尾形乾山写の第一人者。
第18回の今回紹介するのは、田端志音の器です。志音さんは1947年生まれの陶芸家で、軽井沢のうちの小屋からもほど近い場所に『志音窯』を構えて作陶活動をされています。尾形乾山の写しの第一人者のひとりとしても知られ、『吉兆』『未在』『子孫』など関西を中心とした割烹の名店でもその器はよく使われています。そうしたお店になると乾山のオリジナルもお持ちのケースも少なくないですが、やはり耐久性を考えると日常的にお店で出すにはハードルがあり、オリジナルに比肩するクオリティの器として志音さんの器は捉えられているのではと思います。
うちの小屋でも、いくつかの器を贅沢に日々の食事に使っています。今回紹介する尾形乾山の写しの金彩の菊のモチーフの向付は、志音さんの代名詞とも言えるお皿のひとつで、うまくタイミングが重なり我が家に迎えいれることができました。
いかに料理にあうか、という基準。
僕は器もけっこう好きで、原則的に料理に合いそうかという基準で選んでいます。全体的には唐津のものの割合が多いのですが、志音さんの器はこの向付を含めて自分の中でも特別で、この向付にしても、料理が、そして食卓が実に華やかになります。白身の刺身をシンプルに盛るだけでも料理を主役として際立たせてくれるその存在感は、他の器ではなかなか辿り着けない領域に達しているように感じます。
下の写真のこちらの平皿は以前からうちで使っている志音さんの作品ですが、こちらは北大路魯山人の作品がモチーフになっている部分もありながら、写しではなく志音さんのオリジナルです。僕の自作のコロッケのような平易な料理に使っても、やはり引き立ててくれる度合いが群を抜いています。
『写し』という世界。
陶芸というカテゴリ全体でもそのような見方もできる部分もあると思うのですが、中でもこのレベルの完成度の『写し』の世界は、その完成までの手のかかりようを考えると完全にアートの領域と理解しており、この連載で取り上げることにしました。
写しのプロセスというのはある種クラシック音楽にも近いところがあるように感じていて、そもそもその再現に人生を捧げられる対象があってはじめて概念として成立するもの、という前提がまずあるように思います。陶芸の世界でいうと、絵付と焼き方の両方の研究が求められる尾形乾山もその代表格なのでしょうし、志音さんも写しに取り組まれている野々村仁清の世界もその類なのだと思います。その成り立ちの理解から再現の工程の1ステップごとに膨大な手探りと修練が求められる世界です。
今回のメインのお皿もこの発色に辿り着くまで何度も何度も試行錯誤を重ね、実際に焼いたものでも全部が外に出せるクオリティになるわけではなく、ある種狂気じみてすらいるそのプロセスは実にアートそのものであり、そこから絞り出されたものを垣間見られる、垣間聴けることにこちらの精神も随分と高揚を覚えるのです。
自宅で食事をする機会がそれなりにある方は想像してみてほしいのですが、器って一度購入すると長く使うケースが多いです。これは10年くらい使ってるな、というものがお手元にある人も少なくないと思います。
ここまで凝ったもの、アートと呼べるようなものを手元におくべきかというのは悩ましいところではありますが、パーソナルな思い入れをちゃんと持てるものを選んで大事に使うと、随分と生活が豊かになるのは、間違いないものだと思います。
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profile
1981年生まれ、神戸出身。広告代理店、雑誌編集者を経て、Sumallyを設立。スマホ収納サービス『サマリーポケット』も好評を博している。アート以外にも、音楽、食、舞台、などへの興味が強く、週末には何かしらのインプットを求めて各地を飛び回る日々。「ビジネスにおいて最も重要なものは解像度であり、高解像度なインプットこそ、高解像度なアウトプットを生む」ということを信じて人生を過ごす。
サマリーポケット
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