特異な地形が生む水の循環
その島は上空から見下ろすと、こんもりとした緑に覆われ、島自体がひとつの巨大な森のようだった。「洋上のアルプス」とも称される屋久島は、1周約130km、約504㎢の面積に、1000m級の山が40座以上連なり、九州最高峰の宮之浦岳(1936m)を有する。ほぼ円形の土地に急峻な山々を擁する屋久島が、たとえばタジン鍋のような姿だったとしたら、最高峰が282mしかない隣の種子島はナンのように細長く平坦な島。薩南諸島最大の奄美大島ですら最高峰は694mであることからも、ここ屋久島が際立って個性的な島であることが分かる。
今からおよそ1400万年前、花崗岩マグマが堆積岩層を押し上げて隆起した屋久島の山間部は、ほぼすべてが花崗岩(かこうがん)でできている。土の少ない花崗岩のこの島になぜこれほど豊かな森が育まれたのか。それは「月に35日雨が降る」とも形容される豊富な雨水が影響している。南から北上する暖流・黒潮が湿った空気を運び、屋久島の高い峰々にぶつかって急激に冷やされ、雨に変わる。その雨が島を潤し海へと注ぎ、また水蒸気となることで繰り返される循環が、海岸から山頂へ、気温の変化に従い南から北からへと多様な植物の垂直分布を繰り広げる。屋久島が、「日本列島の縮図」とも「ノアの箱舟」とも言われる由縁だ。
「屋久島では、まるで水が血液のように島の隅々をめぐっています。“循環”を暮らしのなかで感じることのできる二つとない場所だと実感します」とSumu Yakushima(以下、Sumu)のオーナーで建築家の小野 司さんは語る。
にわかに持ち上がったSumu計画
2020年4月、小野さんは仕事で訪れていた屋久島の宿泊施設モスオーシャンハウス(以下、モス。現在宿泊は限定的)で新型コロナウイルスによる緊急事態宣言に遭遇する。そのとき一緒だったモスの代表・今村祐樹さんや、自然電力株式会社代表の磯野 謙さんらと雑談をするうちに、Sumu設立のプロジェクトが持ち上がる。結局そこから約半年、小野さんは屋久島にとどまることになり、建設に向け具体的に動き始めた。場所はモスの古いコテージが立っていた約800坪の土地。中瀬川と小田汲川に挟まれた流域に位置する。この場所に縁のあったプロジェクトメンバーが集結し、「環境再生建築」を目指すことになった。
2年の歳月をかけて昨年完成したSumuは、8人のオーナーの出資による実験型宿泊施設。これまでにオーナーやその家族、知人・友人、オーナー自身が営む会社のスタッフらが訪れたが、今年からはもう少し利用者の輪を広げることを考えているという。ただしここは一般のホテルや旅館のように、対価を支払って食事や掃除などのサービスを受けるだけの宿泊施設ではない。最も重要なのは、Sumuが「人間が自然や地球に対し、何ができるのかを対話し、行動する」学びの場であることだ。
モスガイドクラブの代表者でもある今村さんから、屋久島の多様な生命を育んできた流域生態系と出会い、繋がり、学びを深める「流域循環プログラム」を受けることができる。
小野さんや今村さんと合流した初日、まず連れて行ってくれたのは、Sumuから森の小路を15分ほど下ったところに広がる岩石海岸であった。途中、森のほうからきりりと涼やかな風が吹き抜けてくる。「ここは風が動く場所で、水が動く場所でもある。目に見えていなくても、土の中を水が流れているんです」と今村さんが説明してくれる。
山10日、海10日、里10日
今村さんはこう語る。「屋久島というと、屋久杉や宮之浦岳など山の世界をすぐに思い浮かべる人が多いと思いますが、海なくして、山を語ることはできません。その間の里も含めて“山10日、海10日、里10日”という暮らしが、むかしの屋久島にはありました。これは、どんなに魚が獲れても10日以上海に行ってはいけない、どんなに木が伐れても10日以上山に行ってはいけないという教訓を含んでいます。私はそんな山から海までの流域の生態系と一体となった人の営みを再生したいと思っています」
かつて屋久島はカツオやトビウオの漁が盛んであった。ことにトビウオは木陰の水場に産卵することから、森と海が接する屋久島のような地理的環境を好む。現在も漁獲量は屋久島が全国1位ながら以前ほど獲れないのは、浜の樹木の減少もその一因にあるそうだ。
「山から運ばれる岩が砕かれ、小石や砂となり浜ができあがるように、森と海のめぐりと繋がりが、多種多様な生命が息づく風景を生み出しています。森と海のあいだに生きる人間は、その美しい風景を壊すこともできるし、もう一度美しく再生することもできるのです」
滞在中、小野さんや今村さんが何度となく発した言葉。絶望するばかりでなく、まだ間に合ううちに、人間が行動を起こすことで未来に望みをつなごうというお二人の瞳は明るい。
海にいながら山を感じる
海岸には、これが水の力によって運ばれたものかと驚くような巨岩がひしめいている。岩礁にできた潮だまりを飛び越えながら先に進む。最初は恐々だったが、徐々に体が軽く動くように感じられる。タイドプールとも言われる大小の潮だまりに、小さな魚や甲殻類、海虫などの姿を見つける。波打ち際の岩をびっしりと覆う黒い藻のようなものは「シオノバクテリア(藍藻)」という細菌。
「30~25億年前に地球上に出現し、初めて酸素発生型光合成をした生物。それ以前の茶色い原始の海を、彼らが透明にしてくれました。とても重要な生命体です」と今村さん。
「ここに湧水がある。袋に採りましょう」という今村さんの声のほうへ行ってみる。膝丈ほどのタイドプールの底から、水が湧いているという。そこは真水と海水が交わる場所。川や土中を通って流れてきた山からの水の出口だ。周辺の水を手ですくって飲んだ川上さんが、「いい出汁といい塩加減のスープみたいだ」と驚きの声をあげる。森のミネラル、海のミネラルが存分に含まれたその海岸湧水で、今晩のご飯を炊く。
やがて山側の森が開けたほうへ進むと、小さくなだらかな滝が現れた。小田汲川の河口である。周囲には山から来た流木も散見される。薪に使えそうな小枝を見つけては拾いながら、帰途につく。
海にいながら森や山を語る小野さんや今村さん。我々の気持ちも自ずと山へと向かう。明日は山を案内してもらうことになった。
屋久杉は苔に守られている
標高1000m~1300mにあるヤクスギランドは安房(あんぼう)川の支流である荒川の上流に位置し、5つの散策コースがある。ここでは紀元杉、仏陀杉、母子杉、小田杉などの屋久杉(樹齢1000年以上の杉)を見ることができる。Sumuから車を走らせること約30分で入口に到着。途中、シダの群生する道路脇に車を停め、昼ご飯用の箸になるシダの枝を手折る。もうしばらく進むと、車窓からヤクシマザルの群れが体を寄せ合う姿を目にする。
ヤクスギランドの整備された石道と木道は、天候が良い日であれば履き慣れた運動靴で安全に歩くことができる。この日は荒川橋からハイライトともいえる仏陀杉へショートカットする50分(1.2㎞)のコースを歩くことに。びっしりと苔に覆われた岩が森の入口で出迎えてくれる。昼なお暗い厳かな森の空気は、ひやりとして湿潤。常緑樹の照葉樹林の森から始まり、標高により徐々に北日本に似た森林へと移り変わる。
昭和30年~40年代にかけて屋久杉の乱伐は歯止めがかからず、多くの山が禿山となった過去がある。しかし段階的に自然保護のための調査や活動が進み、2001年以降、屋久杉の伐採は一切禁じられた。現在許可されているのは、屋久杉の種や苗から植林された「屋久島地杉」のみ。だが人間が節度をもって屋久杉と付き合ってきた長い歳月、それは島の人々にとって山からの貴重な恵みでもあったという、二律背反の歯がゆさがある。林業で生計を立てる島民からは反発の声もあり、この問題は島民を二分することになった。
今村さんは語る。「土の少ない屋久島で植物が生きられるのは、苔の存在があるからです。苔は雑菌から植物の種を守る役割もありますし、雨や水蒸気により水を貯え、植物に水分を供給します。屋久杉は一般的なスギに比べて成長がとてもゆっくりな分、寿命も長く、年輪の幅が緻密なことから、木目が美しく内装材などの装飾に重宝されました。
樹脂も通常の杉の約6倍と言われ、抗菌・防虫効果も高い。周囲を海に囲まれ漁業が盛んだったこの島では船の建材としても欠かせないものでした」
厳かな森の中で海を思う
現在も縄文杉に代表される幹がうねった屋久杉の巨木がそのままに残っているのは、島民にとってそれらが畏怖の対象であったという説や、建材には向いていなかったという説など諸説ある。京都高山寺の石水院や島津家仙巌園の御殿にも屋久杉が使われ、今も美しい姿を留めているのは、当時の大工や職人が植生にも精通していたことが理由でもあるという。「むかしの人々は“木を買わず山を買え”と言ったそうです。それはその木が森の中で生きていた環境を知る必要があるから。建材にしたときも山に生えていた時と同じ方角で柱や梁にすると長持ちするとか、そういうことです」という今村さんの言葉に深く納得する。
森を進むと、着生植物のヤマグルマがスギに巻き付いている光景をよく目にする。それ以外にもナナカマド、サクラツツジ、ヒノキ、新たなスギの芽がスギの巨木から生えていたりする。ここにも命の循環があることが端的に見て取れる。
小野さんは言う。「倒れた木にも苔が茂り、そこに新しい植物が着生している姿が見られますよね。朽ちながらその木はなお次の命を生かすための栄養になっている。命のリレーが行われているんです」
島では「木の芽流し」と言われる春の長雨が終わった頃で、若葉が美しい。6月に近づくと再び梅雨に入る。屋久島ではフタリシズカの花が梅雨入りを知らせ、ヒメシャラの花が梅雨明けを知らせるという。肌を包む湿り気を帯びた清涼な空気をいつしか胸に深く吸い込んでいる。心なしか聴覚も研ぎ澄まされているように感じるのは気のせいだろうか。
すると小野さんが掌を後ろ向きにして耳に当てている。「これは今村が考案した方法ですが、こうするといつもとは違う感覚があるはずです。野生の動物が耳を動かして後方の音を聞き分けるように、すぐそこの小川の音も違って聞こえるでしょう。人間も本来は感覚の塊なんですよね。一般的には五感に区分されることが多いけど、リズム感やバランス感などはそのどこにも属さない。少なくとも人間には40種くらいの感覚が備わっているという説もあります。こうした剝き出しの自然のなかにいると、普段は蓋をしている本能的な感覚が目覚め、拡張されるという側面があるかもしれません」と小野さん。
デザインにおける良好な循環
出口へ向かう道すがら、枯れ葉や枯れ枝が堆積し、水の流れを止めている箇所を見つけては、手でかき分けている今村さんと小野さん。「こうして詰まりを流しているんです。ほんの小さな淀みが、水の循環を停滞させてしまう。ちょろちょろとしたこの筋が、川となって山を下り、里へ流れ、海へと注ぐ“水の道”を塞ぎたくない」と言う。
やがて林泉橋へ出ると、眼下にはごうごうと音を立てて流れる荒川が見えてくる。
「たとえばこの葉っぱには葉脈が通っていますが、人間の血管とよく似ていますよね。山も同じだし、ひいては宇宙も同じような構造をしているんです。どこかが詰まると支障をきたし、まんべんなく循環していると状態がいい。植物や動物が気持ちよさそうにしている状態を人間は美しいと感じ、逆に苦しそうにしている状態を不快に感じるでしょう」という小野さんの言葉に、「デザインも同じかもしれません。どこかが詰まっていると美しく感じられない。そういう生理的な美的感覚も、五感には含まれない人間の大切な感覚のひとつですね」と川上さんが反応する。
Sumuに戻ると、海が見たくなり自然と足が観潮デッキに向かう。誰もが無言で海を見つめているうちに、西日が優しく山を覆い始めた。今村さんに促され、敷地の落ち葉をかき集め、畑の土つくりと炭焼きを体験させてもらうことに。
里でできることを怠らない
本格的に作物をつくるのはもう少し先で、今は硬くなっていた土を改良している最中という今村さん。農薬や肥料を用いず、土中の環境再生を促しながら森から海までの流域資源を活用した自然栽培を目指す。
「木の幹や枝を燃やして炭にしたものを地中に埋めると、炭の空洞に菌類をはじめとする生物が住み着き、有機的な営みが生まれます。ほら、ここにミミズがいるでしょう」
除草剤は使わず、落ち葉を畝(うね)の周りにまくことで雑草駆除の働きをさせる。
「里は山と海をつなぐヘソのような存在だと思っています。屋久杉を乱伐したのは人間かもしれませんが、守ってきたのも人間です。屋久島を自然だけで語るのではなく、流域において人がどのように自然や地球と関わっていけるかを、私たちは自問自答し、また誰かと意見を交わしていくことが重要なのではないでしょうか」
屋久島の水の良さに感動し、25年前に大阪から移住してきた今村さんは、今では各地で飲む水の味がそれぞれ違うように感じられるという。屋久島のような水を飲める場所が地球に少しでも増えればいいと願い、屋久島の生命を育んできた流域とともにある営みを伝えている。
「結果はすぐに出なくても、長い時間のなかで育まれたものにしか宿らない輝きというものがあると思うのです。屋久島の水の美しさがまさにそう。少しずつでもいいから、心地よい風景、美しい生き方を、時を溜めるように淡々と積み重ねていく。そうした時間の積み重ねが、心を奪われるほどの美しさを地球に残してきたんじゃないでしょうか」
ゆっくりと長い時間をかけて育った屋久杉が強靭であるように、今村さんのこうした言葉からはしなやかな力強さが感じられた。
一方「健やかではない地球の上でいくら人間が気持ちよく暮らそうとしても、それは無理な話ですよね。そのことに気がついてしまった以上、僕は建築家ですが、上物だけに目を向けるわけにはいかなくなりました。その土台となる土の健康、さらには土の中の健康を見過ごせなくなったんです。今や自分の人生と同じように、地球の命が大事と感じるようにすらなりました。きっとこの生き方を貫くことになると思います」と小野さんは語る。
かつて屋久島は日本本土からのヤマト文化と、沖縄からの琉球文化の交差点であったと言われる。黒潮に乗って北へ南へ行き交う情報や交易の重要なハブであり、外部へと開かれた土地柄であった。島の周辺を漁場とする漁師たちは、屋久島のような特徴的な島を目印とすることを「山当(やまあて)」と呼んだそうだ。
折しも「iF Award 2023」でゴールド賞に輝き、サステナブルな建築が世界に認められた「Sumu Yakushima」。小野さんや今村さんの取り組みをひとつの指標とし、Sumuを目指し屋久島を訪れる人々は今後も連なっていくだろう。
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連綿と命の循環が繰り返されてきた屋久島の自然と、そこに住まう人々には、長い時間をかけてしか積み上げることができない美しい営みがあった。R100 tokyoディレクターとして3日間、屋久島に滞在した川上シュンさん。今回の旅ではそうしたタイムレスな価値観に触れ、時を取り戻す感覚を味わうことができた。次回のコラムでは建築として、暮らしの場としての「Sumu Yakushima」について、川上さんが小野さんにお話を伺う。
profile
株式会社tono代表取締役。1977年東京都生まれ。早川邦彦氏他のアトリエにて建築家修業の後、2007年株式会社リビタに入社。約9年間勤務の後、2016年株式会社tono設立。2020年4月、緊急事態宣言をきっかけに屋久島に移住することになりSumuプロジェクトをスタートさせる。土中の環境についての知見を学び、菌と建築家の関係を紐解くうちに自らを「菌築家」と名乗る。Sumu Yakushimaで「iF Award 2023」にてゴールド賞受賞。
▶︎https://sumu-life.net/ja/
▶︎https://www.to-no.me
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合同会社モスガイドクラブ、モスオーシャンハウス代表、イマジン屋久島実行委員、屋久島ウェルネス協会会長。1978年大阪府生まれ。大学卒業後、就職した仕事をやめ「自然の中で生きる力を身につけよう」と23歳のとき屋久島に移住。かつて「山10日、海10日、里10日」と形容された屋久島の森川海と一体であった流域コミュニティの再生を通して「いつでもどこでもおいしい水が飲める地球を再生する」ことを目標にSumu Yakushimaを含め、さまざまなプロジェクトに取り組む。暮らしたくなる島の魅力づくりとともに、人が訪れば訪れるほど島の自然がますます美しくなっていくような仕組みづくりに奔走している。
▶︎https://moss6.com/
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1977年東京都生まれ。独学でデザインとアートを学び、2001年artlessを設立。グローバルとローカルの融合的視点を軸にヴィジョンやアイデンティティ構築からデザイン、そして、建築やランドスケープまで包括的なブランディングとアートディレクションを行っている。NY ADC、ONE SHOW、D&AD、RED DOT、IF Design Award、DFA: Design for Asia Awards など、多数の国際アワードを受賞。また、グラフィックアーティストとしても作品を発表するなど、その活動は多岐に渡る。
▶︎http://www.artless.co.jp/