“昭和50年代デビューの街” 代官山が地味だった頃
僕にとっての代官山の最初の記憶は“香ばしいパンの匂い”なのだ。東横線に乗って日々日吉の高校へ通学している当時、代官山の駅に停車するとホームのすぐ脇の「森永ベーカリー」の古い看板を掲げた木造小屋から焼いたパンの甘ったるい匂いが漂ってきた。これが高校1年の年だから、1972(昭和47)年。ホームのすぐ先はトンネルで、パン工場の向こうの丘の斜面には同潤会アパートが階段状に広がっていた。この森永ベーカリーの小工場は、同潤会アパートが撤去される頃(1996〈平成8〉年)まであったはずだ。
井の頭線の神泉駅にも似た、渋谷の隣の地味な駅だった代官山の周辺が“オシャレな街”として話題に上るようになるのは、せいぜい70年代の後半だろう。元号で言うと“昭和50年代デビューの街”という印象がある。
僕の手元に『TOKYOおしゃれ地図帖』という、女性誌『若い女性デラックス』が1975(昭和50)年の新年号の付録にしたポケット判の東京ガイドがある。これには原宿、青山、赤坂、六本木、銀座、自由が丘、下北沢、渋谷、新宿、吉祥寺、浅草、アメ横(紹介順)といった街(の店)が項目立てて解説されているのだが、代官山はまだ巻末の「東京全域」のページに3、4店が取り上げられているだけだ。
そこに載っている「harappa A」というネオな駄菓子屋は、代官山らしい洒落た小物屋の草分けとなった店で、僕がライター稼業を始めた80年代初めの『an・an』や『クロワッサン』誌にもしばしば紹介されていた。
そして、その並びに載っている「シェ・リュイ」も1975年の開店。今もフランス菓子やパンを売る店舗が代官山アドレスの向かいに健在だが、かつてはアドレスの前身の同潤会アパートの入り口にフランス料理のレストランがあった。結局入る機会を逃してしまった(いや1度くらい入ったかも?)けれど、前を通りがかるたびにパリの郊外に来たような(といってもこの時点でパリに行ったことはない)気分になったものだった。
ちなみに、代官山のフレンチというと、「小川軒」を忘れてはならない。「小川軒」が旧新橋駅舎(汐留)近くで開業したのは明治の30年代のことだが、枝分れしたこの代官山小川軒がスタートしたのは1964(昭和39)年のオリンピックの年だというから、代官山のレストランとしては古い。とりわけここは“上品おもたせの定番”レーズンウィッチで有名になった。
70年代後半あたりからのおしゃれタウンとしての代官山は、俗化した原宿に飽きたファッション関係者が移ってきたのが発端、といわれているが、大正や昭和戦前から偉人、富豪の屋敷や別荘がゆったりと並ぶ一等邸宅地ではあった。ブーム前に店開きした「小川軒」などは、そういう昔からの上客をお得意さんにしていたのだろう。
代官山の街づくりの祖・朝倉家の住宅と、都会の景勝地・西郷山
代官山の古いお屋敷として、一般見学できるのがヒルサイドテラスの南端に門を構える朝倉家住宅だ。朝倉家は明治時代から昭和の戦前まで米屋(精米業)を営んでいた地主さんで、ヒルサイドテラス(A・B棟、69年竣工)の一帯はこの家の敷地だった。保存されている主屋は大正時代の建築で、僕は何度か見学したけれど、屋内に立派な土蔵もある。目切坂側の崖の斜面に広がる庭の景色も素晴らしい。そう、昭和史モノのドラマなんかを観ていると、ここがよく大物政治家の邸宅として使われている。
庭の隅っこのほうを注意深くチェックすると、水路らしき溝が目にとまる。これは以前、敷地の一角を流れていた三田用水から庭池へ引きこんでいた水路の跡らしい。この水は、当初は精米にも利用されたのだろう。三田用水は笹塚の玉川用水から分岐して、東大裏から現在の旧山手通に沿うように通されていた水路で、ひと昔前までは駒沢通りの鎗ヶ崎の交差点先(中目黒寄り)の道上に用水の水道管が小さな鉄橋のように渡されていた。70年代前半に撮られた航空写真には、水道橋らしき細い管がまだ写りこんでいる。
朝倉家の脇の急坂・目切坂を挟んだ南側、キングホームスという高級マンションと最近「東京音大」のキャンパスができた一帯は、根津美術館で知られる大実業家・根津嘉一郎の洋風屋敷(その前は岩倉具視邸)が置かれていた場所で、さらに朝倉家の北側は西郷隆盛の実弟・從道の邸宅のあった、通称・西郷山。地形図を見ると、西渋谷台地の西端だから、おそらく遠方に富士が望める絶景ポイントだったのだろう。
朝倉家のある目切坂の切通しのあたりで台地の突端がヤリのように突き出していたのが、鎗ヶ崎の地名の元らしいけれど、僕は80年代の中頃から30年近く、鎗ヶ崎交差点近くのマンションビルに仕事場を構えていた。
仕事場を構え、バブル全盛期の代官山を余すところなく味わい尽くす
使いはじめの頃がいわゆるバブルの時期に重なっていることもあって、華やかな光景が思い浮かんでくる。まず初めに回想されてくるのが、ヒルサイドテラスの“クリスマスカンパニー”というクリスマスグッズ専門店の門前に立っていた巨大なクリスマスツリー。仕事を終えた宵闇迫る年の暮れ、鎗ヶ崎交差点から旧山手通りの坂を上っていくと、歩道橋の向こうのヒルサイドテラスの前に電飾モールきらめく豪華なツリーが立っていた。そう、ハロウィーンの仮装行列をいち早くやっていたのもこの街だった。
歩道橋のところから並木橋のほうへ行く道が八幡通り。この八幡は渋谷の金王八幡神社のことである。先述した「シェ・リュイ」を過ぎるとカフェバーの草分け「ラ・ボエム」(先頃閉店してしまった)が当時すでにあり、古い米屋の2階にあった奇妙な会員制バー(エビスナイト倶楽部、といったか?)に伊勢丹の人たちとよく行った。そう、飲んでいる途中で同潤会アパート内の銭湯(文化湯)に入りに行く奴がけっこういた……。
同潤会アパートの敷地には銭湯のほか、代官山食堂という大正末の開館当時からの大食堂があって、厨房の中で割烹着姿のオバさんたちが立ち働いていた。80年代の初め頃、この食堂でサザンオールスターズのインタビュー取材(先のラ・ボエムの上か隣りかに事務所のアミューズがあった)を行ったことを記憶する。
天狗、煙草、そして養豚(!)。怪人物・岩谷松平と「天狗坂」
ところで、現在の町名は八幡通りを境にして、南の東横線側が代官山町、北側が猿楽町と付いているけれど、東横線開通以前の明治末から大正時代の地図では、西方が猿楽(目切坂の脇に猿楽塚がある)、並木橋寄りの東方に代官山の地名が表記されている。地形を見ると、渋谷川に臨む西側の山が従来の代官山だったのかもしれない。
そんな古地図に代官山と記されている、JRの猿楽橋陸橋の手前あたりを横(渋谷側)に入ったところに、天狗坂という短い坂道がある。この“天狗”は鞍馬の山の天狗伝説ではなく、明治時代の中頃、銀座の今の松屋のあたりに巨大な天狗オブジェの看板を出して派手な商売をしていた「天狗煙草」の怪人物・岩谷松平に由来する。
1905(明治38)年の煙草専売法の施行で、私営の煙草販売が禁止されたのを機に「日本人の肉食による体質の向上を考えて養豚業を始める」と宣言、このあたりに1万3000坪の土地を買って、晩年を過ごしたという。養豚場はうまくいかなかったようだが、代官山の知る人ぞ知る史跡として、ひっそり謂(いわ)れ書きが立っている。1972(昭和47)年の住宅地図には、近隣に「天狗ずし」なんてのがあるから、それなりに地元に知られた場所だったかもしれない。
後回しになってしまったけれど、この10年来の代官山カルチャーとして、2011(平成23)年の暮れに猿楽町のヒルサイドテラス北方に出現した「T-SITE」にはふれておきたい。その中心になっている「蔦屋書店」は僕もよく利用するけれど、ここに来ると、本を探す自分が妙にオシャレになったような錯覚をおこす。
冒頭でパン工場の匂いのことを書いたけれど、この新しいスタイルの書店は、漂うシアトル系コーヒーの香りが、紙以上に鼻の記憶に残る。
資料協力
代官山 シェ・リュイ
▶︎http://www.chez-lui.com/
代官山 クリスマスカンパニー
▶︎https://www.christmas-company.com
参考資料
profile
1956(昭和31)年、東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。『週刊TVガイド』等の編集者を経てコラムニストに。主に東京や昭和、カルチャー、街歩きなどをテーマにしたエッセイを執筆している。近刊に『1964前の東京オリンピックのころを回想してみた。』(三賢社)。