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政界の要人も居を構える、渋谷を囲む高台の邸宅街・松濤
街歩きの風景

政界の要人も居を構える、渋谷を囲む高台の邸宅街・松濤

渋谷に隣接する高台の邸宅街・松濤から目黒区駒場を歩く

その街に住んでいるように街を歩き、文化、息づかい、地形の起伏などを感じていく連載。今回、歩いたのは渋谷区の邸宅街・松濤から目黒区駒場にかけて。ほぼ全域が山の手台地に位置する高台で、日本を代表する政治家、経営者、芸術家たちが居を構えている。エリア内にはBunkamura、戸栗美術館、渋谷区立松濤美術館などの文化施設が多くあり、諸外国の大使館も置かれている。全域に瀟洒な邸宅や低層マンションが多く、落ち着いた雰囲気に包まれている。渋谷川が作った盆地にある渋谷駅から、台地にある松濤エリア付近を歩いて行くと、渋谷の地形の起伏の豊かさを感じる。繁華街から邸宅街へ……東京の縮図のようにも感じるこのエリアの魅力を深掘りする。

Text by Aki Maekawa
Photographs by Nakaaki Fukunaga(ANZ)

邸宅街の入り口にそびえる百貨店と文化施設

東急本店は1967(昭和42)年11月1日、渋谷区立大向小学校跡地に開業。電鉄系デパートでありながら駅直結ではなく、落ち着いた雰囲気が持ち味。2023年1月31日、建物の老朽化により閉店予定。

松濤へは渋谷駅から「文化村通り」を上がっていく。渋谷駅周辺の道は「ファイヤー通り」や「公園通り」などユニークな名前があり、通りによって文化が異なる。

それは、70年代の「渋谷・パルコの空間戦略」の影響が大きい。これを率いたのは、当時のパルコ代表・増田通二氏。彼は街全体を巨大な舞台ととらえ、そこを歩く人を“俳優”ととらえた。その結果、街全体のみならず、通りをメディア化していったのだ。それができたのは、渋谷が戦後に形成された新しい繁華街だったからだろう。

東京は都市や街を歌った「ご当地ソング」が多く、ざっと数えて1000曲以上ある。しかし、戦前に作られた『東京ラプソディ』(1936〈昭和11〉年)などの曲に、渋谷の街は出てこない。なぜなら、戦前まで渋谷は郊外の入り口であり、小さな商店が並ぶ住宅地だったからだ。

1934 (昭和 9)年に「東横百貨店(旧東横店東館)」が開店し、渋谷の街が発展するかに見えたが、戦争が襲う。現在のような街が形成されたのは、戦後なのだ。

文化村通りを松濤に向かって歩み進めるうちに、駅からまとってきた騒音や雑念が落ちていくような感覚がある。そして、東急本店の威風堂々たる姿を見る頃には、頭の中のノイズが落ち着き、穏やかな心持ちに切り替わっていた。

松濤はまさに「文化村」だった

東急本店から、松濤方面を見ると「Bunkamura」というのぼりが見える。

通りの名の由来にもなったこの施設が誕生したのは、1989(平成元)年。コンサートホール(音楽)、劇場(演劇)、美術館(美術)、映画館(映像)の各施設をはじめ、カフェやアート関連ショップなどからなる日本初の大型の複合文化施設だ。

正面はアシンメトリーなデザインで、地下1階から6階まで「スパイン」(吹き抜け)構造になっている。これにより、各階は有機的に結びつき、四季の移ろいを感じることができる。

建物には入り口が2カ所ある。正面のエントランスは1階にあるが、松濤エントランスから入ると、そこは3階なのだ。松濤が高台にあることが、ここからもわかる。

西側方向から見たBunkamura。円や円柱を効果的に配したデザインは、どこから見ても優美だ。設計は三軒茶屋のキャロットタワーなどを担当した、石本建築事務所などが担当。

松濤には2つの有名な美術館がある。

まずは、1981(昭和56)年開館の渋谷区立松濤美術館。モダンアートや異性装などのカルチャーを取り上げる企画展が知られている。なかには入場規制がかかるほど話題になる展示も多い。

建物は「哲人建築家」と呼ばれた白井晟一(1905〈明治38〉〜1983〈昭和58〉年)が設計。ドイツで建築を学んだ白井ならではのモダンな空間も魅力だ。

石造りの壁と銅板葺きの屋根からなり、建物中央に噴水が配されている。内部には吹き抜けがあり、展示室が円形に囲んでいる構造は、Bunkamuraに似ている。建築物としても高い評価を得ており、ガイドが案内する建物見学ツアーも行われている。

ほのかにピンクを帯びた石造りの建物が特徴の松濤美術館。石は韓国ソウル郊外の石切場から採れる花崗岩・紅雲石(こううんせき)を使用。設計者の白井晟一は、麻布台のノアビル(1974年竣工)などでも知られる。美術館を設計したのは、ここが第1号だ。

次に紹介するのは1987(昭和62)年開館の戸栗美術館だ。日本有数の陶磁器専門の美術館で、7000点近くの伊万里や鍋島焼のコレクションがある。

創設者は実業家・戸栗亨(1926〈昭和元〉~2007年)。「後世への文化遺産の伝承」を強く願っていた氏は、40代頃から本格的に陶磁器を集めはじめ、それが美術館開館へとつながっていった。

戸栗美術館は鍋島家屋敷跡に立っている。ラウンジや日本庭園もあり、落ち着いた雰囲気の中、名工の技を鑑賞できる。

また、この付近には、1972(昭和47)年から2015(平成27)年まで「観世能楽堂」があった。室町時代にさかのぼる観世流の活動拠点となる能楽堂の席数は552席、敷地は約700坪と広かった。ここも戸栗美術館同様、鍋島家の敷地だったという。能楽堂も松濤の文化発信地のひとつだったが、老朽化により取り壊され、現在は銀座に移転している。

鍋島家による茶畑が、松濤の名の由来

戸栗美術館で「鍋島家」や陶磁器の「鍋島」を知り、改めて松濤の地名を調べると、この地に茶園・松濤園があったことが由来だという。

このあたりは、江戸時代は紀州徳川家の下屋敷だったが、1876(明治9)年に佐賀の鍋島家に払い下げられた。鍋島家はここに茶園を開いて「松濤園」と名付けた。ちなみに松濤とは、松林を渡る風の音をいう。茶釜がたぎる音がそれに似ていることから、松濤は茶道用語として定着した。

松濤園の開祖は、おそらく茶釜が沸きつづける……お茶が飲まれつづけることを願い、松濤園と名付けたのだろう。その名のとおり、松濤園のお茶は、東京を代表する高級茶として流通していく。

しかし、1889(明治22)年に東海道線が開通し、静岡茶が東京に入ってきたため、松濤園はその役割を終える。後に、果樹園や牧場に形を変えた。

1928(昭和3)年に豊多摩郡渋谷町が町名改正になるときに、松濤園にちなんで町名は松濤と決定。その後、1932(昭和7)年に松濤園は正式に廃業した。1923(大正12)年の関東大震災を契機として、鍋島家は住宅地として分譲し、高級住宅街が形成されていく。

渋谷といえば、主人の死後10年も渋谷駅に通いその姿を探した忠犬ハチ公(1923〈大正12〉〜1935〈昭和10〉年)が有名だ。その主人である帝大教授・上野英三郎(1872〈明治4〉〜1925〈大正14〉年)も松濤に住んでいた。その銅像は、1934(昭和9)年、前出の東横百貨店の開業と同じ年に建てられ、渋谷の街のシンボルになっている。

松濤には戦前の面影を残す邸宅も現存している。

現在は瀟洒な住宅が並ぶ街が、大名由来の茶農園だったというのはにわかに信じがたいが、その面影を伝える場所がある。それは、渋谷区立鍋島松濤公園だ。公園内の池は天然の湧水池で、鍋島家の種畜牧場があった一角だ。

住宅地になった後も、児童遊園として開放していたが、1932(昭和7)年に東京市(当時)に寄付。1950(昭和25)年からは渋谷区によって管理されている。公園のトイレを建築家・隈 研吾氏が手掛けたことでも話題になった。

ちなみにこのトイレを舞台にした映画を、世界的監督ヴィム・ヴェンダース氏が手がけており、現在撮影中だという。主人公の公衆トイレの清掃員演じるのは俳優・役所広司氏。この、『THE TOKYO TOILET Art Project with Wim Wenders』と銘打ったプロジェクトによる映画は、2023年に公開だ。

湧水の水は清冽で、水車もあり、都心とは思えない風景。右奥の木造建築が隈 研吾氏デザインのトイレ。渋谷の高層ビルが遠くに見え、ここが高台だとわかる。
鍋島松濤公園付近には、緑に囲まれた邸宅も。

皇族ゆかりのレストランも存在

1980(昭和55)年、松濤の街に画期的なレストラン「シェ松尾」が開店した。大正末期築の洋館を改装した外観は、街並みになじんでおり、すぐにそれとはわからない。しかし1歩足を踏み入れるとヨーロッパの貴族の邸宅を思わせる空間が広がっている。

そこで供されるのは本格的なフレンチ。洗練された接客とホスピタリティのなか、料理を楽しむことができる。皇族が利用したことでも話題になり、予約が取れないレストランとして人気を博し、今もなお支持される。

現在、邸宅レストランは多々ある。しかし、料理、サービス、建物空間、庭などすべてを満たしている店は少ない。松濤という街の特別感も、魅力の要因になっているのではないかと感じてしまう。

シェ松尾の外観。2階のインペリアルルームが、今上天皇夫妻ゆかりの空間だ。
松濤はマンションも低層で落ち着いたたたずまい。周辺の邸宅になじんでいる。

台地を下り、話題のスポット・奥渋谷へ

松濤から神山通りに向かって坂を下っていく。すると、突然、下町情緒のある街並みが広がる。蕎麦屋さん、魚屋さん、米屋さん……昔ながらの商店が営業を続けている。センスあふれる雑貨店やカフェ、レストラン、ギャラリーなども多い。ここが、話題の「奥渋谷」だ。

大正末期の古地図を見ると、地名は「大向」とある。東急百貨店本店が区立大向小学校跡地に建てられたことを思い出し、土地の人に聞くと、この通りは50年ほど前まで「大向通り」と呼ばれていたという。

松濤の高雅な雰囲気と対比すると、一転して親しみやすい。台地と窪地の文化の境界を明確に感じるエリアでもある。

人気エリア・奥渋谷には、低層マンションも多い。センスあふれる店が立ち並んでいる。

奥渋谷は古き良き時代の面影と、洗練が見事に共存しており、革新的かつ知的な空気感もある。なぜ、この独自の雰囲気が生まれるのかと考えながら地図を見ると、井の頭通りの向こうにNHK放送センター(以下・NHK)があった。NHKが千代田区内幸町から移転したのは、1973(昭和48)年。このエリアの発展はNHKが来たからともいえるのではないか。

オフィスビルのテナントを示す看板を見ると、テレビやラジオ番組の制作会社、クリエイターの事務所などが多い。だからこそ、先進的なセンスが輝くサービスや商品が好まれる。それと同時に、大衆的で親しみやすいものも支持されつづける。このバランスが、このエリアの居心地の良さを形成していると感じた。

NHKはかつての日本占領軍(以下・GHQ)の居住区域・ワシントンハイツの一部に建てられている。

外国人が多く住む、松濤・神山町エリア

街を歩いていると、外国人の姿をよく見かける。地図を見ると、駐日ニュージーランド大使館、駐日モンゴル国大使館、駐日イラク共和国大使館、駐日ヨルダン大使館、駐日ラトビア共和国大使館のほかに、大使の公邸とおぼしき建物も多々あった。

また、これらの大使館の近くには、有名政治家の私邸も多い。いたるところに警察官がおり、街全体のセキュリティ意識が高いことも、経営者や著名人に選ばれる理由だろう。

駐日ニュージーランド大使館の建物は、1970(昭和45)年に完成。

学び舎があるエリアは居住に適している

大使館がある街には文教施設が多い。すると近くに東海大学や東京大学があった。

東海大学は全国各地にキャンパスがある大規模総合大学の代表格だ。その本部がこの地にある。東海大学の前身は1942(昭和17)年創立の財団法人国防理工学園だ。戦争を経て1946(昭和21)年に旧制東海大学に昇格。1950(昭和25)年4月に新制東海大学になる。産学連携で知られ、民放FM局の開局やドクターヘリの開発など革新的な取り組みを行うことでも知られている。

有名建築家・山田 守によって設計された2号館は、放射状に建物が広がるデザイン。
クリアな白、外階段の円形が優美な4号館。

東海大学を後にし、東京大学駒場キャンパスに向かって歩きはじめた。すると、この渋谷区上原二丁目エリアも邸宅が立ち並んでいる。学生が学業に専念できる静かな街は、居住にも適していることがわかる。

ゆとりある区画に、緑を効果的に配している邸宅が多いのもこのエリアの特徴。
集合住宅も気品と個性が両立したデザインが多い。

松濤より郊外の、ゆとりある邸宅が多い上原・駒場

東京大学駒場キャンパスまで歩くことにした。駒場は目黒区の北端にある高級住宅街として発展してきた。

エリアを見れば、東京大学駒場キャンパスが大半を占め、筑波大学附属駒場中・高等学校、日本工業大学附属駒場中学校・高等学校、東京都立駒場高校、駒場学園高校などの名門校が集まっている。

この地の歴史をさかのぼると、江戸時代に将軍家の鷹狩場が設けられ、狩りの際に駒(馬)を止めるための場があり、駒場野と呼ばれていたことに由来する。

学究施設が集まった契機は、1874(明治7)年に現在の新宿御苑内に創設された内務省農事修学場にまでさかのぼる。この農事修学場は、その後農学校となり、1878(明治11)年から現在の東京大学駒場キャンパスに移転。日本の近代農学の発展の礎を築いてきた。そしてのちに帝国大学と合併し、農科大学が創設され、東京帝国大学農学部へと発展。付近には大学関係者が住む邸宅ができていき、街も形成されていった。

日本民藝館の門から、東京大学駒場キャンパスの近代的な建物を望む。この新旧のコントラストも、このエリアの魅力。
駒場には広い庭を有する邸宅が多い。造園会社のトラックをよく見かけた。

庶民の生活、華族の歴史を伝える文化施設

駒場のランドマークとして知られているのは、1936(昭和11)年創設の「日本民藝館」だ。創設者は「民芸運動の父」と呼ばれた美術評論家・柳宗悦(1889〈明治22〉〜1961〈昭和36〉年)。無名の職人の工芸品に普遍的な美を見出し、世に知らしめた。日本各地の陶磁器、漆器、木工品、染織、仏具やそれらを作る道具なども展示されている。

建物は本館(写真)と西館からなり、和風を基調としている。戦前の建築の美しさを今に伝えるこの石塀は、1999年に国の有形文化財に登録された。

駒場のもうひとつの文化施設といえば、目黒区立駒場公園内にある、旧前田家本邸だ。

昭和初期、前田利為侯爵(1885〈明治18〉〜 1942〈昭和17〉年)は自邸を本郷から駒場に移転させる計画を立てた。現存している洋館は1929(昭和4)年に完成。高価なスクラッチレンガやタイルをふんだんに使用し、周囲の武蔵野の風景に融合させた。

ここには100人を超える使用人が働き、社交の場になっていたが、前田侯爵がボルネオで不慮の死を遂げ、終戦を迎えると、GHQに接収されてしまう。以降、12年間は、GHQの司令官官邸として使われたが、接収が解除されたのち、1967(昭和42)年に東京都の公園として開園。1975(昭和50)年から目黒区が管理している。

地上3階・地下1階のこの洋館を建てた前田侯爵は、駐英大使館附武官でもあった。欧州の邸宅のような芝生広場を設けている。
洋館の設計監督者は、東京帝国大学教授であった塚本 靖工学博士ほか。奥の和館には茶室も備え、築山と流れに囲まれた回遊式の庭園がある。

駒場公園を歩いて、駅へと向かう。かつてここは駒場野と呼ばれ、マツやケヤキ、イチョウ、シラカシなどが茂っていた。

駒場公園内の小道。旧前田邸時代からの植栽が多く残っている。

松濤から駒場まで歩き、戦前の上流階級の人々の生活と息づかいを感じた。さまざまな文献を読むと、彼らはノブレス・オブリージュ(位が高ければ、徳が高いことも必要だ)を幼い頃から教え込まれている。社会全体を豊かにするために、どう生きていくか……それを自問自答した足跡を街のあちこちに感じるのだ。

ゆとりと寛容……このエリアが邸宅街として静かな人気が続いているのは、先人が残した余裕にあるのではないだろうか。

参考文献
参考サイト

渋谷区
▶︎https://www.city.shibuya.tokyo.jp/

渋谷区観光協会
▶︎http://play-shibuya.com/

東急百貨店「東急百貨店の沿革」
▶︎https://www.tokyu-dept.co.jp/corporate/history/

『開幕ベルは鳴った―シアター・マスダへようこそ』増田通二著 東京新聞出版局

Bunkamura
▶︎https://www.bunkamura.co.jp/

石本建築事務所
▶︎https://www.ishimoto.co.jp/products/124/

渋谷区立松濤美術館
▶︎https://shoto-museum.jp/

『日本建築入門』五十嵐 太郎著 ちくま新書

『殿下と妃殿下のレストラン―「シェ松尾」自伝』松尾 幸造著 新潮社

戸栗美術館
▶︎http://www.toguri-museum.or.jp/

国立公文書館
「鉄道局長官子爵井上勝東京神戸間鉄道全通運輸開業ニ至リシニ付其顛末ヲ具状ス」
▶︎https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m22_1889_02.html

シェ松尾
▶︎http://chez-matsuo.co.jp/restaurant/

『ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後』秋尾 沙戸子著 新潮社

東海大学
▶︎https://www.u-tokai.ac.jp/about/campus/campus-shibuya/

東京大学大学院農学生命科学研究科·農学部
▶︎https://www.a.u-tokyo.ac.jp/about/

『ある華族の昭和史 : 上流社会の明暗を見た女の記録』酒井 美意子著 主婦と生活社

日本民藝館
▶︎https://mingeikan.or.jp/

目黒区
▶︎https://www.city.meguro.tokyo.jp/shisetsu/shisetsu/koen/komaba.html

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