生家からバスで最寄りの目白駅まで通った少年時代
目白というと、池袋の手前の控えめな駅……なんてイメージが浮かんでくるかもしれないけれど、駅が開設されたのは池袋よりも古い。明治36(1903)年開設の池袋駅に対して、目白駅は明治18(1885)年。こちらのほうが早くから開けていたのである。実際、JR山手線(当時は豊島線)は目白から雑司ヶ谷のほうを通って田端方面へ敷設する計画だったのが、目白東方の住民が「汽車の煙の火の粉で家が焼ける危険がある」と反対したため北進するコースに変わって池袋の駅ができた……という経緯がある。
さて、そんな目白はわが生家(現在の都営大江戸線「落合南長崎駅」付近)から一番近い山手線の駅だった。目白通りを往来するバスを使ってよく目白駅へ出ていたので、とりわけ駅の西側は親しみ深い。そちらの下落合の側から案内していこう。
いまは目白通りと山手(環6)通りの交差点北東側から目白(豊島区)の町名があてられているけれど、幼い頃、この交差点よりも西寄りの一角に「目白映画」という東宝の映画館があって、そこが家から最も近い“目白名義”の物件だった。
聖母病院のほうへ行く道の入り口を過ぎて、下落合4丁目、3丁目の領域に入ると、イチョウの街路樹が続くようになって、街並みがどことなくおちついてくる。とくにピーコックストア目白店(僕が小5か6年の頃にできた。町の文房具屋にないシャレた筆箱を見つけて感動した……)の裏手あたりに入っていくと、大きなお屋敷が目につくようになってくる。そういう一角に近年一般公開されるようになった大正期の洋画家・中村彝(つね)の旧居(アトリエ記念館)がある。ちょっと入母屋造りを思わせる三角の赤屋根をのせた和洋折衷センスの建物がおもしろい。
この奥の2丁目の台地際に自然豊かな「おとめ山公園」がある。おとめとは「乙女」ではなく「御留」の意味合いで、一般立ち入り禁止の徳川幕府の鷹狩り場に由来する。その後は近衛家や相馬家の所有地になったが、僕の少年時代は荒地に森林が広がる一帯で、崖から湧き出す小川の下の池に淡水性のエビ(アメリカザリガニが主流になりつつあったが、灰茶色の国産種も)がいた。網のフェンスに開いた穴から中へ進入して、ザリガニ採りをするのに夢中になった。
白亜の洋館、教会…エキゾチックな雰囲気を醸す邸宅街、近衛町
先に近衛家と書いたが、この東側、いま「日立クラブ」になっている場所に近衛篤麿や文麿の暮らした邸宅があった。現存する白亜の洋館は1928(昭和3)年に近衛家とゆかりの深い学習院の寄宿舎として建てられたもので、昭和天皇が皇太子の時代に寮生活をされていたこともあるという。
ちょっとコロニアルなスペインあたりの教会を思わせるような建物でもあるけれど、このすぐ北側に、日立クラブの佇まいともよく調和した「日本バプテストキリスト教 目白ヶ丘教会」が立っている。そして、門前の道の真ん中に円形スペースを設けてケヤキの老木がぽつんと残されている景色も素敵だ。
この目白駅西方のエリア、近衛家の屋敷があったことから通称・近衛町と呼ばれている。正式な町名にはなっていないけれど、周辺の電柱に注目すると配電の地区名に「近衛」の名が使われている。
目白は教会の多い街だが、目白通りの北側にはステンドグラスの美しい目白聖公会がある。こういったキリスト教系の教会施設が街にエキゾチックな演出を施している、といえるかもしれない。聖公会の裏方には徳川邸の跡地に戦後できあがった外国人向け住宅「徳川ドーミトリー(ビレッジ)」がある。ここの入り口にすっくとそびえるモミの木(ヒマラヤスギかも?)は僕の子供時代からこの辺のちょっとしたランドマークで、クリスマスの頃にオーナメントやボールが飾りつけられていたショットが目に残っているのだが、いまも続いているのだろうか……?
そう、クリスマスといえば、かつて目白の駅前には「ボストン」「田中屋」という二大名ケーキ店が存在したのだが、これがなくなってしまったのは残念!(「田中屋」は洋酒店のみビル地階に残る)
キャンパス、都電、坂……東口はいかにも目白らしい雰囲気
では、そろそろ駅の東(山手線内側)のほうへ進んでいこう。「トラッド目白」というショッピングビルはひと昔前まで「コマース目白」、さらにその前は「目白市場」だった。シャレたレストランが目につく「トラッド目白」の2階に趣味の切手屋(エスケースタンプ)が入っているけれど、これは高田馬場寄りの線路端にある「切手の博物館」の関係だろう。もっとも、こういう昔からの屋敷街には切手やコインのコレクターも多いはずだ。
まぁこちら駅の東側といえば、なんと言っても学習院(幼稚園・中・高・大学)をはじめとする文教施設である。学習院の歴史について語り始めたら紙幅が尽きてしまうのでここでは省くが、向かい側には女子校の川村学園、公立小の名門・目白小学校があり、さらに目白台のほうへ進むと日本女子大学や独協(現在は中、高校)などが存在する。
明治通りが交差する千登世橋、とくに隣接する小橋の上は僕が初めて都電(荒川線)を見物しにきた思い出深いポイントだ。ここから新宿方面を見下ろすと、深い石垣の切通し脇を都電が走っている。こちら目白通りの南側は落合のほうから続く台地の端っこゆえ、急坂が神田川の低地に向かっていくつも並んでいる。都電の橋を渡って最初の「のぞき坂」、鬼子母神表参道のほうから目白不動のある金乗院門前へ下っていく「宿坂」……。
なかでもとりわけ景観が素晴らしいのは古い酒屋(鳳山酒店)の横から始まる「富士見坂」だ。入り口の出桁(だしけた)造りの酒屋も素敵だが、この坂は途中の黒瓦屋根の古家を挟むようにして日無坂という狭い坂道と枝分かれしていく。そんな“Y(ワイ)字”の急坂の先に早稲田や新宿の市街が一望できる。
目白台といえば思い出す、「目白の総理」田中角栄邸
このあたりから町名は文京区の目白台、東方は関口。南側の崖側には椿山荘や肥後細川庭園、講談社の野間家の旧邸(野間記念館)など、江戸大名の下屋敷に由来する景勝地が並び、駅の西側からのイチョウ並木はずっと続いている。そう、“目白の総理”と呼ばれた田中角栄の邸宅もこの一角に存在した。
こちら側にもカトリック関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂)という有名な教会があるけれど、その向かいの椿山荘の脇から江戸川橋のほうへ下っていくのが目白通りの旧道(もとは清戸道と称した)で、目白坂の名も付いている。
左手(北側)には神社や寺が並んでいるが、正八幡神社の斜め向かい、現在マンションの敷地になっている一角に戦前まで新長谷寺というのがあって、目白不動は当初ここに奉納されていたらしい。徳川家光が方角をもとに「目白」と命名した五色不動(他は目黒、目赤、目黄、目青)の一つ。つまり、目白の地名の源はこの辺だったのだ。清戸道(目白通り)という清瀬方面へ続く街道に鉄道駅ができてから、目白の町の中心は西へ移動していったのだろう。
資料協力
中村彝アトリエ記念館(資料協力:新宿歴史博物館)
▶︎https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/tsune/
日本バプテストキリスト教 目白ヶ丘教会
▶︎http://mejirogaoka-church.com/
学校法人 学習院
▶︎https://www.gakushuin.ac.jp/
profile
1956(昭和31)年、東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。『週刊TVガイド』等の編集者を経てコラムニストに。主に東京や昭和、カルチャー、街歩きなどをテーマにしたエッセイを執筆している。近刊に『続・大東京のらりくらりバス遊覧』(東京新聞)。