野老朝雄氏の活動や作品について詳しくお話を伺う前に、氏の育った環境について少しご紹介したい。野老氏の父親、野老正昭氏(1929-2011)は大学卒業後、竹中工務店を経て1958年に独立、野老設計事務所を設立。母親は独学でインテリアデザインを身につけ、資材の調達まで差配して事務所を支えた。その設計事務所はその後、建築士事務所としては廃業したが、屋号はそのまま野老氏が引き継いで現在も存続している。幼少の頃からそうした父母の背中を見て育った野老氏は、ごく自然に建築を目指すようになったという。
——子どもの頃から建築が身近にあったそうですね。
父の事務所には建築関係の雑誌がたくさんあって、それを絵本代わりにわくわくしながら見ていました。でも、一番記憶に残っているのは建設現場での体験です。父は僕をしょっちゅう現場に連れていってくれるのですが、そこでほったらかしにされる。でも大工さんや鳶(とび)の職人さんをはじめ、さまざまな職能をもつ人たちの仕事を間近に見ることができました。
職人さんたちの、その仕事ぶりが実にかっこいい。そこには物理的にも精神的にも“本物の重み”を感じられました。また同時に、基礎から鉄骨、コンクリートと、現場に行くたびにどんどん関わる人が入れ替わり、建物が形になっていく様子も見ることができた。今思えば、小さな子どもの自分が現場をうろうろするのは危険でもあり迷惑だったとも思いますが、貴重な体験でした。
——それで自然と、物心ついた頃から建築家を目指そうとしたのでしょうか。
育った環境がそう(建築関係)でしたから。父の付き合う人々も、やはり建築家や建築関係の人が多く、漠然と面白い職業だなと小さい頃から思っていましたので、自然と大学も建築学科を選んで進学しました。
その後、確か3年生のときだったと思いますが、江頭慎さんの“とんでもない”建築ドローイングを見て感激し、卒業後は彼がいるロンドンのAAスクールへ。いろいろあって1年で帰ってきたのですが、江頭さんの日本におけるアシスタントとして、その後5年ほど活動しました。
未曾有の災禍に断絶を感じ、生まれたテーマは「繋げること」
——2001年の9.11(アメリカ同時多発テロ)が野老さんにとっての大きな転機となったそうですね。そのときの状況を教えてください。
その当時、僕は引きこもりでした。実は江頭さんのアシスタントとして活動した最後の1、2年は、このままでいいのかと疑念を抱くと同時に、自分でなにか作りたいと思い始めていました。しかし、作家として活動することに踏ん切りがつかない状態でもあった。とはいいつつも創作は始めていて、いくつか手応えのあるシリーズも生まれつつありました。
ただ、それがプロダクトなのか、アクティビティとしての美術行為なのか、あまり深く考えないままの暗中模索ではありました。そんなときに、同時多発テロが起きたんです。
あの日テレビで中継を見て、映像がショッキングだったのはもちろんですが、それがテロであるとわかったとき、中近東、イスラムのことを自分はほとんど何も知らないことに愕然としました。いろいろな意味で、とてつもない断絶を感じたのです。
——そこから野老さんのテーマ「繋げること」が生まれたのですね。
結果としてそういうことになります。その頃、一応父の事務所に所属していましたが、先ほど言ったようにちょっと精神的に不安定な時期で、事務所に顔を出すこともなく悶々として日々を過ごしていました。
しかしあの日、断絶を全身で感じたときから、ピースマークの模索を始め、僕は小学校の幾何学の復習よろしく、毎日ひたすらパターンを描いていました。そうやって3カ月強経って1000パターン以上に達したとき、「いったい自分は何をやっているんだろう」と。描いているときは紋様を作っているという意識はありませんでしたが、ただ、繋がるということはどういうことか、いろいろな組み合わせ方があるものだなぁ……と漠然と考えていました。
それをはっきり言い表してくれたのが、AAスクールの先輩の建築家、寺田尚樹さんでした。引きこもっていた僕をあるオープニングパーティに引っ張り出してくれて、いろいろな人に「あ、この人、紋様作る人」と紹介してくれた。その紹介の言葉が、なんとなく腑に落ちたんですね。それがきっかけで出会いがあり、初の個展が実現し、活動の幅が広がっていきました。結局、今やっていることのほとんどのベースは、そこにあります。
——たしかに活動はファッションの領域まで幅が広がっていきましたね。
ファッションへの広がりは、小池一子さんとの出会いが大きかったですね。武蔵野美術大学の教授もされていた小池さんからお声がけいただいたのは、彼女が考えた「ウエアラブル」というテーマの講義を非常勤講師として手伝ってくれないかということでした。ところが、僕は建築の知識しかない。そのあたりを小池さんに相談しながら、自分ができるテーマを提案して、結局その後13年間、武蔵美のファッション領域の講師として教壇に立ちました。
このときの経験が、後に「コンディション・スペシフィック」という方法論というか、アプローチを考えるきっかけになりました。それは、例えば「建築の知識しかない」ではなく「建築の知識はある」と捉えることで、ネガティブな発想をポジティブに脳内変換する。助詞を変えるだけで考え方、姿勢が180度転換するというものです。つまり、与えられた状況=コンディションに対していかに真摯に向き合い、最適解を導き出すかということです。
自分のルーツ、建築への渇望は失われていない
——お話を伺っていると、これまでの野老さんの人の繋がり、縁が結果としていろいろなヒト・モノ・コトを繋げてきたという印象があります。
実は僕、元来人付き合いが苦手。コミュニケーションが不得手です。だから何かに託そうとするところがある。それが結果として人と人を繋げているのかもしれません。また、繋がり方にもいろいろあって、僕の場合、幾何学を繋げることで人を繋げている。繋げたいと思うのは、それを僕自身ではできないから。コロナ禍の社会になって、リモート会議とか僕は苦手ですが、これもまた別の繋がり方なのだと思います。
それから時間的な繋がりという意味では、おこがましい考えですが、自分の作ったものがピラミッドやナスカの地上絵のように永く遺(のこ)るものを目指していて、そのための“強度”とはなんだろうと、ずっと考えています。それは誰でも描ける再現性かもしれないし、無理だとは思いますが、自分の恣意(しい)性を消すことかもしれません。特に新しくもないけれど、長く継続して次の世代にバトンを渡せるようなもの……と言ってもいい。
例えば15年前に「奥青山トランスモーフプロジェクト」というリノベーションでファサードをデザインしたのですが、今デザインしても同じデザインになるというイメージです。昔はそんなこと考えもしなかったのですが、年をとって諦めていた子どもができて、その子が育つ様子を見ていると、ああ、こんなふうに物事を捉えるのかと驚いたり、気づきがあったりして、この子に託してみたいと思うようになりました。
——今後、建築家として活動されることはありますか?
昨年からスタジオをリフォームしていて、普段は倉庫ですが来客があったときに寝泊まりできるロフト空間をつくっています。僕は口頭で指示を出すだけで、設計施工のできる友人が日曜大工的に少しずつ作ってくれています。これを中途半端にやり始めてしまったからか、やっぱり僕は建築好きなんだなとつくづく思いました。
それで思い出したのが大学1年の頃考えていた、自邸のプラン。それは、1コースだけの25メートルプールが崖から突き出している家です。学生時代水泳部だったのですが、どうしても競争が嫌だった。競争できないプールが欲しいと思って考えた建築でした。そう考えると、かなり遠回りをしているなと思います。ただ、今も自分は建築の学徒だと思っていますし、建築への渇望、憧れは持ち続けていて、決して諦めているわけではありません。
“職住隣接”のワーク・ライフ・スタイルが豊かさを育む
——この仕事場のお隣がご自宅ということで、野老さんの日常生活というか、ワーク・ライフ・バランスについてお聞かせください。
コロナ禍でいろいろな展覧会や講演会、イベントが軒並み延期や中止となって、今は正直、気分が落ち込みがちな生活です。ただ、9.11や3.11(東日本大震災)のような大災禍、人間にとって不可避な事象は、必ずこれからも起こりうる。そういうときのために刀を研いでおくというか、今できることをする、作れるものを作っておくようにしようと考えています。ですから、夜中にひとりスタジオに籠(こも)って作業をしたり、時には自宅に移動して寝転がって描いたりという生活です。家族には申し訳ないのですが、僕にとっては手が止まるのが一番の罪悪なんだと思っています(笑)。
——仕事場と生活の場が隣り合わせというのは、オン・オフが難しいようにも思いますが、いかがでしょうか。
娘は今6歳なのですが、普段は仕事場の鍵を開けっぱなしにしているので、自由に出入りしてきます。僕が仕事をしていると、邪魔することなく、お絵描き用の紙をがさごそ取っていったり。なんとなく気をつかってくれているような感じもあります。僕の仕事について説明したことはないのですが、そうやって現場を見ているから、なんとなく理解してくれているんでしょうね。その距離感というのは不思議な感じ。家の中に仕事場やアトリエがあるのと、一応玄関が別で切り離されているのとでは違うと思います。僕にとってはこの職住近接、というか職住隣接は居心地がいいですね。
——生活空間の中で暮らしやすさという点で何か工夫されていることはありますか?
緑の在り方には気をつけていますね。それから、コロナ禍になってから娘の希望で猫を飼い始めたのですが、スタジオのほうには作品などが置いてあるので、猫をテーブルに登らせないように工夫しているところです。いわば猫との攻防戦なのですが、敵のほうが一枚上手(笑)。スタジオも自宅もあちこちがキャットタワー状態になっていますが、それはそれで、例えばデッドスペースをそう使うのか……など、猫に教えられることもあって面白いです。
——そうした日常生活の中で、野老さんが豊かと思う時間、あるいはシーンとはなんでしょうか
余白の空間というか、計画していなかった場所に緑が入り込んでいたり、予期せぬ事象が立ち現れる、つまり緻密なプラニングからではなく、思いがけずできたスペース。そういう場所や、それを発見する瞬間が豊かさなのかなと思います。それからこの仕事場は、神田川を挟んだ向かいに椿山荘と肥後細川庭園の巨大な緑のかたまりがあって、素晴らしい借景になっています。テラスからその緑と広い空、流れる雲を眺めるのは、豊かな時間だと思います。
profile
1969年東京都生まれ。1992年東京造形大学卒業。92〜93年Architectural Association School of Architecture(AAスクール)在籍。93〜98年江頭慎に師事、制作助手、ワークショップアシスタントとして活動。2001年9月11日より「繋げること」をテーマに紋様の制作を始め、美術・建築・デザインなど、分野の境界を跨ぐ活動を続ける。部分(ピース)を組み立てること(ピーシング)で生成される繋がる図を目指す。単純な原理に基づき 定規やコンパスで描画可能な紋と紋様の制作をはじめ、同様の原理を応用した立体物の設計/制作も行っている。2016年〜東京大学工学部非常勤講師、2018年〜東京大学教養学部非常勤講師。
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