吉村順三が戦後まもなく手掛けた、シンプルでモダンな名作住宅
再開発が進む自由が丘駅周辺から商店街を抜け、閑静な住宅街に入るあたりに、大きなクスノキなどの緑に覆われた一角がある。坂に面した門を通り右手に折れ、石の階段を上がって正面に現れる邸宅が、今回紹介する「旧園田高弘邸(現・伊藤邸)」である。
緩い勾配の切妻屋根を抱き、切妻面の白い漆喰壁の下には高さを抑えた庇(ひさし)が手前に伸びる。庇の下にある玄関扉は、下見張りの外壁と同化するように控えめに設けられている。落ち着きのある上品なたたずまいは、日本のモダニズム建築シーンを牽引しながら個人住宅も多く手掛けた、建築家・吉村順三によって生み出されたものだ。
この住宅は、クラシック音楽のピアニストである園田高弘(1928-2004年)とその妻・春子のために設計されたもの。園田が吉村に設計を依頼したのは1954年、園田が26歳、吉村が46歳のとき。戦後の混乱がいまだ残り物資が不足する時期に、若い夫妻は妻・春子の両親が暮らしていた家の敷地の一角に、小さな家をつくらせてもらうことになった。園田の知人であるチェリスト・小沢 弘が、東京藝術大学の教授で建築科の助教授を務めていた吉村を園田に紹介。吉村の妻はバイオリニストの大村多喜子で、日本人初のジュリアード音楽院への留学生で海外生活の経験もあった。ヨーロッパでの生活が長い園田は、海外生活様式への理解ある吉村に安心して依頼したことだろう。一方で吉村は、音楽家の住まいの設計に熱意を持って取り組んだことは想像に難くない。
音楽室を起点にして設計された間取り
園田からあがった唯一の要望は「グランドピアノを2台置いて弾けること」。そのほかはすべて、吉村に一任されたという。玄関から入って正面にある、斜めに設えられた壁の引き戸を開けると、ピアノ2台が並べられていた吹き抜けの空間が現れる(上記図面の「居室」部分)。この音楽室の床は、踏み石のような段で玄関から2段下げられ、庭先のテラスへとスムーズにつながっている。
吹き抜けを見上げると、天井は勾配が付けられて斜めになっており、表面には有孔ボードが張られている。日常的にピアノの音色が響き渡るなかで、不要な音の反響を避け、吸音効果を高める狙いがあったとされる。玄関との間の壁が斜めに角度が振られていたことも、反響を防ぐことを意識した結果だろう。東側の壁には、後に増築されるまでは吹き抜けいっぱいの縦長窓があり、これは日中に譜面台へ安定した光が届くように配慮したものであったという。
1階の右手奥は、2階の床下にあたるスペースで、ソファと暖炉のあるリビング空間がおさまっている。ピアノのある吹き抜け空間との仕切りはないものの、天井高の低い親密なスケールで、しっかりとした重心のある居住空間である。暖炉周辺の壁部分のみがRC造で、壁には1枚だけ飾り棚が付けられている。
そしてRC造の壁から続く南西のコーナーには、角の柱から内側に少し離して腰窓がL字型に設けられている。障子戸とガラス戸、網戸、雨戸が仕込まれた窓で、すべてを脇の戸袋に引き込むことができ、開放感を自在に得ることができる。窓際に造り付けられたソファは、座面を手前に引き出すとベッドになり、背もたれ部分には収納が組み込まれている。
玄関から入って右手にある階段を2段上がると踊り場があり、この右手に浴室がある。踊り場からさらに階段を上がると、2階へと至る。ここから吹き抜けを介して音楽室を見下ろすことができ、右手は書斎、正面は寝室へと続いている。
現在は和室となっている寝室は、当初はフローリングの床で、ベッドのヘッドボード側の東面壁には横長の窓が設けられている。この窓も1階と同じく、複数の戸が壁の中に引き込めるようになっており、庭の緑を楽しむことができた。室内側の吹き抜けに面しては、腰壁の上に引き違いの襖戸が設けられており、音や空気を適宜遮ることができる。
ピアニストとして、国内外の複数拠点での暮らしも長かった園田だが、1980年代には本格的に日本に拠点を移して活動するように。同じころ父母が亡くなり母屋を取り壊すことになったタイミングで、吉村事務所出身の小川 洋に依頼して1987年に家屋の増築を行った。増築棟はもとの音楽室とキッチンの東側の壁を取り、両者を接続し行き来できるようにつくられたが、玄関は別に設けている。ピアノは増築棟の1階サロンに移動し、もとの音楽室は全体がリビングとして用いられるようになった。
昭和から令和へと継承された「住宅遺産」
時は流れ、園田が2004年にこの世を去った後、春子夫人は住宅がこの地で残ることを希望した。自身は高齢になりコンパクトな集合住宅に住み替え、海外に在住する家族が住宅を引き継ぐことは叶わない。また築50年を超えた住宅は、一般的な不動産市場では「古家付き土地」とみなされる。売却されれば建物は解体され、土地は分割されて販売されてしまう。春子夫人は2007年、地元で活動していたNPO「玉川まちづくりハウス」に相談を持ちかけた。NPOのメンバーは視察後に歴史的・文化的価値が高いことを確信し、継承者を探す活動を開始。この住宅で「音楽と建築の響き合う集い」と題し、音楽家による演奏会を連続で開催するようになった。吉村順三建築の魅力を語る建築家や建築史家のレクチャーも、演奏会と併せて行われた。
この集いを通じてネットワークが広がり、2012年秋には“昭和の名作住宅に暮らす”をテーマにした展覧会を開催。新聞や雑誌で取り上げられて継承者探しの情報は全国に広がり、大阪在住の実業家・伊藤晴夫氏の目に留まることとなった。吉村順三のファンであった伊藤氏は見学に訪れて気に入り、「自分でよければ」とセカンドハウスとして継承することを決める。伊藤氏が東京出張の際に宿泊や打ち合わせに使うほか、引き続き「音楽と建築の響き合う集い」を開催しており、これまでに24回を数えている。
現在、旧園田邸は一般社団法人「住宅遺産トラスト」によって管理され、演奏会や練習室として利用されるほか、団体での見学会を随時受け付けている。「住宅遺産トラスト」は、旧園田邸の継承活動をきっかけに、“昭和の名作住宅に暮らす”展覧会を開催した実行委員会メンバーが中心となって2013年3月に設立した。文化的・歴史的に価値ある住宅建築とその環境を「住宅遺産」と呼び、後世に継承するための仕組みづくりを目指している。
理事の一人である木下壽子さんは「活動をはじめて15年が経ちますが、建築家が設計した歴史的、文化的に価値ある住宅を継承したいと考える方が増えているように感じます。旧園田邸のケースのように、所有者の話に耳を傾け、時間をかけて取り組めば継承の道筋は見えてくるものです」と語る。やはり理事の一人で、旧園田邸の継承にあたってリニューアル設計を担当した新堀 学さんは「旧園田邸では、演奏会で人の輪をつないでいったことが継承に至った大きな要因です。多くの外部の方に実際に見ていただく機会をつくり、建物が現存することの価値を広く認知してもらうことができました。その評価されている様子などが所有者やご家族にとっても自分の住んできた家を新しく見直すきっかけになることが多いです。家を開くことの意義の一つだと思います」と分析する。
一方で継承する側にも、昨今では変化が見られるという。木下さんは「日本でもようやく、住宅の世界でのヴィンテージという価値評価が浸透してきたように思います。歴史や時間を含めた価値を評価し、新築では得られないその家にまつわるストーリーや背景に魅力を感じる方が増えています。海外で暮らした経験のある方が増えたのも、理由の一つかもしれません。海外では住宅を一世代で壊す感覚がなく、手を入れながら住み継いでいくのがスタンダードですから」と言う。
住宅遺産トラストの理事・吉見千晶さんは、住宅の継承を個人の力に頼ることには限界があることを指摘する。「銀行もヴィンテージ住宅に理解を示しつつありますが、実際に中古住宅の購入やリノベーション費用のためにローンを組むには、条件が厳しくなりがち。そのため、経済的に十分な余裕がある人でなければ、個人で引き継ぐのは難しいのが現状です。こうした住宅建築に関心を持つ方の裾野が広がりつつある今、特に若い世代の方が引き継げるように、新築を建てる時と同様の行政や金融機関のサポートや制度改革が必要です」。また、保存修復の技能をもつ人材が不足しており、工務店や職人、造園業者などのネットワークを地域ごとに築くことも必要とされている。
さまざまな現実的な課題はありつつ、木下さんは次のように語る。「活動を続けるなかでさまざまな専門分野の方々とのネットワークを築いてきたことを生かして、相談を受けた後にパスを回しながらシュートができたらいいと考えています。場合によっては、賃貸や買い取りを検討するケースもあるでしょう。社会的資産として持続的に保存・活用するために、住宅遺産の所有のあり方を考えることが重要ではないかと思うようになりました」
特定の条件のもとに生み出された名作住宅は個人のものとはいえ、所有者のものだけではないという感覚が、旧園田邸に関わる人々に共通しているようだ。音楽を通じて人の輪がつながって継承され、地域全体で大きな輪が生まれようとしている旧園田邸からは、さらなる将来へ継承する理想の姿が見えてくる。
Information
一般社団法人 住宅遺産トラスト
文化的・歴史的に価値ある住宅建築とその環境を「住宅遺産」と呼び、「住宅遺産」を後世に継承するための仕組みづくりを目指し活動を続ける。随時会員募集中。
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伊藤邸(旧園田高弘邸)見学・ご利用案内
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