「まちで学んだことはまちに還せ」という教え
明治文学界の巨人として知られる幸田露伴の代表作『五重塔』。そのモデルとなった天王寺五重塔の跡や、第15代将軍徳川慶喜や渋沢栄一、横山大観など著名人の墓があるのが、JR日暮里駅から鶯谷駅にかけての高台に広がる谷中霊園だ。周辺には明治・大正・昭和の歴史的な建物が点在。山岡鉄舟が開いた臨済宗の寺院「全生庵」や、彫刻家の朝倉文夫のアトリエ兼住居を改装した美術館「朝倉彫塑館」、昭和の風情を残しつつ活気あふれる「谷中銀座商店街」などもあり、地元の人々とともに国内外から訪れる観光客で常ににぎわっている。少し足をのばせば、東京藝術大学(以下:藝大)をはじめ、博物館や美術館などの文化施設が集まる上野公園が。そんな台東区を拠点に、明治・大正・昭和期の建物を保全し、住まいや店舗として活用しつつ、そこにある生活文化を守る活動を長年続けているのが椎原晶子さんとNPOたいとう歴史都市研究会や同志のメンバーだ。
椎原:東京藝術大学にいた1986年から88年にかけて、『谷中・千駄木の親しまれる環境調査』として、上野桜木の寛永寺の住職だった浦井正明先生、谷中三崎坂の寿司店主で町会長・商店会長の野池幸三氏、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』の人たち(注:1984年に森まゆみ氏・仰木ひろみ氏・山崎範子氏という当時20代の女性3名により創刊、2009年に終刊)、大工の棟梁や酒屋の番頭さん、郷土史家などのまちの人たちと大学生とが一緒になって、長屋での生活や子どもたちの遊びなど、地域の暮らしの文化を調査する活動に参加しました。そのときに恩師の前野 嶤(まさる)先生に言われた「まちで学んだことはまちに還せ」という教えをそのまま受け止め、学んだことを地域に還元したいという思いから活動を続けています。
地域社会との交流から生まれ、派生するまちづくり
前野 嶤氏は、当時藝大構内にあった現・国の重要文化財、旧東京音楽学校奏楽堂の明治村(愛知県犬山市)への移築に反対し、上野公園内での移築保存を実現させた有志グループの中心人物としても知られる人。東京駅丸の内駅舎の保存運動にも関わり、市民とともに文化財やまちなみ保全のための調査や運動を展開してきた。その薫陶を受けた椎原さんらは、1989年には早速、藝大の卒業生と近隣のまちの人々とで、まちづくりNPO「谷中学校」を立ち上げ、具体的に地域保全活動に乗り出した。活動がまちにつながるきっかけとなったのは、1910(明治43)年竣工の元酒屋で、戦後は住宅として使われていた町家を借り受けたことだったという。
椎原:大学院時代に調査や聞き取りをさせていただいていたお宅に、卒業後ご挨拶に伺ったら、「相続税のこともあるし、今度アパートとして建て替えることになった」と言われて。それを聞いて、私は「アパートになっても、この雰囲気、道に開いた感じが残るような案を考えさせてもらえませんか?」と頼みました。そうしたら、谷中の人はオープンマインドなので、まあいいわよ、と言ってくださって。
建て替えにあたって銀行からは「ハウスメーカーで建ててください」と言われていたのですが、それだと谷中らしい雰囲気を残せない。その家は江戸式の町家の流れをくむ出桁(だしげた)造りの立派な建物。あまりにもったいないので建築の専門家たちとも相談し、母屋を残しつつ、横にある2メートルくらいの路地を接道にし、あとは旗竿敷地にして新築でアパートを建てることを提案しました。最終的にその案が採用され、母屋を修繕して生活空間には大家さん家族が住み、かつてお店として使われていた一間を私たち「谷中学校」の仲間で借りることになったんです。この例を見て興味をもち、「うちの建物はどうかしら」と声をかけてくださる方が増えました。
建物の記憶や物語を大切にする保全活動
もちろん、すべてが順調に進むわけではない。しかし椎原さんは学生時代からこつこつ築き上げた信頼関係のもと、出資者を探したり、活用方法を提案したり、はたまた地域を盛り上げるためのイベントを開催したりと東奔西走しながら、地域の人々とともに歴史あるまちづくりを進めてきた。2001年には前野氏や藝大文化財保存学の学生らをはじめとした有志とともにNPOたいとう歴史都市研究会を設立。取材で訪れた「旧平櫛田中邸」は平櫛田中の故郷、岡山県井原市の持ち物だが、NPOたいとう歴史都市研究会が維持管理や公開活動などを担当している。
椎原:私たちに必要なのは、建物ごとに保全活用の考え方を整理することです。田中先生は107歳まで生きられたので、井原市に「井原市立平櫛田中美術館」があるほか、晩年を過ごした小平市にも立派な平屋建てのアトリエとお住まいを改装した「小平市平櫛田中彫刻美術館」があります。それに対して、この建物の価値は、田中先生が50歳から97歳までご家族と生活された、“人間・平櫛田中”が一番よくわかる場所だということ。ですから、この建物の保全にあたっては、先生がいらした時代を大事にしようと考え、ご家族と住まわれていた昭和45年頃までの姿を大切にしています。
天井の高いアトリエは、1919(大正8)年、田中先生の周りの、岡倉天心先生のお弟子さん筋(注:横山大観、下村観山、木村武山ら)の画家たちがお金を出し合って建てたもの。このアトリエは、日中に安定した自然光を得られるよう北側に天窓を備えており、敷地に対して斜めに立っています。伝統的な日本家屋の母屋はその3年後に建てられたものです。先生とご家族が小平市に転居した3年後に、ここは井原市に寄贈されたのですが、遠すぎて管理が難しいので、市の許可をいただいてNPOで小規模修繕をしたり、お掃除会を開催したり、公開日を設けたりしています。
「旧平櫛田中邸」が当時の面影を残し、再びアートの創造と交流の場にすることを目的にしているのに対し、たいとう歴史都市研究会が借り受け、外観や内部に元の喫茶店のオリジナル部を残しつつ、建築家の永山祐子氏の改修設計により新しい時代に合った形で再生させたのが、1916(大正5)年(推定)に建てられ、長らくまちのシンボル的な喫茶店として愛された「カヤバ珈琲」だ。
椎原:私たちは谷中のまちづくりから入っているので、建物を再利用する場合、その建物の記憶や物語を大事にします。「カヤバ珈琲」は大正時代にはミルクホールだったのですが、1938(昭和13)年に榧場(かやば)伊之助さんという方が買い取って喫茶店にしていました。ご主人は体が弱かったのでお店には出ず、看板を作ったり、レンガを積んでカウンターにしたりと、ハイカラな店づくりをしていたそうです。ご主人が亡くなった後は奥さまと養女の方が2人で30年以上営業を続けたのですが、2006(平成18)年に閉店。ご遺族からは「カヤバ珈琲という名前と外観を変えないで喫茶店をやってくれるなら」という条件で貸していただくことになりました。
まだおばあちゃまがお元気な頃、「あそこはお父さんが作ったところだからそのままにしているの」とか「コーヒーの匂い香りを大事にしたいから、香りの強いカレーはやらないの」とか、いろいろお話を伺っていましたから、改装にあたっては事前に藝大やNPOのメンバーで建物の実測を行い、履歴を調査して図面の上でもここは変えていい、ここは残す、ここはできるだけ残すといった感じで3段階くらいにマーカーで分け、仕様書を作りました。また、喫茶を担当する方には、コーヒーとふわふわの卵焼きを挟んだ「たまごサンド」と「ルシアン」(注:コーヒーとココアを半分ずつ合わせたもの)という名物は残してもらうことに。私たちも喫茶店の経験はまったくなかったのですが、まちの人の心にある「カヤバ珈琲」を守りつつ、新しい人も入りやすい店を、と考えました。
歴史と文化を受け継ぐ、東京の豊かな在り方
椎原さんたちをはじめとした有志の地道で丁寧な活動により、取り壊しを免れたり、新たな命を吹き込まれたりする建物がある一方で、東京23区内の地価が加速的に上昇し、相続税が高騰するなかで、愛着のある建物を手放さざるを得ない地権者も多く、まちの風景は日に日に変わっていっている。椎原さんは「イタリアの『チェントロ・ストーリコ(歴史的中心地区)』をはじめ、世界の多くの都市が歴史的ゾーンを保全し地域の誇りと国際理解にもつなげるなか、東京都は開発と安全対策を最優先として、古い建物や歴史地区を守る支援策は手薄でした。でも、実は東京は、すごい歴史都市なんです」と話す。
椎原:江戸城は無血開城で皇居に、江戸幕府は終わり明治政府になったときに、薩摩や長州から来た明治政府の人たちは、江戸城下町のもともとの武家屋敷を役所や学校にしました。だから官公庁は霞ヶ関に多い。お寺は元の場所に立っている。江戸のまちの様子は、地図をよく見れば浮かび上がってきます。ところが、それがあまり表に出ていないので尊重、保全されず、月島や佃島のように巨大再開発ゾーンの中に入ってしまうと、路地ごと全部ひとつの街区になってしまったりするんです。
2008年に国が「地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律(歴史まちづくり法)」(注:都市が「歴史的風致維持向上計画」を策定し、国が認定することで、支援を受けることができる仕組み)というのを制定していて、2025年現在全国で100都市が認定されているのですが、東京にはひとつもない。でも、東京には私たちの団体だけではなく、「文京歴史的建物の活用を考える会」や神楽坂の「粋なまちづくり倶楽部」、墨田区の「八島花文化財団」、「千住いえまち」をはじめとした団体が活動しているし、向島でも若いクリエイターが昔の長屋に集まって活動しています。それらに声をかけあったら17組くらいになったんですよね。それで、各団体が緩やかにつながる「東京歴史文化まちづくり連携」というのを2020年に立ち上げ、シンポジウムを行ったりしています。これだけの数の都内の団体がまとまって訴えれば都も耳を傾けてくれると思いますから、みんなで声を上げていきたいですね。
椎原さんたちが東京都や国に訴えたいことのひとつは、歴史ある建物に対して条件を満たせば固定資産税や都市計画税、相続税などの減免や猶予・免除を行うこと。
椎原:多くの人が古い建物を手放すのは、地価が上がりすぎて、固定資産税や都市計画税、相続税を払えないから。「10階建てのビルに建て替えるなら税金を支払ってもらうけれど、2階建ての古い建物を守っているうちは払わなくていいですよ」というような法整備ができればいいと思うんですよね。美術品に関しては、重要な美術品を美術館に寄託した場合の「特定の美術品に係る相続税の納税猶予・免除制度」があります。同じように、歴史的な建物を健全に維持管理して、人にも見てもらえるようにしてくださっているぶんには、税の支払いを猶予するような制度を作ってもいいのではないでしょうか。
また、もうひとつは古い建物も修理・再生しやすい法律や制度の運用を行うこと。古い建物を残したいけれど既存不適格(注:建築当初は法的に適法だった建物が、その後の法律改正などによって現行法に対して不適格な部分を生じた状態)だから建て直さざるを得ない、と考えている持ち主に対しては、「現状維持であれば違反とはみなされません。といっても、柱が腐っていたりすると壊れやすく、燃えやすいので、修理をして丈夫な建物にしましょう。大工さんや職人さんの伝統的な技術も造営や修繕の仕事があれば残るので、ぜひ伝統工法での修繕を相談してみてください」と話す。
大規模再開発が続き、それぞれのまちの個性が失われつつある東京。歴史を学び、生活文化に目を向けることで、より魅力的なまちづくりはできるはず。地域の人々との交流を積み重ねながら、世代や職種を超えた連携を広げつづける椎原さん。その活動には、これからの都市の豊かな在り方のヒントがたくさん詰まっている。
profile
たいとう歴史都市研究会理事長、國學院大學教授。1989年に東京藝術大学大学院修了、同年よりまちづくりグループ「谷中学校」運営人。89~95年、山手総合計画研究所にて、横浜・湘南の歴史を生かすまちづくり、都市デザインにかかわる。2000年に東京藝術大学大学院美術研究科博士課程(環境デザイン)単位取得満期退学。同年より同大学大学院文化財保存学保存修復建造物研究室非常勤講師。01年NPOたいとう歴史都市研究会設立、04年より晶地域文化研究所主宰。18年に株式会社まちあかり舎設立に参加。22年より國學院大學観光まちづくり学部観光まちづくり学科教授。台東区を中心に谷中・根津・千駄木エリアの歴史的建物と生活文化を生かすまちづくりに取り組む。共著に『路地からのまちづくり』(学芸出版社)、『受け継がれる住まい』(柏書房)、『市民がまちを育む—現場に学ぶ「住まいまちづくり」』(建築資料研究社)、『観光まちづくりの展望 地域を見つめ、地域を動かす』(学芸出版社)など。


