一枚の絵と対峙する
秋晴れがさわやかな10月のある日、広島市内で個展を開くshunshunさんを訪れた。静かに微笑みながらゆっくりと言葉を紡ぐその姿に、こちらの心もふんわりと柔らかくなる。「素描家」を名乗るshunshunさんは、個展で自身の作品を表現するほか、書籍・雑誌・広告・プロダクトなどのイラスト、ホテルやショールームといった空間のための絵画などで活躍するアーティストだ。自身の作品のなかでは、「線」のみで表現した一連のシリーズが代表作となっている。
「僕は画家のように立派な絵を描くわけではないし、かといってイラストレーターのように誰かの要望に応じて描くことを主にしているわけでもない。デッサンやドローイング、エスキースに近いものが僕の絵なんです。それを日本語で表現しようと考えると「素描」という言葉がしっくりきました。素直に、素朴に描きたいと思っているので、「素」という文字が含まれているところも気に入って、「素描家」と名乗っています」
今回訪れた個展は、ホテルを会場としたもの。ロビーで展示をするほか、一枚の絵を飾った客室を用意し、宿泊してその絵をゆっくりと眺める時間を体験してもらうという新たな試みが企画された。客室のドアを開ると、野山に咲く花を思わせる華やかながらも落ち着いた香りに包まれる。その先にかかる白い暖簾をくぐると、ピアノのBGMがかすかに流れる空間に時代を経たアンティーク家具とみずみずしい緑、白く大きな座布団が並んでいた。
実はshunshunさん、素描家の以前は建築設計の仕事をしていたという。今回の客室では、「絵を見る空間」にどういうものがあったら心地良いかを考え、家具のセレクトや配置、音楽、香り、飲み物などのすべてを自らコーディネートした。
「ここは、一人でただただ絵を眺めるための空間です。泊まる人には自分の家のようにくつろいでほしかったので、なるべくホテルらしさが出ないようにしました。座ったり、寝転がったりしているときにも絵を楽しんでもらえればと思って、絵は低い位置に飾っています。このホテルはもともと病院だった建物をリノベーションしているので「癒し」の空間をイメージし、ハーブを使った特別な「ハーブコーディアル」を、広島にアトリエを持つANITYAさんに依頼して作ってもらいました。香りは僕がいつもアトリエに置いているサンタマリアノヴェッラのポプリ、ピアノのBGMは音楽家の橋本秀幸さんがこの企画のために作曲・演奏してくれたものなんです」
そして、そこに掲げられているのが、「光海」とタイトルがつけられたshunshunさんの作品だ。100号の大きなキャンバスに張られているのは、フランスの版画用紙「ベランアルシュ」。白のなかでも少し柔らかさの感じられるナチュラルな白をベースに、光にきらめく海が描かれている。大海原をかたちづくっているのは、ブルーブラックの極細ボールペンで引かれた無数の「線」なのだ。
「コロナ渦で世界が混乱して未知数になっている今、僕が一番見てほしいものです。僕自身、これから何を描いていったらいいのかという迷いが生じていました。心がざわついて落ち着かない。そんなとき、半ば祈るように目を閉じると、暗闇の中にぼんやりと光のきらめきが広がる感じがしたんです。それが見えることで、少し気持ちが前向きに明るくなるような感覚がありました。「光海」はそのときに見た光景を表現したいと思い、何かに突き動かされるように描きました。水平線の位置を最初に決めて、そこから下方へ一行一行、線を引いていきます。水平線の高さはプラチナ比を元に決めました。上下の中央ではなく少し上がいいなと思ったときに、ピンときたのが1対ルート2のプラチナ比だったんです。目を閉じたときに見えた光がプラチナ色に輝いていたような気もしたので」
「その後、5月に開催した大阪での個展ではこの絵をメインにしました。その個展は新型コロナウイルスの感染予防対策により、完全予約制で一時間に一組(1~2人)しか入れない設定で開催しました。そうすると結果的に、来てくれる人がじっくりと自分のペースで絵を鑑賞できていることに気がついたんです。はたから見ていても、その人のなかにとても良い時間が流れているように感じることがありました。帰路につく人たちと話していると、まるで神社や教会を訪れたあとのような表情をされるんです。たった一人でじっくりと絵と向き合う。そのことに何か特別な要素があるんじゃないだろうか。そんなことを思いました。だから今回、泊まることで絵と対峙して過ごせる時間・空間をつくりたかったんです」
「線」を描く意味
「ウッドヴィル麻布」の新コンセプトルームのトータルコーディネートを手掛ける建築家・芦沢啓治さんが、shunshunさんに出したリクエストは「穏やかで、時間軸を超えたようなイメージを表現してほしい。全体として、昔からずっとそこにあったような世界をつくりたい」というものだったという。そんなリクエストを受けて生まれた絵は、まさにホテルでの個展と同様のテーマで描いている。
「参考にいただいた図面やパースを見ると、天井高が低めで家具も低く、日本人らしい目線の高さでの暮らしが想像できました。空間に水平方向の広がりが感じられたので、水平な線の世界からイメージを結びつけて、ここでは「線」で表現するものがふさわしいと決めたんです。さらに、内装や家具に華美な化粧が施されているわけではなく、素材そのものの良さが生きている。そんな無垢なイメージにも重なるのではと思い、リビングには「光海」を選び、ダイニングキッチンには線で構成した新作「祈海」を描こうと考えました」
テーマは同じものの、ウッドヴィル麻布のために描いた「祈海」は、「光海」とは見えてくるものが異なるはずだというshunshunさん。
「一本一本の線をどう描こうかとか、どんな光を表現しようかとか、具体的に意図しているわけではないんです。その瞬間に僕の身体が生み出すストロークの積み重ねで一つの世界ができ上がる。だからいつも、自分自身が作品のでき上がりを楽しみにしています。僕はすべての世界が波動でできているという考え方が好きで、僕の感じている感覚や感情の波動を線に宿しています。その瞬間の僕の状態が線に表れ、そんな線の集積によって一つの模様が浮かび上がるような気がするんです。アナログレコードの溝をプレイヤーの針がなぞっていく様子を拡大して撮影した写真集を見たとき、あ、僕が線を引く光景に似ているなと思いました。見る人の目はプレイヤーの針であり、僕が刻んだ模様を見る人が再生するとき、線のゆらぎをそれぞれに解釈し、隙間を想像力で埋めてくれるんです」
shunshunさんが線だけの作品を描くようになったのは数年前。2012年に建築設計の仕事から転身した当初は具象画を描いていたが、お世話になっていたギャラリーのオーナーに「良い絵ではなく、無意識で引いた線や失敗した線が見たい」と言われたのがきっかけだという。
「無意識になれと言われても難しく、どうしたらいいのかと考えていると、昔見た蚕が桑の葉を食べる様子が思い浮かびました。上から下へと順番に食べて端まで行くと、また上に戻って下へと同じ方向で食べる。その様子をイメージして無心で線を引いてみました。そのときは点線から始めたんです。紙の端から点線を描き始め、一列描き終わったら二列目の端に戻って同じ方向に点線を引く。最初はなかなか難しく、もちろん曲がったり歪んだりもするので、その度にショックを受けていました。でも、できるだけ気にしないようにして何本もの線を描いてみたんです。それであるとき、それらの線を一歩引いて見てみたら、まるで海が揺らいでいるように見えたんですよ。だから最初は「海を描こう」と思ったわけではなく、できたものがたまたま海に見えただけなんです」
「考えてみると、海は僕の原点だなと思って。僕は高知生まれで、太平洋がすぐそばに広がる祖母の家で2歳まで育ちました。家族が幼い僕を散歩や遊びに連れて行くといったら、もちろん海だったと思います。その後、住まいは東京に移りましたが、高知の祖母の家は長期の休みのたびに訪れていました。海の存在は僕の体内に染み込んでいて、その染み込んだ記憶を描いているのかもしれません。東日本大震災をきっかけに2012年からは広島に暮らしているのですが、ここでは瀬戸内海に出合いました。高知の海とはまた違い、穏やかでキラキラとした美しい海です。今はそれらが僕のなかで溶け合っているんだと思います。海を見ていると自然と心が安らぐ感覚があります。その感覚を、波動として線に宿すことができればと思って、何本もの線を描いています」
shunshunさんが一本一本線を重ねていく様子は、まるで祈りを捧げているよう。「写経のようですね」と言われることもあるという。静謐な感覚を持って心地良く描かれたshunshunさんの線は、良い波動となって見る人の心に届くのだろう。だからこそ、一枚の絵と対峙するひとときが、かけがえのないものになる。
見る人の感受性を敏感にするアート
「ウッドヴィル麻布」の主寝室に飾る三枚目の絵はS20号の正方形。「線」のシリーズよりもさらに繊細で自由なタッチとなり、「その人の内側に宿る小さな光を確認できる絵」が生まれたという。
「寝室は1日を始め、締めくくる場所です。その日1日を思い出したときに何かしらの光を確認することができれば、それが生活の軸になるんじゃないかなと思って、そのきっかけになる絵を考えました。今の世の中は物質にあふれていて、食べ物でも道具でも情報でも、望めば何でも手に入ります。そんななかで、「今日も生きててよかった」と思える支えって大事だと思うんです。絵の存在がそんな精神的な支えになれればうれしいです」
「一枚の絵があることで、それ以外のものが楽しくなる気がする。僕はそれこそが「アート」が身近に存在する意味なんじゃないかと考えています。アートはゴールでもないし、所有物でもない。感受性を敏感にするものなんです。だから、迫力のある強い絵より、見る人の感覚が自然と開いていくような絵を描いていきたいと思うんです。さらに僕が最終的に目指しているのは、見る人が「海を見たいな、自然に触れたいな」というような気持ちになる絵を描くことなんです。行き詰まったときに見上げる空の美しさ、どこからか吹いてくる風の清々しさ、自分のまわりにそういうものが存在していることに改めて気づき、自然界に対する感受性を研ぎ澄ます。アートが日常にあることが、そのきっかけになればと思っています」
何本もの線を重ねて生み出された美しい光の海。その絵を飾ることには、花を飾ることと、緑を置くことと同じような意味があり、住まう人の日常を豊かで楽しいものにしてくれるでしょう。最終回となる次回は、完成したコンセプトルームを紹介。芦沢啓治氏とともに家具デザインを手掛けたデンマークの建築・デザインスタジオ、Norm Architectsをインタビューします。
素描家shunshun
▶ http://www.shunshunten.com/
取材協力/
KIRO(個展会場)
▶ https://www.thesharehotels.com/kiro/
コンセプトルーム「光ヲ観ル」
▶ https://www.thesharehotels.com/kiro/events/1202/
個展「ウチナルウミ」
▶ https://www.thesharehotels.com/kiro/events/1222/