コシノジュンコが命名した「キラー通り」
青山通り(国道246)の青山三丁目の交差点を横断する道には「キラー通り」という愛称が付いている。行政的な名称は「外苑西通り」というのだが、青山一丁目駅のところを走る「外苑東通り」と「西通り」をタクシーの運転手などに指示するとき、いまだうっかり混同してしまうことがある。
ちなみにこの外苑西通り、目黒通り側の起点とされる白金台から白金六丁目にかけての区間は「プラチナ通り」、さらに広尾から西麻布にかけては「地中海通り」(近頃あまり聞かなくなったが)と、ニックネームが付きやすい道路ともいえる。プラチナと地中海はともファッション系雑誌が出元というが、キラー通りはクチコミで広まった印象が強い。
もっとも、最近では“デザイナーのコシノジュンコの命名”という説が定着している。僕は実際4年前に雑誌(サンデー毎日)鼎談の進行役を務めた折、コシノ氏自身の口から「1969年頃に私が名付けた」という旨を伺っている。コシノジュンコの東京最初のブティック(コレット)は、青山通りの青山二丁目信号(絵画館口)近くにあったそうだが、69年に外苑西通り沿いに引っ越した。そのとき、すぐ近くの青山墓地から埋葬→殺人(キラー)と連想、大流行していたピンキーとキラーズにもひっかけて、「キラー通り」の名を考案。オープンする「ブティック・ジュンコ」の紹介状にも入れこんだという。
殺人なんて縁起でもない……と思われる方もいるかもしれないが、おそらく“ミステリアスなムード”を出したかったのだろう。ところで、このコシノさんのブティックが入っていたと思しき「セントラル青山」名義のビルが3棟、いまも南青山二丁目バス停前に並んでいる。カマボコ型のベランダ窓、玄関先の湾曲した石段などがチャーミングな3棟のマンションビルは、1968年から70年にかけて建築されたもので、まさにピンキラがハヤッていた時代。この年代のビルはもはや充分クラシック物件の趣がある。
道角に建つ「スキーショップジロー」も僕が大学生だった70年代中頃にオープンした老舗だ。そういえば当時、青山三丁目に向かって右側に「O&O」(オー・アンド・オー)というドライブイン・レストランがあって、車の免許を取ってまもない友人とよく行ったおぼえがある。駐車スペースのスレスレまで店の広いガラス窓が迫っていて、ぶつけないかヒヤヒヤしたものだ。その「O&O」のあった脇あたりから梅窓院の横を通って246へ出る旧道がある。最近この道に「ボチボチ通り」というおもしろい名前が付いているようだが、このクネッとした道は明治、大正の頃の地図でなぞると梅窓院の一角を水源にした川筋で、笄川(こうがいがわ)と呼ばれていた。笄(町)というのは西麻布のあたりの旧町名で、広尾を過ぎて天現寺で渋谷川(古川)に合流していた。「スキーショップジロー」の裏手には、いかにも川跡って感じの路地が続いている。
最先端ファッションのランドマークだった青山三丁目交差点
さて、中心の青山三丁目交差点、西麻布側から上ってくると、ひと頃までは左角にVANのビル、右角にベルコモンズ(鈴屋)がシンボリックに立っていたが、もはやどちらもない。左角はもう何年か前に「ジ アーガイルアオヤマ」という高層ビルになったが、取材で歩いた9月中旬、左の角の往年のVANの跡にも〈louis poulsen〉というデンマークの高級照明ブランドのオープン告知が掲示されていた。
そもそも、青山通りと交差するこの道は、前の64年オリンピックに合わせて敷設されたもので、石津謙介のVANは交差点自体が完成してまもなくここに本拠を構えた。単にアイビー・ファッションのショップというばかりではなく、VAN99ホールなんて劇場も収容して、新鋭だった劇作家・つかこうへいの「熱海殺人事件」などもここから人気に火が付いた。
昔の面影を探しながら、千駄ヶ谷方面へ
キラー通りを千駄ヶ谷方向に進んでいくと、やがて右側に「ベイリー・ストックマン」というアーリー・アメリカン調の木造2階屋が目に入るが、ウエスタンブーツやアクセサリーを扱うこの店は古い。DCブランドの草分けとされる松田光弘の「ニコル」も金子功の「ピンクハウス」もこの界隈に存在していたが、そういうオシャレ店を集めた「パズル青山」というファッションビルもあった。
左手、トンカツ屋の「まい泉」の方に入っていく道角にはしばらくソバ屋の「増田屋」があったはずなのだが、いつしか新ビルに変わっている。その先の「ワタリウム美術館」の1階の洋書や雑貨を陳列した「オンサンデーズ」は健在だ。このミュージアムを知ったのは80年代初めの雑誌『ブルータス』だった気がするけれど、ワタリウムという名は運営する“和多利さん”に由来する。昔からサブカルっぽいテーマの展示をよくやっていたが、歩いていたこの日は明治の奇人・山田寅次郎の展覧会をやっていた(11月19日まで)。オスマン帝国(トルコ)との交流につとめた民間大使にして山田家偏流の茶人、さらに潜水夫としても活躍した……という、なんとも幅の広い寅次郎の趣味グッズの展示に目を奪われた。なんでも、このミュージアムを開いた和多利志津子さんは山田寅次郎のお孫さん、という血縁もあるらしい。
道がゆるやかに右カーブした先に神宮前三丁目の交差点がある。ひと頃まで交差点の手前に大きな星のマークを掲げた運動靴の「月星」のビルが建っていたので、これを目印にしていた人もよくいたけれど、もはやない。しかし、向こう側の角の秀和レジデンスのビルは往時の姿を留めている。そのちょっと先に、陸橋が架かっているが、これはよくある歩道橋とは違う。橋上の細い道の方が古道なのだ。北方の神宮外苑一帯が陸軍の青山練兵場だった明治時代の地図からこちらの道は描かれている。
キラー通りと呼ばれる区間は、もう少し先の仙寿院の交差点くらいまでだろうか。ちなみに、アルバム(2005年発売)のタイトルに「キラーストリート」と付けて、キラー通りの存在をよりいっそう広めたサザンオールスターズが録音で使ったビクタースタジオは、この交差点角にある。
仙寿院の1つ先の交差点は観音橋と付いているけれど、これは陸橋ではなくかつて流れていた川の橋の名前。新宿御苑内の池や玉川上水を源とする渋谷川はこの辺を流れて原宿の方へと続いていたのだ。
さっきの神宮前三丁目の交差点まで戻ってくると、近頃は明治通りの方へ行く道にも「キラー通り商店街」の表示が出ている。これをちょっと進むと、ユナイテッドアローズ本社の手前の道端に「原宿橋」「昭和九年」(築)と刻んだ昔の渋谷川の橋柱が、朽ちた道祖神のように立っている。
profile
1956(昭和31)年、東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。『週刊TVガイド』等の編集者を経てコラムニストに。主に東京や昭和、カルチャー、街歩きなどをテーマにしたエッセイを執筆している。近刊に『昭和50年代東京日記』(平凡社)。