ネオンに彩られた、華やかなディスコの街
六本木、という地名には、なんとなくシャレたアソビ場のイメージが付きまとう。もっとも、こういう木の本数を使った地名は全国各地にあるもので、愛用するスマホのバス交通アプリで停留所名を検索してみたところ、一本木から八本木までは存在し、九本木はなかったが、十本木というのが福島の会津にあるようだ。六本木も東京の他、埼玉の行田と岩手の花巻にバス停が存在する。
六本の松、あるいは木の付く名の6軒の大名屋敷……なんてのが由来の諸説らしいけれど、僕がこの街に出掛けるようになった1970年代は六本木通りと外苑東通りの交差点が六本木の中心であり、もう都電は廃止されていたけれど、ここにアプローチする地下鉄日比谷線の駅もあって、出入り口の脇の喫茶店アマンドの前が待ち合わせの定番スポットになっていた。
外苑東通りがほぼ南北に、六本木通りが東西に走っているが、そんな六本木交差点近くの駅の出口を出て、かつて僕が最もよく行ったのは南東側のブロックである。外苑東通りの1つ目の路地(70年代中頃は角にパブ・カーディナルという銀座ソニービルと同じ本格パブがあった)の奥(右側)にディスコの殿堂・スクエアビルが立っていた。
ビルの竣工は74年というから、僕は高3の頃だが、よく行った大学生の時代には地下から上の9階あたりまで趣向を変えたディスコが入っていた(いや、正確には1階はゲームセンターで、ここで初めてスペースインベーダー機を目撃したのだ)。スクエアビルの場所には現在ホテルが建って、他のディスコが散在していた雑居ビルも消えてしまったが、ステーキの「瀬里奈」だけはいまも同じ場所でがんばっている。
そんな「瀬里奈」の裏の階段道は独特の味わいがある。階段脇でひと頃営業していた単館系の洋画シアターは閉業してしまったが、階下に覗き見える墓地の景色は昔と変わらない。とくに昼間眺めると、場末らしい哀愁が漂っている。谷底のような所にある墓地は、周辺の複数の寺の共同墓地というが、この脇道を奥の方へ行くと、丹波谷坂とか寄席坂とか、山谷が入りくんだ麻布台地らしいシブい坂がある。
進駐軍時代の面影を探して
共同トイレの前から表の外苑東通りに出てみよう。向こう側にロアビルがいまも健在だ。もはや店舗は少なくなってしまったようだが、高2の僕が初めて目にした頃はファッションビルの草分けで、夜更けに六本木交差点の方向から眺めたとき、ROIと赤い灯をともして白光りするこのビルの姿が神秘的だった。その横の通りの先に聳え立つ東京タワーのショットも素晴らしかった。
先の墓地側の角に「ハンバーガー・イン」があり、その奥に「レストランキャンティ」の六本木店があったが、「キャンティ」の本店はいまも飯倉片町の先にある。この飯倉の「キャンティ」やピザの「ニコラス」、六本木交差点の「アマンド」横の地階の「シシリア」……と、六本木は70年代はおろか、60年代から本格イタリア料理の店があった。イタメシ先進地だったわけだが、そういうバタ臭い店が早くからにぎわったのは在日米軍の広大な宿舎「ハーディ・バラックス」の存在が大きい。
「ハーディ・バラックス」の場所はいまの東京ミッドタウンと道向こうの青山墓地の方にかけての一帯。施設の一部(米軍ヘリポートや星条旗新聞社など)はまだ残されているが、戦後ここに駐留していた米兵たちを顧客にしたレストランやバー、画商、アンティークの店……などが定着していったのだ。外苑東通りのカラオケパセラの向かいあたりに、そういう進駐軍時代の面影のある2階建ての骨董屋などが改修されて3、4軒残っている。
90年代に生まれた、六本木のランドマーク
ロアビル裏の東洋英和女学院や国際文化会館が並ぶ鳥居坂上の台地は、明治の頃から皇室御用邸や三條邸、岩崎邸などの大邸宅が置かれていた一等地。「ハードロックカフェ」のゴリラのオブジェを横目にロアビルの裏の道を歩いていくと、やがて芋洗坂に行きあたる。六本木交差点のアマンドの横に出てくるこの坂道は、下っていくと麻布十番の商店街に入っていく旧道で、90年代くらいまではこの坂を田町から新宿の方へ行く都バスが走っていた。
90年代くらいからの30年間で、とりわけ変貌したのはこの南西ブロック、六本木ヒルズを中心にした一帯だろう。80年代のいわゆるバブルの頃は、鳥居坂下から外苑西通りの青山墓地前に続く広い新道はまだ工事中で、ヒルズ周辺の目ぼしい物件というとテレビ朝日と麻布トンネル際にネオン看板を掲げた「メイ牛山のハリウッド化粧品」くらいだった。六本木ヒルズの開業は2003年、敷地内の毛利庭園に設えられた毛利池は江戸時代の毛利甲斐守屋敷にあった池を下敷にしたもので、関係はよくわからないが、宇宙飛行士の毛利 衛氏が実験で使った“宇宙メダカ”というのが一時期ここに放流されていた。
池といえば、ヒルズ建設前のテレ朝の脇にはニッカ池(ニッカウヰスキーの工場内にあった)というのがあって、釣り糸をたれる人が集まった写真を見たことがあるけれど、かつて「日ヶ窪(ひがくぼ)」と呼ばれたこのあたりの谷地には金魚養殖をする家の小池が点在していたという(ヒルズ竣工の頃まで1軒だけ古い金魚屋が残っていた)。ニューハーフショーの名店「金魚」も何らかの土地の縁があるのだろうか……。
現在の六本木のランドマークは、この六本木ヒルズと東京ミッドタウンのタワービル群といっていいだろう。いずれも、70〜80年代のディスコ時代には街の外れだった場所であり、それに伴って従来の中心地(交差点付近)が空洞化した……という印象を持つ。
年齢のせいもあるのかもしれないが、近頃は“昼の六本木”に行くことが増えた。それも展覧会の見学なんかで足を運ぶことが多い。森美術館、サントリー美術館、国立新美術館……小さな施設も含めると、もっとある。
「ハーディ・バラックス」――というか、それ以前の陸軍第一連隊と歩兵第三連隊をつなぐ道から始まった通称・星条旗通りは、国立新美術館へアプローチする、きれいなプロムナードになった。ディスコからアートへ、夜から昼へ……六本木のアソビ場も変わった。
資料協力
アマンド六本木店
▶︎http://www.roppongi-almond.jp/
キャンティ飯倉片町本店
▶︎https://www.chianti-1960.com/
profile
1956(昭和31)年、東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。『週刊TVガイド』等の編集者を経てコラムニストに。主に東京や昭和、カルチャー、街歩きなどをテーマにしたエッセイを執筆している。近刊に『銀ぶら百年』(文藝春秋)。
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