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近代日本の黎明期から政財界の有力者に選ばれた、文京区の魅力を探る
街歩きの風景

近代日本の黎明期から政財界の有力者に選ばれた、文京区の魅力を探る

名門校が林立する、歴史に彩られた文京区の邸宅街を歩く

その街に住んでいるように街を歩き、文化、息づかい、地形の起伏などを感じていく連載。今回、歩いたのは文京区。東京23区の中心部に位置する緑豊かな文教地区だ。落ち着いた雰囲気ながら、代表的なビジネスエリアの千代田区や新宿区にも隣接し、区内には誠之(せいし)小学校や東京大学ほか日本を代表する公立名門校も存在。江戸期は有力大名が屋敷を、明治以降は三菱や古河などの旧財閥を中心に、政財界の要人が邸宅を構えた。高台が多く、落ち着いた雰囲気の街は、ビジネスパーソンの「住みよい街」として、全国1位になった実績(※)も。そんな文京区の魅力の深部を歩く。

※日経BP総研『シティブランド・ランキング―住みよい街2019―』参照。

Text by Aki Maekawa
Photographs by Noriyuki Fukayama

日本を代表する経済人と文化人たちが選んだ街

明治期に岩崎弥太郎ら旧三菱財閥の要人も居を構えた、文京区本駒込6丁目付近の「大和郷(やまとむら)」と呼ばれるエリアには、今も壮麗な邸宅がある。

経済の中心地・丸の内エリアから近く、近代日本の黎明期から邸宅地として知られてきた文京区エリア。

歴史をさかのぼると、約1万8000年前の先土器(旧石器)時代から、人々が住んでいたことがわかる。区内には複数の縄文時代の遺跡が確認され、1884(明治17)年に旧向ヶ丘弥生町から出土した土器は「弥生式土器」と呼ばれている。

中世以降農村として発展し、江戸期には武家屋敷のほかに、伝通院、護国寺、根津神社などの寺社が創建。また、幕府の官学の府ともいうべき湯島聖堂、昌平坂学問所が設置された。

大名屋敷が多いことでも知られ、現在も六義園(加賀藩)、肥後細川庭園(肥後藩)、ホテル椿山荘東京(上総久留里藩)などが江戸の大名庭園の面影を伝えている。

1947(昭和22)年以前は「小石川区」と「本郷区」の2つに分かれていたが、公募により現在の区名になった。森 鷗外、夏目漱石などの文豪や芸術家も居を構えたという、文化の薫り高い邸宅地だ。

三菱財閥創業者・岩崎弥太郎が眠る

文京区が邸宅街として発展してきた歴史をひもとくと、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎(1885〈明治18〉年没)が六義園を手に入れ、再生させたことに端を発する。

六義園は1868(明治元)年の明治維新後に新政府に没収されたが、その10年後に岩崎弥太郎が購入し、別邸を設ける。当時の通念から想像すると、組織のトップが居を構えれば、その周辺のエリアに社員たちが住むようになるのは自然な流れである。

その後、三菱財閥は周辺を邸宅地として開発し、上流階級に選ばれていく。文京区外だが、近隣の染井エリアもそのひとつで、現在も邸宅街として上品な面影を残している。この街の礎を築いた岩崎弥太郎は、この地域にある染井霊園に墓が建てられた(現在は隣接する個人敷地に埋葬されている)。

染井の邸宅街。上品な街並みが特徴だ。
近隣緑地の看板に書かれた社名には三菱グループを示す「菱」の文字がある。

名勝・六義園周辺、住居表示にない「大和郷」の気品

六義園周辺の広大な敷地を住宅地として開発したのは、3代総帥であり、弥太郎の息子・岩崎久弥(1955〈昭和30〉年没)だ。大正末期から、住宅地としての開発に着手し、ここを大和郷(やまとむら)と呼ぶようになる。

ここは、武蔵野台地の東端、標高約20mの高台にあり、現在は文京区本駒込6丁目、かつては駕籠町と呼ばれていた。新旧共に住居表示に大和郷の名はない。関東大震災以降から戦前にかけての古地図を見ると区画が整然と並び、150~300坪の邸宅が並んでいることがわかる。

この地には、第24代首相の加藤高明(1926〈大正15〉年没)、第25・28代首相の若槻禮次郎(1949〈昭和24〉年没)、第44代首相の幣原喜重郎(1951〈昭和26〉年没)と歴代首相が住んでいた。

住民組織として「大和郷会」がある。初代会長が元首相の若槻禮次郎だということも、この街の由緒を物語っている。

大和郷(本駒込6丁目)エリアには、ハイクラスなマンションが多い。
大和郷は碁盤目のように区画されており、東方向を見ると六義園が望める。

清浄な風と、文化の雰囲気に誘われ…

大和郷を歩いていると、六義園から清涼な風が吹いてくるので、誘われるように向かっていった。

六義園の歴史は、1695(元禄8)年に柳沢吉保(徳川5代将軍・綱吉の側用人)が、幕府より土地を与えられたことに始まる。吉保は7年の歳月をかけて回遊式築山泉水庭園を造り、六義園と命名。当時は、小石川後楽園(文京区内に現存)と比肩する二大庭園として称され、将軍もたびたび訪れたという。

幕末まで柳沢家の下屋敷として存在していたが、明治維新以降には荒廃してしまう。それを岩崎弥太郎が購入し、庭園の復興に力を注いだのだ。

1938(昭和13)年に、この庭園を自分たちで独占していることが心苦しくなった岩崎久弥が東京市(当時)に寄贈し、一般公開されるようになる。そして戦後1953(昭和28)年に、国の特別名勝に選ばれた。

六義園は、江戸を襲ったたびたびの火災、関東大震災、東京大空襲の被害もほとんど受けず、造園時の面影を残していることでも知られる。そこに強力な“土地の力”を感じ、周辺を住まいとして選ぶ人が多いのも納得だ。

ここで、六義園を造営した柳沢吉保の人生を調べると、享保期に甲府藩から大和郡山藩に転封になっていることがわかった。大和郷の名は、柳沢家に由来しているのだと気づき、その深い歴史に思いをはせた。現在も大和郷は都心北部の「知る人ぞ知る」邸宅街として選ばれている。

都内有数の名勝地・六義園の正門。ツツジや枝垂桜が評判。園内は起伏に富み、渡月橋や茶屋もある。
大和郷を歩いていると六義園のレンガ塀が見える。明治初期に岩崎弥太郎が購入したときから、レンガ塀に囲まれた地域のシンボルだ。現在は全面改修されている。
本駒込には岩崎久弥が礎を作った東洋文庫(1924〈大正13〉年設立)がある。文献100万冊を所蔵し、内外の学者の東洋研究の場である。かつて作家・芥川龍之介(1927〈昭和2〉年没)が利用した記録も。

霊峰富士を望む高台の街

文京区には遺跡が多い。これは古くから人々が暮らし、住みよい地域であることの証明でもある。この付近に「富士神社古墳」があると知り、向かった。

古墳があるのは、駒込富士神社。歴史は江戸期までさかのぼり、この神社そのものが、前方後円墳の一部だと推測されている。

「駒込のお富士山」と呼ばれ、江戸市民で結成した富士山信仰の集団「富士講」の中でも古い組織のひとつがあり、町火消たちが信心したという。

また、この地は縁起がいい初夢の「一富士二鷹三茄子」が3つそろうと言われていた。

一富士はここが富士塚であること、二鷹は周辺に鷹匠の屋敷があったこと、では、三茄子とは何なのだろうか。疑問に思いながら、境内を歩くとJAの看板がある。そこにはここが、江戸期にナスの名産地であったと記されていた。

江戸期、急激な人口増加で新鮮な野菜が不足。そこで、ナスやダイコン、ゴボウなどの野菜が近郊で栽培された。この付近で穫れる「駒込ナス」は質が良く、徳川幕府が編んだ『新編武蔵風土記稿』(1828年)にも記されるほどだったという。

文京区本駒込は、「めでたいこと」がそろう土地であることも、人気の理由のひとつなのではないかと推測した。

駒込富士神社の本殿は、富士塚の頂上に鎮座している。その斜面には本家・富士山から運んだ溶岩が配さている。

富士山を望む高台のマンション群

駒込富士神社から本郷通りに出た。千代田区神田錦町の神田橋から、北区滝野川の明治通りの飛鳥山交差点に至る延長8kmの道路は、高台にあると気づく。道の西側が切り立つような急坂になっており、尾根を走る道だとわかる。

その道路沿いにマンションが立ち並んでおり、「富士」にちなむ物件名も多い。住人に話を聞くと、高台にあるので、眺望が開けており、富士山、東京タワー、サンシャイン60ほかさまざまなランドマークが望め、美しい夜景が特徴だという。

本郷通り沿いのマンション群。道路とは反対側にバルコニーが設けられている物件が多い。西側が急坂になっているので、その眺望の見事さが想像できる。

江戸幕府草創期からの歴史がある吉祥寺

本駒込には、曹洞宗の古刹「諏訪山 吉祥寺」がある。その由来は、太田道灌が江戸城築城の際に「吉祥増上」の金印を見つけたことだと言われている。かつて水道橋付近にあったが、1657年の明暦の大火で焼失し、現在地に移転する。

山門に「旃檀林(せんだんりん)」とあるので調べたところ、僧侶が仏教の研究を行う学寮だという。江戸時代には、昌平坂学問所と並ぶ漢学研究の中心だったが、時代とともに形を変え、現在は駒澤大学(東京都世田谷区)に発展している。

歴史がある寺だけに、大名や著名人も眠る。元幕臣で大臣を歴任した榎本武揚(1908〈明治41〉年没)の墓も、ここにあった。

余談だが、東京都武蔵野市にある吉祥寺の名の由来も、この寺である。前出の明暦の大火時に、門前町に住んでいた住人が本駒込に移転することができず、武蔵野に集団移住した。そのときに、村人たちが、往時をしのび「吉祥寺村」と名づけたのだ。それが今、若者やファミリー層に人気の街・吉祥寺として発展している。

1945(昭和20)年の東京大空襲で境内の大部分は焼失したが、1802年に建造された山門は戦災を免れた。

名門校がひしめく、茗荷谷エリアへ

吉祥寺も学究施設だったことがわかり、さらに興味をそそられて、文京区の地図を見る。すると、茗荷谷エリアには名門校が林立していることがわかる。

一例を挙げると、東京学芸大学附属竹早小学・中学、都立竹早高校、筑波大学附属小学・中学・高校、お茶の水女子大学附属小・中学・高校、跡見学園中学・高校、拓殖大学、跡見学園女子大学、お茶の水女子大学ほか、枚挙にいとまがない。

文京区全体の大学の数を調べると、16校で都内3位。1位は千代田区(20校)、2位は新宿区(19校)に続いている。

なぜ、ここまで学校が多いのか。それは1886(明治19)年、現文京区内に設立された東京高等師範学校まで歴史をさかのぼる。

高等師範は官立の教員養成校として発展していったが、戦後の大学統合とともに、東京教育大学と改称。そして再改組を経て、現在は筑波大学として引き継がれている。

日本初の女性の教育機関として1890(明治23)年に「東京女子師範学校」が設立される。これは、現在のお茶の水女子大学の前身だ。

茗荷谷周辺は、これらの高等師範学校の関連校がひしめき、それぞれが付属校として発展し、現在の街になったのだ。

お茶の水女子大学の正門。右に見える縞模様の建物は、2019年に完成した「国際交流留学生プラザ」。隈研吾建築都市設計事務所が手がけた、国際交流、同窓会活動の場である。
茗荷谷にある「教育の森公園」は、旧東京教育大学(現在の筑波大学)の跡地に造られた。1986(昭和61)年開園。
1900(明治33)年からの歴史がある、東京学芸大学附属竹早小学校と、東京第一師範学校女子部附属中学校などを前身とする東京学芸大学附属竹早中学校は同じ敷地内にある。

尾根を走る春日通りから小石川方面へ

茗荷谷駅から5分ほど歩くと、都内屈指の桜の名所・播磨坂に着いた。第二次大戦後の区画整理でできた「環状3号線」の一部として整備された道で、小石川植物園に向かっている。坂名の由来は、このあたりにあった松平播磨守の上屋敷にちなんでいるそうだ。

また、四季の移ろいを鮮やかに感じる高級マンション街として知られ、かなりの高台のため東京湾方面に眺望が開けている。高層階の一部からは、東京タワーが見えるという。

坂にはおよそ150本もの桜が続いていて、ソメイヨシノを中心とした桜が植えられたのは、1960(昭和35)年のこと。以来、地元の人々の手で育てられ、現在の桜並木になった。毎年3月下旬から4月上旬にかけて、「文京さくらまつり」が開催される。桜舞う季節に再び訪れたいと感じた。

播磨坂の周辺には、ヴィンテージマンションが多い。桜並木の成長とともに、街が注目されたことが推測される。
桜の木が坂の両側、中心の緑道の3列に並んでいる。
満開時には青空が桜花で覆われたような、美しさになる。

小石川に徳川家の面影を探す

文京区は江戸幕府とも縁が深い。なかでも、1684(貞亭元)年に開園した小石川御薬園(こいしかわおやくえん)を前身とする小石川植物園もそのひとつだ。

この日本最古の植物園は、江戸の庶民に施薬をするための研究が行われ、療養所も設けられた。明治期に東京大学に引き継がれて、研究施設として今も存続している。2012(平成24)年9月19日に、「小石川植物園(御薬園跡および養生所跡)」として国の名勝および史跡に指定された。

ここには、遺伝学の基礎を築いたオーストリアの研究者・メンデル (1884年没) が実験に用いたブドウの分株、「万有引力の法則」を発見した英国の物理学者・ニュートン(1727年没)のリンゴの木の分株ほか、近代科学の足跡を伝える植物を観ることができる。

写真左が小石川植物園。この坂を下って、さらにその下に播磨坂がある。幕府の施設は高台に設けられていたことがわかる。
小石川植物園にあるニュートンのリンゴの木

小石川にある徳川家ゆかりの寺社といえば、「無量山 伝通院 寿経寺」だ。徳川家菩提寺の通称・小石川伝通院は高台にあり、江戸期には富士山、江戸湾、江戸川なども見えたという。その様子は、『江戸名所図会』でも観ることができる。

芝の増上寺・上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と呼ばれ、境内には徳川家康の母・於大の方、千姫(2代将軍秀忠の妻)ほか、徳川家ゆかりの女性や子供たちが眠っている。

文豪の文学作品にも登場し、夏目漱石(1916〈大正5〉年没)の代表作『こころ』や『それから』、二葉亭四迷(1909〈明治42〉年没)の『平凡』にも描写があり、明治期の様子を知ることができる。

また、伝通院の隣に創立130年を超える中高一貫校・淑徳SC中等部・高等部があるが、この学校の前身は、1890(明治23)年に境内に移した浄土宗の学校・淑徳女学校だという。

2012(平成24)年に完成した伝通院の新しい山門は総ヒノキ造り。境内は東京大空襲の被害を受け、戦前の建物は現存していない。
本堂は1988(昭和63)年完成。本尊の阿弥陀如来を祀っている。
国立国会図書館『江戸名所図会 7巻』より。手前の春日通りに面していた総門(左下)から本堂(右上)までが描かれている。

春日方面に下る坂は、善光寺坂と呼ばれている。この中ごろに、樹齢400年ともいわれる椋(ムクノキ)の大木がある。伝通院の鎮守であった澤蔵司(たくぞうす)稲荷の神木といわれ、大切に保護されてきた歴史を持つ。

この周辺に文豪・幸田露伴(1947〈昭和22〉年没)が居を構えていた。孫にあたる随筆家・青木 玉さんの『小石川の家』や『上り坂下り坂』などの作品に、この木が登場する。

善光寺坂の椋の大木。歩道と車道のポケットのようになっている部分に立っている。東京大空襲に被災するも、生き延びたという。

そのまま春日駅に向かおうと思ったが、近くに徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜(1913〈大正2〉年没)の終焉(しゅうえん)の地があると知り、春日通りを引き返した。

徳川慶喜は、1866(慶応2)年に第15代将軍に就任した翌年に大政奉還をする。その後、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いなど内戦の責任を取るように、長い隠棲生活に入る。

その後、1897(明治30)年に東京に戻り、終の棲家として選んだのは徳川家にゆかりが深い、このエリアだったのだ。晩年は、公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ、穏やかに過ごしたという。

徳川幕府は約260年も続いた。その創始者・家康の母が眠る伝通院の近くで、慶喜は息を引き取った。そこに土地の力と、歴史の偶然を感じた。

国際仏教学大学院大学の敷地の一角にある碑。同校北門の右手に「慶喜公屋敷大銀杏」という巨木が当時の歴史を伝えている。徳川慶喜の墓所は、台東区内の谷中霊園にある。

産業も学問とともに発展する

文京区は、印刷・製本業が多いことでも知られている。大手印刷会社の凸版印刷や共同印刷も文京区に本社を構えている。その周辺には、中小の印刷・製本関連の事業所が軒を連ねており、文京区内製造業出荷額の約70%は、印刷・製本関連業種が占めているという。

これは、多くの大学や出版社を擁する文教エリアだからだろう。学問には紙と本が不可欠だ。明治時代から発展して、一大産業に成長したのだ。

善光寺坂下、春日通りの裏手には、多くの印刷、製本会社があり、親しみやすい下町の雰囲気を残している。

春日通り沿いに、1999年に完成した文京区役所がある。地上28階、地下4階の大規模な総合庁舎だ。

庁舎の25階北側には議場を半周囲むように展望ラウンジがあり、無料で開放されている。2005年には国土交通省の「関東の富士見百景」に選ばれた。

庁舎内の「響きの森文京公会堂」(通称・文京シビックホール)は、1802席の大ホールを有し、クラシックを中心としたコンサートが行われている。

文京区は庁舎もまた文化発信地なのだ。区内に刻まれた教育と文化の足跡をたどり、官民一体となって、格調高い文化を発信しているその魅力を改めて感じた。

参考文献・参考サイト

文京区公式サイト
▶︎https://www.city.bunkyo.lg.jp/

日経BPシティブランド・ランキング2019
▶︎https://project.nikkeibp.co.jp/atclppp/071000015/073000003/

文京区観光協会
▶︎https://b-kanko.jp/

三菱グループ公式サイト「三菱人物伝」
▶︎https://www.mitsubishi.com/ja/profile/history/series/

六義園
▶︎https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index031.html

一般社団法人 大和郷会
▶︎http://www.yamato-mura.or.jp/

肥後屋 (創業明治28 年)
▶︎https://www.gb-higoya.co.jp/

公益財団法人東洋文庫
▶︎http://www.toyo-bunko.or.jp/

JA東京中央会「東京農業歴史めぐり」
▶︎https://www.tokyo-ja.or.jp/farm/edomap/tokyo08.php

駒澤大学
▶︎https://www.komazawa-u.ac.jp/

武蔵野市観光機構
▶︎https://musashino-kanko.com/area/kichijouji/

お茶の水女子大学
▶︎https://www.ocha.ac.jp/

東京学芸大学
▶︎https://www.u-gakugei.ac.jp/09fuzoku/

小石川植物園
▶︎https://www.bg.s.u-tokyo.ac.jp/koishikawa/

伝通院
▶︎http://www.denzuin.or.jp/

淑徳SC中等部・高等部
▶︎https://ssc1892.ed.jp/

文化遺産オンライン 善光寺坂のムクノキ
▶︎https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/276710

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