わろうとしていた時期。また、リアルクローズ人気の一方で、2000年にディオール オムのクリエイティブ・ディレクターに就任したエディ・スリマンがカリスマ的な存在感を放っていた頃でもあった。
そんな時代において、「モードの最もオーセンティックなエレガンスを受け継ぎながら気を吐いていた」のが、今回平野氏が“偏愛名作”として持参したコートのデザイナーで、当時ランバンのアーティスティック・ディレクターを務めていたアルベール・エルバスだった。2021年に入って新ブランド「AZ Factory」を始動させた直後に急死してしまった彼を、平野氏は以前より高く評価。2030年代が舞台の小説『ドーン』(2009年)には「アルベール・エルバスのきらめくように美しいパーティー・ドレス」を登場させるほどのエルバス好きとして知られている。
「これは2010-11年秋冬シーズンのランバンのパリ・メンズ・コレクションに登場したコートですが、今でも好きで着ています。僕はエルバスと、当時バレンシアガにいたニコラ・ジェスキエール(2013年よりルイ・ヴィトンのウィメンズ・コレクション アーティスティック・ディレクター)の2人が、あの時代のモードを牽引していたと思っています。あとは別角度からラフ・シモンズも。
当時はエディ・スリマンの評価がもの凄く高かったのですが、僕はちょっと懐疑的だった。彼がスタイリスト的な発想で過去のファッションアーカイヴをリファインしたのは確かにカッコ良かったけれど、60年代、70年代……と辿ってきて、90年代まで行ったところでその先がわからなくなって、ディオール オムを辞めてしまった。もやもやしたものを感じました」
「それに対して、エルバスやジェスキエールからは“新しいものを作っている”という鮮烈さがありました。特にエルバスはインタビューで『女性はますます困難な時代に生きているから、自分の服を通じて守られなくてはいけない』と語るなど、その発言も魅力的だった。彼はリアルクローズ時代にあっても、ハードなアクセサリーとアシンメトリーな構造などを使って独自のエレガンスを表現していました。黒を基調にしたカラーリングも含めて、とにかく好きでしたね」
“当たり年”のコレクションを着続ける、という選択
エルバスは2015年にランバンを辞めているが、それに合わせて平野氏のモードに対する関心もすっかり下がってしまったそう。
「暫くの間は“もう着るものなんてどうでもいい”という感じでした。今は2018年にキム・ジョーンズがアーティスティック・ディレクターに就任したディオール オムや、2018年からリカルド・ティッシがチーフ・クリエイティブ・オフィサーを務めるバーバリーなどを着たりしてますが、まあ、気分次第で何でも、色々ですね」
モードの最先端を常にチェックする一方で、平野氏はデザイナーのコレクションには「ワインと同じで、ずっと見続けていると当たり年とハズレ年がある」と言う。常にクオリティの高いコレクションを発表していたエルバスの中でも、メンズラインの当たり年は2010年、ということになるようだ。
「“去年の方が明らかにカッコ良かったのに、今年のものを着なきゃいけない”という時代は、もう終わりじゃないでしょうか。これからはそれぞれが当たり年と考えるものを着続ける、という態度が、ファッション通のカッコいいあり方として認識されるようになっていくと思います。デザイナーも毎年消費されて終わり、というよりいいでしょう」
過去のコレクション(=ヴィンテージ)を長く所有して着続けることは、コレクション毎に服が大量廃棄される問題などの解決策のひとつにもなる。ただ、モードのクリエイティビティを考えた時には難しさも。バーバリーのトレンチコートのような定番でさえ、そのフォルムは毎年ミリ単位で見直されている。
「僕はそれにこだわるという文化自体は好きですけどね。それで印象が変わるし、それがクリエイティブだということをどうでもいいと否定するのは野暮ですね。新しい〝当たり年〟も期待していますし」
さて、ファッションにおける“カッコよさ”には、多分に“他人からどう見られるか”という要素が含まれている。平野氏も「小説家としてどう見られるかは意識している」と言う。
「きょうはランバンのコートの話なので、中も舞台衣装のような服で来ましたけど、普通の取材や講演会の時などにコレクションのランウェイから出てきたような格好をすると、やっぱりチグハグですよ。シリアスな話をすることも多いですし。あんまり保守的でも面白くないし、カッコいい服を着たいな、という欲求と、その時々の状況との間でバランスを考えます。2012年に発表したエッセイ『私とは何か 「個人」から「分人」へ』以来、僕が提唱している『分人主義』は、“人間は対人関係毎に変わるし、その全部が自分だ”という思想ですが、服も複数の分人ごとに合わせて変えている、という感じでしょうか」
心地いいと感じる自分でいられる空間づくりを
一方、家というのは基本的には自分や家族のためのものであり、そうそう人に見せるものではない。住環境における“カッコよさ”や、自分の美意識を満足させることのできる空間の条件について、平野氏はどう考えているのだろうか。
「『分人主義』に関しては、『私とは何か』を書いた頃よりも今はもう少し、対人要因と環境要因を整理して考えたほうがいいと思っているんです。一人でいる時の自分ですら、環境次第で変わる。例えば、各部屋に露天風呂がついているような豪華な温泉宿に泊まって、一人でシャンパンを飲みながら過ごしている時と、寒空の下で、一人で公園にいる時とでは、同じ一人の時間と言っても、物の感じ方や考え方まで何もかもが違うはず。そういう意味で、僕が住空間において目指すところは、“心地いいと感じられる自分になれる環境”かな、と思います」
心地よさの基準は人それぞれだが、平野氏にとっては「調和の取れた空間」だという。
「デザイン的に気に入って買ったものを部屋に置き始めると、とたんに“使えればいいや”と思って適当に買ったポットとか炊飯器とかが気になってきます。美意識は、そういう一点から始まっていくと思いますね。あと、引っ越したりリフォームしたりすると、すぐに最高の部屋にしたくなりますけど、その時にかき集められるもので空間を構成すると、何か取ってつけたようで深みがない。やっぱり10年、20年と経った時に、“この置物はあそこに旅行に行った時に買ったもの”みたいなものが揃ってくると、良い記憶とブレンドされて、自分にとって住み心地のいい場所になるのだと思います」
自宅は2008年の結婚を機に住み始めた都内のマンション。「本とCDだけで段ボール300箱もあって地獄を見た」そうで、それ以来転居はしていない。「とはいえ、手狭になってきているので、常に100㎡超のマンションの情報はチェックしています」という平野氏にはひとつ不満があるそうで、「都内のそういう物件って、とにかくリビングが大きすぎるんですよね。150㎡あっても2LDKとか。コロナで皆さん実感したと思うけれど、絶対、自分一人になれる部屋、考えごとしたり、社会と繋がったりするための個室は必要だと思います」と熱弁を振るってくれた。
クリエイティブな要素が住環境にもたらす効果
「小さい子どもが2人いるからクールなインテリアを維持するのは不可能」と笑う平野氏だが、家具にも並々ならぬこだわりがある。
「フィリップ・スタルクの椅子は、デザインはエキセントリックだけどどれも座りやすいので愛用しています。ダイニングでは木とプラスティックを組み合わせたマルセル・ワンダースの『Babel Chair』も使っていますが、彼のデザインも好きです。」
「マルセルは黒くて大きな額縁のような鏡を発表しているんですが、昨年それをリビング用に購入しようと考えたんです。ただ、その鏡がものすごく重く、巨大で、大規模な壁の補修工事をしないと設置できないと言われたので、インターネットで、もっと小さな古いアンティークの鏡を買って、ベランダで黒く塗り、同じくインターネットで見つけた鏡屋さんで鏡もカットしてもらって入れ替えてみました。そしたら、けっこううまくいって、サイズは我が家のリビングにぴったりだし、これでいっかと、気が済みました(笑)」
いいデザインの家具の魅力について、平野氏は「いい服はデザイン的にかなり凝っていても結構着やすかったりしますが、いい家具もそうで、一見変わったデザインでも使い心地がいい」と言う。
「ヘリット・リートフェルトが1917年に発表した、『レッドアンドブルー』という椅子がありますが、僕は板だけで構成されたあの椅子でさえ、その座り心地の良さに感動しました。すごいデザイナーはそういうことがわかって作っているし、名作が名作たる所以はそこにあると思うんです」
「クリエイティブなものに囲まれていたいという気持ちは常に持っています」という平野氏。それは小説でも、アートでも、家具でも、もちろん洋服でも同じだ。
「僕はデザイナーじゃないけれど、素晴らしいクリエイターが作ったデザインを見ていると、『やっぱりこういうものを作らなきゃいけないな』と思います。インターネットをずっとやっていると、程度の低いものに触れる時間が多くなりますから、そうすると感性が摩耗してきます。意識的にいい文章を読んだり、いいアートに触れたり、ハイエンドなデザインに触れたりする必要を痛切に感じます」
――奇しくもこのインタビューの後に、新型コロナウイルス感染症による、アルベール・エルバスの訃報が伝えられた。改めて平野氏にコメントを求めると、「本当に残念です。長い沈黙を得て、ようやく新しいことを始めようとしていた矢先で、僕もネットで『AZ Factory』の動画を見て、ワクワクしていたところでしたので。彼の作った素晴らしい服の数々は、今後も大事に着たいです。ご冥福をお祈りします」と返信があった。
『本心』平野啓一郎
文藝春秋
定価:1,980円
発売日:2021年5月26日
北海道新聞、東京新聞、中日新聞、西日本新聞にて2019年9月から2020年7月末まで連載された長編小説の単行本化。AIや仮想空間がより身近になった近未来の日本を舞台に、最新技術を使って生前の母そっくりのヴァーチャル・フィギュアを製作した息子が、「自由死」を望んだ母の“本心”を探ろうとするが――。
▶︎https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163913735
profile
1975年愛知県蒲郡市生まれ。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年、大学在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞、40万部のベストセラーに。著書に『葬送』『決壊』『ドーン』『空白を満たしなさい』『マチネの終わりに』『ある男』などが、またエッセイ・対談集に『私とは何か 「個人」から「分人」へ』『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』『考える葦』『「カッコいい」とは何か』など。多くの作品が各国で翻訳紹介されている。『マチネの終わりに』は2019年に映画化、累計58万部超のロングセラーに。
▶︎https://k-hirano.com/
撮影協力:the C
▶︎https://www.the-c.tokyo/