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Retrouvailles à Paris——松浦弥太郎の「パリで再会」
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Retrouvailles à Paris——松浦弥太郎の「パリで再会」

Vol.3 ロンドンからパリに届けられたテディベア

エッセイスト・松浦弥太郎が、パリの街で遭遇したさまざまな「再会」を描くショートエッセイ。色彩豊かなパリを背景に、時と人が再び交差する。第3回は6年前にロンドンで一目ぼれしたテディベアの面影を求めて、パリの北駅からロンドンへ。偶然の出会いがロンドンとパリを結び、失われた時間と温もりを運んでくる。

Text & Photographs by Yataro Matsuura

手のひらにのる小さなベアと目が合って

20日ほど滞在したパリからロンドンへ、小旅行に出かけたのは、ある秋のことだった。観光名所を巡る計画もなく、買い物の予定もない。ぼくの目的はただひとつ、イーストロンドンの片隅にある、昔から馴染みのある小さな店をもう一度訪れることだった 

カニングタウンにあるその店はテディベアばかりを扱う専門店だ。最後に訪れた6年前のある日、足を踏み入れたとき、棚の隅にひっそりと座っていた一体の小さなベアに心を奪われた。手のひらに収まるほどの大きさ。少し古びた布、つぶらな目。見上げるようなその表情と目が合った瞬間、なぜか胸の奥にやわらかな灯がともった。

しかし、そのときのぼくは買わずに店を出てしまった。理由は些細なことだった。値段はどうか、また来る機会があるかもしれない……。けれども帰国してから、その判断を繰り返し悔やむことになった。「なぜ、あのとき買わなかったのだろう」

その後悔は年月を経ても薄れることなく、むしろ輪郭を濃くしていった。もう一度あの店を訪れたい。今回のロンドン行きは、在りし日の後悔を埋めるためのものだった。

地図を片手に地下鉄を乗り継ぎ、ぼくはカニングタウンへ向かった。灰色の雲、冷たい風。レンガ造りの建物が並ぶ通りを歩くと、空気にはかすかな埃と古い紙の匂いが混ざっていた。期待はしていなかった。とはいえベアがあった店をもう一度訪れて、悔やんだ気持ちに区切りをつけたかった。

しかし、ようやく辿り着いたその場所に、店はもうなかった。看板は外され、扉には板が打ち付けられていた。そこにかつて小さなぬいぐるみたちが並んでいた痕跡は、どこにも残されていなかった。

立ち尽くすうちに、胸の奥にじわりと喪失感が広がっていった。6年前の迷いが、いまになって取り返しのつかない後悔へと変わった。

カフェのカウンターに立つ、不思議な男性との出会い

落ち込んだ気持ちを抱え、こちらも昔からよく知る、近くのカフェへと入った。木のドアを押し開けると、コーヒーと紅茶の香りが混ざったあたたかな空気が迎えてくれた。壁には小さな絵画や古い写真が飾られ、擦れた革のソファと木のテーブルが、ゆるやかな時間をつくっていた。ジャズが静かに流れ、窓辺のカーテン越しに午後の光が差し込んでいた。

カウンターには大柄な男性が立っていた。30代半ばほどだろうか。穏やかな目をしていて、初対面なのに不思議な懐かしさを感じた。紅茶を頼み、しばらくすると、気づけばぼくは男性に話しかけ、今回の旅の目的を語っていた。6年前に出会ったベアのこと、なくなっていた店のこと、そして後悔のこと。

男性は驚いたように目を見開き、やがて深くうなずいた。

「……ああ、あの店か。知っているよ。いい店だった。本当に惜しい」

「ご存じなんですか?」

「何度か行ったことがある。店主も温かい人だった。あそこがなくなってしまったのは、残念でならない」

そう言った男性の声には、ぼくと同じ寂しさが混ざっていた。

「6年前、迷ってしまって、結局買わずに帰ったんです。あれ以来、ずっと心に残っていて」

男性はじっとぼくを見つめ、それから笑みを浮かべた。

「わかるよ、その気持ち。ベアはね、一度目が合ったら忘れられないものなんだ」

「あなたもそういう経験を?」

「ええ、僕も。……ただ、僕の場合は“作る”側なんだ」

「作る側、というと……?」

「僕はテディベア作家なんだ」

そう言うと男性は、カウンターに置かれていた紙ナプキンを手に取り、指でつまみながら、まるでそこに布があるかのように空中ではさみを動かす仕草をした。しゃっ、しゃっと、空気を切る音が聞こえるようだった。

空中に描かれた1体のテディベア

「まずは布を選ぶ。ツイード、コーデュロイ、古いスーツ地……布には手触りがある。柔らかすぎると頼りなくなるし、硬すぎると冷たくなる。その間を見極めるんだ。ベアの性格は、布選びでほとんど決まってしまう」

窓から差す光が、男性の指先を白く縁取っていた。

「針も重要だよ」

男性は両手で小さな体を描き、指先で糸を締める仕草をした。

「長い針を使って、頭から脚まで貫くように糸を通す。そうすると関節ができて、手足が動く。糸を締める瞬間は、いつも息をのむよ。強く締めすぎれば布が破れるし、弱ければ形が崩れる。針を抜くたびに、心臓が少し早く打つんだ」

ぼくは熱い紅茶を口に含みながら、その緊張を思い描いた。

「そして、顔を縫うときが一番大事なんだ。目を縫い付けると、ベアが初めてこちらを見返す。ほんの数ミリずれるだけで、悲しそうにも、楽しそうにも見える。だから針を抜く瞬間は、いつも息を止める。どんな顔で出会えるのか、自分にもわからないからね」

その言葉に、6年前のベアの目を思い出した。あのときも確かに、目が合った瞬間に心が揺さぶられたのだった。

「詰め物はね……昔は木屑だったんだ。抱くとカリカリと音がして硬い。でも年月を経ると、体温のような温もりを持つようになる。いまは化繊わたが主流だけど、僕は羊毛を混ぜている。重さが出て、抱いたときに本物の小さな命みたいに感じられるから」

男性は両手に小さな重みを抱くように仕草をした。その手の中に、たしかに息づくベアの姿が浮かんで見えた。

「最後にね、胸の奥にフェルトで作った小さな赤いハートを縫い込むんだ。見えないけれど、必ず入れる。作り手の心を渡すおまじないみたいなものだよ」

男性の声が少し低くなり、カフェの空気が一段と静かになった気がした。カップの中の紅茶の表面に、窓の光が揺れていた。

パリのアパルトマンに届いたものは……

「だから、君が6年前のベアを忘れられないのは当然なんだ。一度でも目が合えば、その子はもう君の心に住んでいるんだよ」

ぼくは深くうなずいた。失われたと思っていたものが、男性の言葉で再び命を得て、胸の中でよみがえっていくようだった。

パリに戻り、旅先での日常が始まると、その出来事も少しずつ遠ざかっていった。けれど、心の奥には小さな灯のように残っていた。

1週間ほど経ったある日、滞在中のアパルトマンの郵便受けに小さな荷物が届いた。差出人の名前を見て、息をのんだ。あのカフェの男性だった。ぼくはパリの住所と滞在予定を男性に教えていたことを思い出した。

その日は雨上がりの午後だった。石畳は濡れて光り、街路樹からはしずくがまだ落ちていた。鳩が濡れた屋根をかすめて飛んでいった。部屋に戻り、包みを開けると、古い布と羊毛の匂いがふわりと立ちのぼった。小さなテディベアが、弱い光の中でやわらかな影を落としていた。

添えられた手紙には、こう記されていた。

「探したけれど見つからなかった。だから自分で作った。君のために」

ぼくはしばらく言葉を失い、その文字を何度も読み返した。失ったと思っていたものは、形を変えてここに戻ってきた。6年前のベアではない。けれど、それ以上に深い意味を持つ存在だった。

窓の外の雲の切れ間から光が差し、石畳に淡く反射していた。小さなベアを手にのせると、ベアの目とぼくの目が合った。その澄んだ瞳には、6年前に失ったと思っていた時間と、いま確かにここにある温もりが、静かに重なっていた。

「こんにちは」とぼくはつぶやいた。

profile

松浦 弥太郎

エッセイスト。クリエィティブディレクター。「暮しの手帖」編集長を経て、「正直、親切、笑顔」を信条とし、暮らしや仕事における、楽しさや豊かさ、学びについての執筆や活動を続ける。著書に『今日もていねいに。』(PHP研究所)、『しごとのきほん くらしのきほん100』(マガジンハウス)、『正直、親切、笑顔』(光文社)など多数。

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