源泉をそのまま客室に届けるというこだわり
山形県は温泉の豊富な県だ。なかでも赤湯温泉は米沢街道の宿場町として栄えた湯の町で、開湯から930年余という長い歴史を誇る。平安時代後期の寛治7年(1093年)、奥州統一を担った源 義家が戦をしていたとき、同行していた弟・義綱によって発見されたという。
温泉町としての規模はそれほど大きくない赤湯温泉だが、近年温泉通やグルメたちの話題になっている宿が、創業110年の「山形座 瀧波(たきなみ)」だ。昨年は「ミシュランキーホテルセレクション2025」を受賞。全室にぜいたくな露天風呂が配され、地元で採れた豊かな山海の幸に舌鼓を打つことができる、山形の魅力を存分に味わえる宿である。
現在、ゼネラルマネージャーとしてこの宿を取り仕切る須藤宏介さんと、宿のブランディングディレクターを務める弟の須藤 修さんが、叔父である南 浩史氏(山形座 瀧波社長)と共に宿をもり立てている。
そう聞くと順風満帆にここまで来たような印象を覚えるが、2011年の東日本大震災をきっかけに客足が遠のき、売り上げは低迷。2014年には民事再生法を申請。再建をかけてフルリニューアルを決意し、2017年8月に新たなスタートを切った。
110年の看板を継続するために、兄の宏介さんは「赤湯温泉の個性をお客さまに楽しんでいただくこと」をまず考えたという。
「温泉は、川が流れる谷あいや、山の奥、あるいは海の近くなど、起伏が激しいところに湧くことが多いですが、赤湯は町場の温泉です。もともとは田んぼの真ん中からお湯が湧き出て、そこに町ができ、街道が通ったそうで、なかなか珍しいケースのようです。赤湯温泉は非常に良質な含硫黄ナトリウムカルシウム塩化物泉で、湯上がり後も体の芯からぽかぽかと温かさが続く“温まりの湯”として知られています。こうした大地の恵みを享受できるのは、とてもありがたいことです」
瀧波では「生まれたての十割温泉を届ける」という命題のもと、湯守(ゆもり)専門のスタッフが常駐している。源泉から地下の配管を通って各客室に配湯される湯を、一度も外気に触れさせず、加水、加温も一切せずに、そのまま19室の湯船に送っている。
「温泉は生きものです。香り、ぬくもり、肌触り、湯が持ち合わせる源泉そのままの個性すべてを全身で感じていただけるよう、温度を調整するために沸かしたり水を加えたりということはしません。源泉の温度は約60度ですが、地下を通って宿に来る頃には50℃程になります。この高温のお湯を外気に触れさせず、直接各浴槽へ注ぎます。浴槽に入る湯は一日中絶え間なく配湯されます。山形は一日の気温差も大きいので、風や日差し、湿度などの要素をすべて加味して湯守が一部屋ずつ温度の調整をしています」
海外での経験で見つめ直した、旅館経営の本質
東京駅から赤湯駅までは、山形新幹線を利用すれば約2時間20分で来ることができる。「宿泊されたお客様から、朝食を食べてから東京に戻っても、午後から仕事ができてありがたい、というお話をいただきます」と宏介さん。そんな現代的な要求に、海外経験が長く、グローバルな視点を持つ宏介さんの力は不可欠だったのだろう。
「高校までは山形県内に住み、留学準備のため東京で過ごした後、3年ほどアメリカに留学しました。西海岸のシアトルにいたのですが、当時ちょうどシアトルマリナーズでイチロー選手が活躍していた時代で、日本に興味を持っている人が多かったですね。でも、『実家の旅館ってどんな感じ?』と話題にしてくれても、当時は明確に答えられないこともありました。自分にとっては当たり前の環境でしたが、『それって特別だよ、もっと誇ったほうがいい』と言われることもあり、旅館が多くのお客様に愛される理由について、もっと深く知りたいと感じるようになりました」
外から日本とアメリカそれぞれのよさ、そして日本特有のホスピタリティについて思いを巡らせたという宏介さんは、帰国後、旅館の経営に携わるようになった。そのなかで感じたのは、愛を持って仕事をすることの大切さだという。
「実際に携わってみると、この仕事は好きでないとなかなか続けられないと感じます。一期一会でさまざまな方と知り合うことが好きで、日常を離れて来られるお客様が、心身をほぐして『ああ、ここに来て本当によかった』と思っていただけることに喜びを見出すことができれば、最高によい仕事だと思います」
家具の名品を組み合わせた、モダンな空間作り
この宿のアイデンティティを確立するうえで、宏介さん同様、重要な役割を果たしているのが弟の修さんだ。
「兄とは違い、私はこれまでずっと山形県内に住んでいます。だからこそ、国内外へ旅に出ることや、雑誌、WEBメディアなどを通じて、日本各地、海外の魅力あるデザインやものづくりに強く惹かれていました。今は、そのものさしを片手に持っているからこそ、山形をさらに深く知ることができているのかなという感覚があります」
兄も弟も山形に根を残しながら、おのおののやり方で枝葉を広げ、いろいろな土地から養分を取って大きく育っていったということなのだろう。
「中学生くらいまでは、“瀧波の息子”というラベルが自分に貼られているような感覚がありました。今思うと自意識過剰だったかもしれませんが、俺は俺だ、みたいなちょっとした反抗心が思春期にはありました。パンクロックが好きになり、その後、家業とは関係のない自分の道を行きたくて、興味のあったデザインやインテリアの道に進みました。進学した東北芸術工科大学の3年生のときに島根で開催されたCity Switchという国内外の建築家によるプロジェクトに、建築の院生に交じって参加させていただきました。オーストラリアや韓国など海外の学生も多く参加していて、このことから、自身にとって地方の見え方が変わる経験をしました。それを経て、『もともとあるものを活かすデザイン』という視点が生まれ、大学4年時から建物と一緒に捨てられてしまう家具をデザイン視点でリペアする事業をスタートしたんです」
瀧波にさまざまな家具の名品があるのは、修さんの見立てがあってのこと。ロビーラウンジには、デンマーク・デザインの第一人者であるアルネ・ヤコブセンが1958年に生み出した傑作「スワンチェア」や天童木工の「カブトチェア」が色とりどりに花を添える。また、客室にも北欧デザインやミッドセンチュリー、イームズ、天童木工などの名品家具が新品、ヴィンテージ品ともに分け隔てなく配され、趣のある古民家建築にモダンなテイストを加えている。
移築した家屋の個性を引き立てる、素材を生かす修繕
県内外で商業施設や家具のデザインディレクションなど多彩な活動を展開する修さんは、家具のリペア(修繕)も山形県内の職人と共に継続して手掛けている。
「家具を直す際、全部きれいにするという方法もありますが、たとえばおじいちゃんから受け継いだからこその痕跡や、自分が子どもの頃につけた疵(きず)など、それぞれをその家具がもつ歴史としてあえて残し、記憶をつなぐという提案もしています。また天然素材を用いて建てられたもの、作られたものは、いつの時代でも同じ素材が手に入り、補修しやすいという利点があります。この宿も、石、木材、土、藁などで造られた家屋を移築し、修繕をしています」
「毘龍軒(びりゅうけん)」と呼んでいる母屋は、築400年程の上杉藩の庄屋の曲がり屋を移築したもの。ロビーの床材は木目を生かした山形産の杉板で、冬は暖かく、夏は涼しい。客室は、もともとは蔵だったものをメゾネットタイプの客室にした「KURA」が7室、古い校舎を移築し改装した「SAKURA」6室と「YAMAGATA」6室。西側の「SAKURA」は中庭の大きな桜の木を望むことができ、東側の「YAMAGATA」は山側の景観と、山形で生まれた名作家具に浸ることができる客室だ。
「半沢藩の屋敷だった建物の1階部分をスイートルームとして使っている『KURA01』からは130㎡の庭と大きな桜の木を望むことができます。1階にある客室には、それぞれ蔵王石をくりぬいた風呂を設置。“油石”とも呼ばれる、油を塗ったようなしっとりとした鈍い光沢を持つ石で密度もあり、水分を保つには抜群です。お湯について強いこだわりを持っている私たちの父親(先代社長)は、湯守のプロフェッショナルや毎朝行っているツアーのガイドとして瀧波をバックアップしています。本当は全室石風呂にしたかったんですが、重量があるので、2階の客室はヒノキ風呂にしました。しかしながらこちらを好まれるお客様もいらっしゃいます」
「山形座 瀧波」の改装にあたっては、自身もホテル運営を手掛ける雑誌『自遊人』編集長の岩佐十良さんを総合プロデューサーに迎えた。修さんがデザインに関わるコーディネーター兼FFE(家具備品什器)のデザイナーを務め、適任の建築家をチームに加えることや、工芸品からスタッフのユニフォーム、アメニティに至るまでをデザイン、セレクトした。修さんは施主の側でもあったので、費用や経営のことも含め、その橋渡し役としてこのプロジェクトに参加できたことは幸運だったという。
「現在、宿の代表であり社長を務めるのが、僕らの叔父にあたる南 浩史です。建設省に入省後、造船業を営む南家に婿養子に入りました。ここに来る前は長崎の造船会社の社長を務めていましたが、家業の再建のため、故郷に帰ってきました。経営に関してのプロフェッショナルであり、リニューアルに際して僕らを率いてくれたのは叔父です。振り返ると、誰か一人欠けても、今の瀧波は成立していなかったというのが兄や私の実感です」
豊かな地ならではの「地産地活」を目指して
旬の香りが生きた素材の味に忠実な料理を提供することも、リニューアルにあたり宿として大切にしたことだ。赤湯温泉のある山形県南部には、置賜(おきたま)という土地の名前があり、旧米沢藩の歴史や上杉文化、豊かな自然や食文化の代名詞でもある。瀧波のダイニング「ukitomam(ウキタム)」は、置賜の語源であるアイヌ語から取ったもので、「肥沃な湿地帯」を意味する言葉なのだそうだ。
ここで腕を振るうのが、『The Japan Times』が選出する「Destination Restaurants 2026」を受賞した中川 強シェフ。この大地で育った有機無農薬栽培の伝統野菜や米を使った料理は、一皿一皿、感動と驚きを与えてくれる。
次々に繰り出される料理から、この土地の肥沃さ、豊かな恵みを目の当たりにする。品書きにはすべての生産者の名前が記載されているのも珍しい。近年、「地産地消」という言葉は浸透しつつあるが、宏介さんはあえて「地産地活」を唱える。
「私たちスタッフも収穫を手伝うことがあり、農家さんとの距離が近いんです。食材について聞かれればすぐに答えられますし、料理においてもどれだけお客様の琴線に触れるストーリーを届けられるかを大切にしています。また、食べて終わりではなく、ここで味わった感動を日常にも持ち帰り、暮らしの中に取り入れていただきたいという思いから、地元の南陽市産のお米をお土産に差し上げています。実際に帰宅されたあとも、南陽の野菜や肉、お米をリピートしてくださる方がいます。そうした循環型の関係ができることが、これからの都市と地方の望ましい関係性なのではないかと感じます」
「瀧波」の名前は、初代創業者の「瀧蔵」さんと「お波」さん夫妻が始めたことに由来している。宏介さんが原動力としている「愛」は、そんな夫婦から始まり、7代目に至る今日にまで連綿と引き継がれている。
「大げさな言い方かもしれませんが、旅館業が大事にするホスピタリティとは、結局は『愛』なんだと思います。究極、それがあれば今後、どのような時代になっても、お客様から信頼され、存在価値のある宿として残り続けるはずだと信じています。2023年4月には敷地内にオーベルジュ「OSTERIA SINCERITA」も開業しました。瀧波とはまた趣の異なるこちらのお宿にもぜひお泊りいただきたいです」
穏やかにそう語る宏介さんと修さんの横顔から、110年続く老舗のバトンをつなげてきた人々の面影が横切り、早くもまたここを訪れたいという思いが込み上げてきた。
profile
1984年、山形県南陽市生まれ。地元高校を卒業後、アメリカに留学。日本に戻ってからは旅館業の修業を積み、2017年にリニューアルした「山形座 瀧波」ゼネラルマネージャーに。現在は副社長。
profile
1987年山形県南陽市生まれ。東北芸術工科大学在学中から家具修復の事業をはじめる。現在は県内外で宿泊施設やレストランなどの商業施設を中心としたデザインディレクション業を行う「合同会社 根を這う」の経営と並行し、「山形座 瀧波」のブランディングディレクターとして宿のブランド構築に奮闘中。
山形座 瀧波
山形県南陽市赤湯3005
▶︎https://yamagata-the-takinami.com/


