お問合せ

03-6756-0100

営業時間 10:00〜18:00(火水祝定休)

  1. R100 TOKYO
  2. Curiosity
  3. 東京百景
  4. 泉麻人が綴る、西麻布「カフェバー街の霞と笄(こうがい)」
Curiosity| 人生を豊かにするモノやコトを紹介するウェブマガジン。
泉麻人が綴る、西麻布「カフェバー街の霞と笄(こうがい)」
泉麻人の「東京カルチャーストリート」

泉麻人が綴る、西麻布「カフェバー街の霞と笄(こうがい)」

――最先端のナイトカルチャーを発信した西麻布を巡る

東京・昭和のカルチャーやトレンドの第一人者であるコラムニスト・泉麻人が、都内の街や通りをテーマに時代の移り変わりとそのカルチャーを解説する連載コラム。第12回は「西麻布」。カフェバーやディスコなど、洗練された大人のナイトカルチャーを生み出し、とくにバブル期は多くの若者たちで連日連夜賑わいを見せていた。そんな当時の記憶を思い浮かべながら、泉氏が西麻布界隈を歩いた。

Text by Asato Izumi

昭和から続くラーメン屋を目指して

以前〈青山キラー通り〉を歩いたとき、南青山3丁目の交差点からまず「スキーショップ ジロー」の先の「セントラル青山」という古いビルのあたりまできて北方へ上っていったけれど、今回はそこから南方の西麻布へ向かって散策することにしよう。

キラー通りの行政的な名称は外苑西通りだが、進路の左手に青山霊園の緑が延々と続いている。石垣の上の墓地へ入っていく小さな階段がいくつかあるので、そっちへ寄り道するのもいいけれど、乃木坂の方からくる道が横断する青山陸橋の下をくぐって右奥の路地へ入っていくと、あたりはいかにも昔の麻布の裏町という風情になる。この辺から町名はもう西麻布なのだが、道端の電柱には「立山」なんていう地区表示があり、傍らの崖上には立山(たてやま)墓地というのがある。ここは青山霊園の“離れ”的な1地区のようだが、明治の初めにこちらが先に開発されたらしい。

この立山墓地の崖下には〈青山キラー通り〉の回でもちょっとふれた笄(こうがい)川という小川が天現寺橋の方へ向かって流れていたのだが、その筋をたどるのは後回しにして一旦表通りへ出る。外苑西通りがY字に分岐する交差点を、青山1丁目の方へ少し上ると、霊園へ入っていく狭い一通路の脇に「かおたん(高湯)ラーメン」というバラック建てのラーメン屋がある。

屋根にT字型の素朴な小煙突を4、5本立てたこのラーメン屋、80年代中頃にはここにあったはずだ。青山霊園へ入っていくこの通路はタクシーの運転手が好んで使っていたので、六本木界隈でアソんだ帰り、夜更けに人が溜まった光景を車窓越しに眺めたことは何度もあったが、そういえばいまだ入店したことがなかった。というわけで、開店時間の午前11時半に照準を合わせてやってきた。

実は、最初の散策日は定休日に当たってしまい、別の店でランチをすませたのだが、やはりどうも悔いは残り、改めて訪ねたのだ。メニューで気になった「味肉やさいメン」ってのを注文。これはメン上にチャーシュー(豚の角煮かも…)を刻んだものと茹でた野菜(モヤシ、ニンジン、サヤエンドウ…)が盛られていて、ショウユベースのツユは思ったよりもあっさりとしていた。このツユが看板に記された「中国福建省の高級スープ」たるものなのかもしれない。

カフェバーや飲食店が立ち並ぶ西麻布交差点

道を渡った向こう側には、米軍占領下時代からの「星条旗新聞社」に由来する星条旗通りの入り口があり、別方向の路地脇には復活した老舗レストラン「龍土軒」もあるけれど、表のいわゆる西麻布交差点に進もう。方角的に北西側角の日本料理店「権八」(小泉総理とブッシュ大統領の会食で有名になった)も、もう開業四半世紀の古株になるが、北東角の焼肉の「十々(じゅうじゅう)」と南東角のアイスクリーム屋「ホブソンズ」はもっと古い。1985年に開店したアメリカ発のホブソンズはその後の外資系アイスクリームブームやトレンド行列現象の先駆けとなり、とんねるずの「雨の西麻布」とともに西麻布の地名のポピュラー化に貢献した。

西麻布交差点から広尾方面を望む。昭和57年頃。出典:港区オープンデータカタログサイト
現在の西麻布交差点。縦に広尾方面に向かって走っているのが外苑西通りだ。©️Rainbow /amanaimages
健在のホブソンズ。

それより少し前の1981年から82年頃にかけて、西麻布を震源に流行していくのが「カフェバー」と呼ばれる業態だ。先の位置表現でいうと、六本木通りの南西側、都バスの西麻布停留所のすぐ横あたりのビル地下にあった「レッドシューズ」という店が草分けとされ、同じビルか隣りのビルの2階に入った「ラ・ボエム」(その後、支店がいくつもできる)によって、バーというより食事もできるレストラン型のカフェバーが増えていった。ちなみにこの「ラ・ボエム」でイカスミのスパゲティーを食べるワンレングス・ヘアーの女子の模写を、「オールナイトフジ」時代のとんねるずがよくやっていた…。

ところで、散策時に撮った西麻布バス停のすぐ横のビルの写真――窓越しの階段を上っていくこの外観は当時の「ラ・ボエム」とよく似ている。建物はそのままなのかもしれない。

左が「ラボエム」の面影を残すビル

初期の「レッドシューズ」の店内は、確かL字型のカウンター席の端の方にビデオモニターがあり、小林克也の「ベストヒットUSA」などでも紹介されるカルチャークラブとかのMTVが映し出されていた。スピーカーは黒色のBOSE(ボーズ)製が定番で、「ラ・ボエム」のようなレストラン型のカフェーの天井にはレトロムードのシーリングファンがお約束のようにセットされていた。

そんな西麻布の交差点付近を「霞町(かすみちょう)」の旧町名で呼ぶ人(わざわざシャレて旧称を使う風潮があった)も多かったが、ここから広尾にかけての外苑西通りに「地中海通り」なんて愛称が付いていた時期もあった。確かオペラ歌手の五十嵐喜芳(いがらし きよし)氏が、娘の麻利江さんにちなんだ「マリーエ」という地中海料理の店が発端、と聞いたことがあったけれど、別に何軒も地中海料理の店が並んでいたわけではない。

地中海――とは関係ないが、この沿道ではバブル末期の90年代初頭に竣工した「ザ・ウォール」ビルがランドマークとなり、いまもその姿を留めている。イギリスのスター建築家、ナイジェル・コーツの設計した目を引く建物で、少しおくれて隣りに建った「アートサイロ」という巨大なパラボラアンテナを屋上に積載した塔楼型ビルとのコンビネーションも印象的だ。

当時のビル内では「チブレオ」というゴージャスなイタリア料理店と地階の「JB」というディスコが知られ、僕も何かのイベントの流れで寄った地階のディスコで1度だけユーロビートにノセて踊った記憶がある。

今も立ち並ぶ「ザ・ウォール(右)」と「アートサイロ(左)」

かつて笄川が流れていた高級住宅街

外苑西通りをもう少し行くと、左手に笄公園、その奥に笄小学校という区立小学校が立っている。1960年代の終わり頃からしばらくイトコの家族がこの少し先の日赤病院下交差点(都電の電停があった)のあたりに住んでいて、遊びにきた初めの頃は、「麻布笄町」の旧町名がまだ残っていた。さて、笄(こうがい)とは、髪を整えるときなどに使った細長い楊枝のような小道具で、昔の武士はこれを刀のサヤなんかに挿して持ち歩いていた。清和源氏の初代ともされる源経基(みなもとのつねもと)の笄にまつわる伝説のある橋が近くにあり、そこが笄橋、下を流れる川が笄川となったらしいが、そんな笄橋が存在したのは外苑西通りの向こう側、さっきの「アートサイロ」の角の脇道を日赤通り側に曲がった最初の辻の所だ。この交差点を横断する道が青山3丁目の方からずっと流れてきていた笄川の跡道なのだ。もっともこの川の大方の区間は昭和の戦前段階で暗渠(あんきょ)化されている。

昔の笄橋を渡って、渋谷側の日赤通りの方へ上っていく坂道は牛坂と名付けられているが、往来する牛車からきているというから、古くからにぎわった古道なのだろう。いまは高級マンションが並ぶ一等住宅街、なかに表札が見える「若葉会幼稚園」は屈指の“お受験幼稚園”と知られる名門。牛車ではなかったが、きちんとした母子をのせたメルセデスとすれ違った。

東京・港区西麻布4丁目の牛坂。幼稚園に通う親子らしき姿も写されている。1974年。photo:毎日新聞社

泉麻人のよそ見コラム

立山墓地周辺の電柱にある「長谷寺」という地区表示。

ここでは、話の流れで本文には記せなかったような小ネタを紹介したい。僕は散歩をしながら、道端の電柱の上の方に掲げられた地区名の札に目を向けることが多い。NTTの電信配線の区分を記したものなのだが、ここには古い町や字(あざ)の名、コアな通称地名なんかが記述されていて、地理好きにはなかなか楽しい。本文で「立山」の地名についてふれたけれど、その立山墓地の周辺で「長谷寺」なんていう地区表示も見つけて写真に撮った。ちなみに写真の「長谷寺」の下の「支」は支線を表すもので、地名とは関係ない。

長谷寺――これは鎌倉と同じハセデラではなく、チョウコクジと読む。散歩当日はそちらの方にまで足を延ばせなかったのだが、高樹町交差点(バス停は南青山7丁目)の富士フィルムの裏方、西麻布2丁目の端っこに位置するなかなか広大な寺院で、「永平寺別院」の冠も付いている。後日(再度“かおたんラーメン”を訪ねた日だ)訪ねてみると、境内には麻布大観音、麻布稲荷なんていうのも祀られ、とくに根津美術館の森を背景にした墓地は里山のような風情がある。

黒田清輝、井上 馨、阿久 悠…有名人の墓所がグーグルマップに表示されているが、なかでも山型の素朴な石に「エノケン、ここに眠る」と刻んだコメディアン・榎本健一の墓石が目に残った。

profile

泉 麻人

1956(昭和31)年、東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。『週刊TVガイド』等の編集者を経てコラムニストに。主に東京や昭和、カルチャー、街歩きなどをテーマにしたエッセイを執筆している。近刊に『昭和50年代 東京日記』(平凡社)。

R100 TOKYO THE CLUBに会員登録
THE CLUB

R100 TOKYO THE CLUB

厳選された情報を会員様のみに配信

THE CLUB(入会費・年会費無料)

自社分譲物件をはじめ厳選された100㎡超の物件情報や、先行案内会、イベントご招待など、会員様限定でお届けします。

人生を豊かにするモノやコトを紹介するウェブマガジン。