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泉麻人が綴る、馬込・大森「九十九谷の文士村街道」
泉麻人の「東京カルチャーストリート」

泉麻人が綴る、馬込・大森「九十九谷の文士村街道」

若き作家たちが移り住んだ「馬込文士村」の足跡を辿る

コラムニスト・泉麻人が、都内の街や通りをテーマに時代の移り変わりとそのカルチャーを解説する連載、第13回は大田区「馬込・大森」。かつて多くの作家や画家が暮らした文化的なエリアで、当時の面影を求めて、泉氏が馬込から大森の高級住宅街・山王までを歩いた。

Text by Asato Izumi

作家や画家が寄り集まって住んだ地域を指す「文士村」という言葉がある。芥川龍之介の居住地で知られた田端文士村、文士村とは付かないが「菊富士ホテル」という文士サロン的ホテルのあった本郷、井伏鱒二や太宰治がいた荻窪周辺、そして今回歩こうとしているのが大森から馬込にかけて広がっていた通称、馬込文士村のエリアだ。

昭和10年代の馬込の風景。提供:大田区立郷土博物館

川瀬巴水の『馬込の月』に描かれた「三本松」

都営地下鉄・馬込駅前の喫茶店「楡(にれ)」

出発点は都営地下鉄の馬込駅にした。A3出口を上がると、地上に第二京浜(第二京浜国道)が走っているが、駅前をすぐ横に入ったところに「楡(にれ)」といういい感じの一軒家喫茶がある。都営地下鉄の馬込駅ができた昭和43年(1968年)のオープンというが、玄関口にシャレたケーキのショーケースがあって、奥にゆったりとしたソファー席が配置された、どことなく神戸の山手や阪急沿線のお屋敷町で見掛けるようなタイプ。ここでダッチコーヒーとアップルパイをいただいて、店前の道を奥へ進んでいくと荏原町の方から来るバス通りに突きあたる。「三本松商店会」という表示がぽつぽつと出ているが、すぐ先の環七(東京都道環状七号線)上を渡る新馬込橋の手前に「三本松」なるバス停がある。

馬込第三小学校から新馬込橋方向に三本松を望む(昭和11年頃)。提供:大田区立郷土博物館

ここに名づけられている「三本松」とは、裏方の馬込天祖神社の境内にかつて三本の松の高木が聳(そび)えたっていたことにちなむらしい。大正時代の地図にも独立樹の印が記されている。2本、1本と数を減らし、戦後まもなく消えてしまったので、空襲の目印にされるのを警戒して伐採した、との伝説もある。新馬込橋の歩道脇に設けられた版画家・川瀬巴水(かわせ はすい)の作品レリーフの1つ『馬込の月』に、この三本松がモデルとなった松の木が描かれている。

版画家・川瀬巴水が三本松を描いた『馬込の月』(昭和5年)。川瀬も馬込に暮らした画家のひとり。提供:大田区立郷土博物館

新馬込橋を渡って、その先の馬込橋(下にJR貨物線、上に新幹線鉄橋)と第二京浜を越えると、いよいよ馬込文士村の領域である。ゆるやかに湾曲した道の傍らに「馬込橋食糧」なんていう昔風の看板を掲げた米屋(奥側の母屋も立派だ)があり、豊かな木立ちを見せた神社(馬込八幡神社)の横に信用金庫(城南)がある……という、いかにも昔からの村集落の風景。そしてこの道、おおむね尾根のような所に敷かれているので、両側の横道に「16%」や「18%」の斜度を記した急坂の道路標識が立っていたりする。急な坂の先にもう1つ向こう側の高台が見える、山谷が入りくんだ地形から「馬込九十九(つくも)谷」の俗称もあった。

馬込橋と第二京浜を越えると右手に「馬込橋食糧」の看板が見えてくる。

宇野千代と尾崎士郎の洋風住居が作家たちのサロンに

太田区立郷土博物館付近から臼田坂上を望む通り。

万福寺前のバス停手前の交差点を右に入ったあたりに大田区立郷土博物館がある。この日は休館日だったが、入り口に文士の旧居ポイントを表示した看板地図がある。この辺から臼田坂にかけての現在の南馬込3、4丁目界隈が第一の密集地といえるが、作家グループの中心人物とされるのが一時期夫婦関係にあった宇野千代と尾崎士郎。彼らが俗に「バンガロー」と呼ばれた洋風住居を構えたのは大正12年(1923年)の関東大震災後というが、2人の呼びかけもあって、広津和郎、川端康成、室生犀星、萩原 朔太郎……といった面々が昭和の初めにかけて続々と近所に集まってきた(震災被害を受けた田端から移ってきた人も多かったようだ)。サロン化した宇野・尾崎の家でハヤッたのが麻雀とダンス。初のトーキー映画として知られる『マダムと女房』(昭和6年公開)のパーティーシーンなどは、こういう文士風俗を参考にしたのかもしれない。

かつて宇野千代と暮らした洋風住居、通称「バンガロー」の前を歩く尾崎士郎。提供:大田区立郷土博物館
尾崎士郎・宇野千代夫妻の住居跡前の通り。

今回の散歩の参考書にした近藤富枝の『馬込文学地図』(昭和51年)には、まだ尾崎と宇野のバンガロー風住居や臼田坂のバス通り沿いにあった川端康成の文化住宅調の家の写真も掲載されているが、もはやほとんどの住居はない。臼田坂下を池上側にちょっと入った所に川端違いの画家・川端龍子(りゅうし)(池上本門寺の龍の天井画が有名)の記念館があるけれど、その向かい側に残るアトリエ付きの母屋が唯一、戦前の文士村時代から存在する建物だ(現在、いずれも改装中で閉館)。

馬込の三本杉から歩いてきた通り––北は荏原町を越えて、武蔵小山から目黒不動尊の方まで続いている古道––この南馬込のあたりは臼田坂通りの俗称があるようだが、名無しの区間は多い。いっそ「馬込文士村通り」と名付けて表示板を出せば観光PRになると思うのだが……。

南馬込の臼田坂の坂上から坂下を望む。

南馬込から環七を越えれば大森・山王の高級住宅街

作家や画家が集まり始めた大正当時の最寄り駅はJRの大森(明治9年の開設)だから、臼田坂を下って、池上通りを左折、というのが1つのルートになる。だが臼田坂の坂上や坂下から東側の横道に入って、環七が通っている谷中と呼ばれた谷合いから、弁天池(山王厳島神社)の脇を山王の台地へ上がっていくルートも文士たちに使われたという。

龍子記念館入口の表示板の出ていた臼田坂下から、後者のルートをなぞっていこう。左側は南馬込3丁目、右側は中央一丁目の境界線のこの道、左方の崖上に川瀬巴水が『馬込の月』で描いたような、いい形の松が1本見える。おもえば巴水が住んでいたのは、ちょうどこの方向の奥。平張と呼ばれた地域である。そのうち行きあたる環七は、文士村盛況の昭和初期は谷中通りと呼ばれる狭い道で、北進した右手の奥に弁天池のある厳島神社が祀られている。ちなみに弁天池に行くには、環七をストレートに進むよりは、並走する昔の川筋から右手の木原山の方へ上がって、山王ロッヂという古めかしいアパートの傍ら、崖際の小道からアプローチした方がおもしろい。

弁天池の北方に木原山ロッヂという戦前開業のアパートもあるけれど、「ロッヂ」のネーミングが郊外の別荘気分だった大森らしい。

南馬込から環七を越えてすぐの弁天池に建つ「山王厳島神社」。

弁天池の北側を上がる坂道は比較的穏やかな勾配で、突きあたって左へ行くと闇坂(くらやみさか、と読む)の通りにぶつかる。石垣の切通しが美しい闇坂をそのまま進めば大森駅近くの池上通りに出るが、闇坂の道を突っ切った向こうには名門の誉れ高い「大森テニスクラブ」のコートが長方形の谷間に広がっている。ここは戦時中など、陸軍の射的場だったのだ(日本帝国小銃射的協会跡、という石碑が大森側の路地の辻に立っている)。

山王の高台から池上通りに抜ける「闇(くらやみ)坂」。周辺は邸宅が立ち並ぶ高級住宅地となっている。
大森駅の南西側、山王の住宅街の谷間に広がる「大森テニスクラブ」。

大森テニスクラブの大森駅側、闇坂の北側にあたる一帯に「八景園」という料亭を置いた庭園型の歓楽地が明治20年頃から大正の大震災前まで存在し、大森海岸とともに東京南郊のリゾート地のイメージを高めていた。

明治から大正にかけて郊外随一の遊園地として知られた「八景園」の絵葉書。提供:大田区立郷土博物館

いま、その面影はない(闇坂の脇の石垣くらいか……)けれど、八景園に隣接する天祖神社は健在で、大森駅前の池上通りの商店際に石段の口がある景色は、のどかな地方の町の風情がある。そう、この石段の側壁に馬込文士たちの顔を彫りこんだ、なかなかインパクトのあるレリーフが設置されている。馬込・大森の散策はとりあえずここをゴールとしよう。

大森駅の反対側、天祖神社階段の壁面に設置された馬込文士のレリーフ。

泉麻人のよそ見コラム

大森駅前の池上通りを左折したところ立つ「清浦さんの坂」の標柱。
筆者がよく注文するという玉子チャーハンと餃子。

清浦さんの坂と町中華

本文の散歩コースからは外れたが、もう1つ、好みの道がある。ゴールの天祖神社よりちょっと北方、バーミヤンの横の道を左折するとすぐ先の二又右手に、「清浦さんの坂」という標識が立っている。ここに簡単な謂れ書きも出ているけれど、清浦さんとは明治時代の後半から大正、昭和戦前にかけて活躍した政治家・清浦奎吾(きようらけいご)のことで、大正12年(震災前)には短い間だが総理大臣を務めた。分かれ道の右側に長らく住まいがあったらしい。

この道、いまは坂というほどではないが、ずっといくとジャーマン通りの交差点を渡った向こうに山王小学校があり、さらに進んでいくと中華料理店が2軒、目に入る。僕が贔屓にしているのが、道の右側に見える「開華楼」って店。素朴な赤い幌看板といい、中国風の格子の柵が付いた窓といい、外見からして“渋い町中華のお手本”という佇まい。薄暗めの店内のカウンター越しの厨房で、店主が背を向けて黙々と仕事をしているムードも心地良い。僕がよく頼むのは玉子チャーハンと餃子。ここのキャベツ主体の餡(あん)の餃子は、時折わざわざ食べに行きたくなるような惹(ひ)きがある。

ところで、こちら現在の山王一丁目界隈にも転居した尾崎士郎宅など何軒かの文士宅があったが、馬込側の台地際に徳富蘇峰(とくとみそほう)の旧居跡が広々とした公園になって保存されている。

profile

泉 麻人

1956(昭和31)年、東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。『週刊TVガイド』等の編集者を経てコラムニストに。主に東京や昭和、カルチャー、街歩きなどをテーマにしたエッセイを執筆している。近刊に『昭和50年代 東京日記』(平凡社)。

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