日本美の感性を体現する国際レベルのホテル
東京の中心部に位置する、虎ノ門エリア。大規模な再開発が続々と進むなかで、近年大規模に刷新され、大きな注目を集めた建物がある。「ホテルオークラ東京」改め「The Okura Tokyo(オークラ東京)」である。
「モダニズム建築の傑作」と評されていたホテルオークラ東京 本館の建て替え計画が2014年に発表された際には、否定的な意見が多く上がった。海外のクリエイターたちを中心に雑誌やSNSなどを通じて「オークラを救え」と声を上げ、約6000もの署名を集めたことも話題となった。イタリアのブランド「ボッテガ・ヴェネタ」のクリエイティブディレクターを務めるトーマス・マイヤーは、雑誌でのインタビューで「もしホテルオークラがなくなってしまったら私たちは東京にまで旅をする理由がなくなる」とさえ語った(※)。思いを同じくする国内外の人々によって、2015年の閉館前にはロビーは見学者でいっぱいに。いずれにしても、ホテルオークラ東京の空間が多くの人に愛され、かけがえのない価値が共有されていたことは明らかであった。
ホテルオークラ東京が旧大倉財閥の邸宅跡地を敷地として竣工したのは、1962年のこと。戦後復興を経て訪日外国人が増加するにつれ、国際基準のホテル不足が国家的な課題となっていた時代である。ホテルオークラ東京の創業者である大倉喜七郎は「世界の一流ホテルに並ぶ格式と心地よさを備える、日本らしいホテルをつくりたい」という想いを強く抱いていた。「海外の模倣ではなく、世界に通じる日本独自のホテルを創造する」ことが目指された。
大倉がこだわったのは、派手さや豪華さではなく、平安時代の感性に通じる「控えめな優美さ」をデザインの基調とすること。大倉の情熱に応えたのが、谷口吉郎をはじめとする5人の建築家からなる「設計委員会」と、人間国宝の画家や彫刻家からなる「意匠委員会」であった。日本の伝統美をアレンジした意匠が、本館ロビーから500室に及ぶ客室の隅々に至るまで施され、ホテル自体が芸術品という意味で「1万8000坪の芸術」というキャッチフレーズが冠される。開業して間もない1964年、ホテルオークラ東京は日本初のIMF(国際通貨基金)総会の会場に選ばれ、大宴会場「平安の間」には約2500人の関係者を迎える大役を果たす。以来、ホテルオークラ東京は各国の要人をもてなす舞台となってきた。
しかし創業から約50年を経て、本館の再建築の話が2000年初頭に持ち上がり、2011年の東日本大地震の後には建て替えの話が本格化。種々の更新や耐震性能強化のほか、未来に生き抜くホテルとして施設を付加する必要が出ていたためであった。当初は、急な坂に立地する地上6階・地下6階で、中心のエレベーターホールから3つの客室棟が延びる「三ツ矢式」の建築を残す案も議論されたというが、総合的な判断で基礎からすべて新設することに決定。本館は2015年8月をもって幕を閉じた。
※ 「カーサ ブルータス」2015年1月号
「伝統と革新」によるレガシーの継承
建て替えにあたって、ホテルオークラ東京では一貫した方針があったという。ホテル総支配人の梅原真次さんは「建て替えプロジェクトの話は今から15年ほど前から出ていまして、そこから役所との折衝を重ねて実現しました。ただプロジェクトが始まった当初からオークラロビーは継承することが前提となっていました。今回設計を手掛けていただいた谷口吉生先生はお父様の谷口吉郎先生の手掛けたロビーをどのように進化させるか苦心されたと聞いております。ただ単に再現させるだけでなく、現代の法規、建築基準法や消防法の改正に伴う対応もしながら再現することを、違和感なくやり遂げられたことは元の姿を見慣れていた私どもホテルスタッフも感服いたしました」と説明する。
「The Okura Tokyo」の基本計画と、メインロビーや広場などの設計は、谷口吉郎さんの長男である谷口吉生さんの率いる谷口建築設計研究所が担当。4年の歳月をかけて2019年9月に開業した新生「The Okura Tokyo」は、41階建ての高層棟「オークラ プレステージタワー」と17階建ての「オークラ ヘリテージウイング」の2棟からなる。
敷地の西南角にある伊東忠太設計の私設美術館「大倉集古館」(1927年竣工)は、その周囲に増築されていた事務所と収蔵庫を撤去のうえ、曳家により約6.5m移動。もともと正面玄関があった東側に配したオークラ プレステージタワー、北側のオークラ ヘリテージウイング、大倉集古館の3棟は、中央エントランスゾーンの広場「オークラスクエア」によってつながる設計となっている。
建築家の親子によって名建築の設計が継承されるのは稀有なことであるが、さらに谷口吉郎氏は大倉集古館を設計した伊東忠太氏に師事していたことから、3世代にわたって設計のバトンが渡されているともいえる。大倉集古館で窓などに用いられている正六角形の「亀甲文」は、亀の甲羅に似ていることから、長寿や吉祥のシンボルとして平安時代から盛んに使われてきたもの。オークラスクエアの1辺が約42mの水盤の中に置かれた六角形の島をはじめ、新しい2棟の建物にも、オークラブランドを象徴するモチーフとして亀甲文はそこかしこに現れている。
そして、「和を継ぐホテル」をコンセプトに新たなレガシーの創造を目指したホテルオークラ東京にとって、ホテルの象徴であった本館メインロビーの再現は建て替えの軸となった。梅原さんは「お客様のなかにもご覧になられた際に、思い出が蘇ったのか涙された方もいたと聞いております。そのような反響を耳にして、目指していたことが叶いました。ホテルオークラ東京のロビーとほとんど変わらない光景がそこには広がっているのです」と言う。
徹底した調査で記憶にある空間を再現
本館のメインロビーの再現にあたっては、メインロビーの空間構成や使用材料などの徹底的な調査・研究から始められた。各部の寸法の実測をはじめ、壁や天井、柱といった部材や下地、装飾意匠のひとつひとつについて材質や構造についての学術調査が行われたのである。実測では、三次元レーザースキャナを用いたデータも採取。計測したデータを合成処理し、CADで図面化された。そのうえで、オリジナルのものをリフレッシュして再利用するものもあれば、新規につくり直したものもある。
例えば、メインロビー天井から吊り下げられた「オークラ・ランターン」がある。このアイコン的な照明器具は、古墳時代に水晶を多面体にカットして首飾りに使われていた切子玉がモチーフとされたもの。五角形のアクリル板を10枚接ぎ合わせて形作ったランターンを、縦に5つ連結したものが一連となる。再現にあたっては、外側のパネルは以前のものを再利用する一方で、内側のアクリル板と吊り部材は再製作して安全性を高めた。ランプは白熱灯からLEDに替え、昼夜の時間帯によって光のトーンを切り替えることで、往時と同じ風情のある光を実現している。
またロビー空間の窓面上部を覆う「麻の葉文様の美術組子」は、繊細な木の部材を手作業で組み込んだもの。当時の制作会社が不明で、途中の改装で手直しをした岡山県の佐田建美に依頼して修復したところ、骨格となる組子よりも「三つ組手(みつくで)」と呼ばれる三叉状のパーツが3mm低く組み入れられていることが判明。加えて文様を90度回転させることで、柱などの垂直ラインに対して水平の線が強調されていた。これは、ロビーでくつろぐ客が見上げることを考慮したものであり、同時に、外からの自然光を庇のように柔らかく調整する役割が持たせられていることが推測された。
なお、建て替えではプラン上、ロビーを90度時計回りに回転して配置している。企画広報課の松本洋明さんは「開業当時は周囲の高い建物は東京タワーくらいしかなく、外光がロビー空間にふんだんに入っていました。それが、だんだんと周囲にビルが建て込み、朝以外には陽の光が入らずに薄暗くなっていたのです。建て替えで配置し直すことによって周囲の建物との距離が確保でき、外光を取り入れることができるようになりました」と説明する。
光とともに、ロビー空間を構成する部材の色合いも入念に調整されている。松本さんは「部材を削って中の色を確認し、1962年の開業当時と閉館した2015年を比べると、約50年の間にトーンが変わっていることがわかりました。経年変化もありますし、以前はロビーで喫煙も許されていたためヤニの色も加わっていました。2015年の閉館時の色を再現すると、記憶が美化されて古びて見えてしまう心理的な影響が考えられました。そこで、1962年に開業してから25年ほど経った、つまり50年の約半分の期間が経過したころの色調を予想して空間をつくっていると聞いています」と語る。
日本固有の蘭をモチーフにし、オリジナルと同じく京都西陣の龍村美術織物に依頼した四弁花文様の壁面装飾の修復では、あえて少し黄色がかった糸で織るなどの調整が加えられている。
機能面でのアップデートで次の世代に継承する
再現のポイントをさらに挙げるのであれば、追加して見た目の再現だけでなく、将来に向けての刷新も注意深く行われていることである。
本館ロビーには、車椅子用のスロープがバリアフリー対応として追加されていたところを、表からは見えない個所に段差解消機を設置したうえでスロープを撤去。よりスマートな意匠となった。
またロビー空間は、新たに設けられたレセプションカウンターやベルデスクといった機能的な空間とは、新たに設けた中央大階段や中二階(6階)の正面広場を望む「オークラサロン」などで緩やかに分離。ロビーではゆったりとくつろげるように、動線が整理されている。
現行の建築基準法や消防法に対応するための工夫も、随所で講じられている。例えば、中二階として設けられたメザニンのロビー吹き抜けに面した手摺りは、以前の高さのままでは低すぎて現行の法に適合しなかった。ガラス面の入った手摺りをつくり直して高さを確保する手段もあったが、印象は変わってきてしまう。そこで、スレンダーな手摺りをもう一段高い位置に付加することで対応した。
また、メザニンの天井面に設置するスプリンクラーヘッドは、以前は「猿頬(さるぼう)」という細い桟状の部材同士の間に入れられていたが、現行の消防法では規定の散水半径がカバーできなかったことから、猿頬にスリットを設けてスプリンクラーヘッドを仕込んでいる。
「単なる復元ではなく、今後50年、100年も使えるような新しい建物にすることで、競合他社に対抗できるブランドを強めています」と総支配人の梅原さんは語る。
新生「The Okura Tokyo」にまだ訪れたことがなければ、ぜひ足を運んでいただきたい。ロビー空間を目の当たりにすれば、静謐な空気感はそのままに、違和感のない景色が広がっていることに驚くだろう。一瞬にして蘇る記憶と重ね合わせながら、「オークラ」の魅力に浸ることができるはずだ。
そして奇しくも、1962年の「ホテルオークラ東京」開業当時、東京オリンピック前に建てられたのと同じように、「The Okura Tokyo」は東京2020オリンピック・パラリンピック開催前に開業した。総支配人の梅原さんは「開催期間中に来館された方の中なかには再現されたロビー空間の姿を見て、『これぞオークラだ』と言われていた方々もいらっしゃいました」と振り返る。
総支配人の梅原さんは「1962年の前身のホテルのテーマは『日本的建築美の創造』でした。ただ、それには続きがあります。『つくるからにはどこまでも本物志向であり、必要なところには贅をつくした意匠を施し、世界各国からの利用客が自然にその中に溶け込み、くつろげる機能性と美とが調和しなければならない』(出典:ホテルオークラ二十年史)。この思想は、今そして未来にも通じるものだと思います。また、我々が考えるホテルは、建物だけでは成り立たず、必ずそこには人を介しての接客が存在します。お客様が求めるサービスとは何かを常に見極めることがホテルにとっては重要な部分になると考えています。その上で、時代を見据え総合的に判断し計画を進めてきました。日本の東京・虎ノ門のThe Okura Tokyoにしかない空気感を創り出し、人と地域と文化が宿る、人々の記憶に残る存在になりたいと考えています」と言う。
オークラの根幹となるスピリットをつなげる、ロビーをはじめとした空間の骨格とディテール。そして多くの人の記憶とともに、オークラは次の50年、100年と継承されていくはずである。
取材協力
The Okura Tokyo
▶︎https://theokuratokyo.jp