素材と対話しながら完成した建築
杉本博司は世界を代表する現代美術作家のひとりだが、その活動は現代美術の枠を超えたところがある。主な表現形態として写真を選びながら、多様な立体作品の発表に加えて、いくつもの建築や空間を手がけ、能などの伝統芸能のプロデュースを行い、さらに古美術の蒐集家でもある。神奈川県小田原にある「小田原文化財団 江之浦測候所」は、そんな彼の多様性が渾然となって結晶したオリジナリティあふれる施設だ。
江之浦測候所は、杉本博司と建築家の榊田倫之が主宰する新素材研究所が設計を担当。杉本は長年をかけてそのあり方を構想し、建設にも約10年の歳月を要したという。2017年秋に開館した後、現在まで徐々に敷地を拡張し、新しい施設も加わってきた。
江之浦測候所には、相模湾を望む丘のような敷地に、いくつもの建物が散在している。そのひとつの軸が、夏至の日の出の方向に向かって立つ「夏至光遥拝100メートルギャラリー」だ。構造としては南側の壁だけで屋根を支えるキャンチレバーで、北側は全面がガラス張り。壁面は大谷石で覆われ、迫力ある素材感とクリアに抜けたガラスの面が美しいコントラストをつくる。
100メートルにわたって続く館内は、高さ3メートル、幅3メートルという規則正しい直方体。その壁面に杉本の代表作である「海景」が展示されている。建物の先端まで歩いていくと、目の前には相模湾を展望するスペースがある。そこに本物の海景が広がっているという趣向だ。
大谷石は、夏至光遥拝100メートルギャラリーの外壁にも使われている。この石はグリーンがかった淡い色彩のイメージが強いが、全体的に茶色を帯びていたり、一部に濃色が混じっていたりと、かなりの個性をそなえているのが印象的。さらに豊かな立体感がある。表面を人工的にフラットにせず、剥離によって生まれる質感を残しているためだ。設計者が素材に向き合い、素材と対話を重ねて、手を加えすぎることなく設えたことが伝わってくる。施工時は石材の目地をわずか3ミリ程度に抑え、無垢の大谷石を積み上げたような趣とした。
ギャラリーに沿う歩道には伝統的な敷瓦を使い、その周囲には丸い天然石を敷き詰めた。その横に置かれた大石は、桃山時代に京都の五条大橋を石柱の橋に改修した際に礎石として使われたもの。素材、色彩、フォルムがそれぞれに主張しながら、時間を超えた調和をつくっている。
夏至光遥拝100メートルギャラリーと対をなすように、「冬至光遥拝隧道」は冬至の日の出の方向を向く。敷地から海へと突き出すように建てられており、素材は造船などに用いる分厚いコールテン鋼。その名前の通り、建物というよりはまっすぐな1本のトンネルのような形をしている。全長はちょうど70メートル。1年に1度、冬至の日の出の光が、この道を通り抜けるように差し込むのだ。これほどの規模の構造物を角度のズレなしに建設するには、模型の段階から数々の微調整を重ね、細心の注意を払って施工する必要があった。
冬至光遥拝隧道は、内部を歩けるだけでなく、その上面も一部が通路になっている。ここを海へ向かって進んでいくと、「古代ローマ円形劇場写し観客席」を抜け、「光学硝子舞台」へと至る。光学硝子は、杉本が自身の立体作品にしばしば用いてきた素材。その透明の板を敷き詰めたステージは、能や様々なパフォーマンスの舞台として使われる。硝子を支えるのはヒノキの懸造で、京都・清水寺の本堂の舞台と同様の構造だ。日本の伝統工法である懸造は、釘などの金具を使わずに木材を組んであり、部材を交換しながら長期にわたって強度を保つ。
こうした工法は、現代建築においては異例のものであり、現場にかかわった職人の知見も大いに生かされた。ただし鉄やコンクリートのような強度計算ができないので、一般的な建築物では許可が下りにくい。それが職人の数が減る一因でもあるようだ。江之浦測候所は、そんな日本の伝統工法を積極的に取り入れ、将来へと継承することが意図されている。
時間と空間の長大なスケールを感じながら
江之浦測候所の敷地を海側へ下っていくと、古びた小屋が姿を現す。これは杉本の別の一面が凝縮された「化石窟」と呼ばれる建物だ。昭和30年代に建てられた蜜柑農家の道具小屋を改修して、農作業のためのさまざまな道具とともに、杉本が長年コレクションする化石の数々を展示している。約2億年前の両生類やアンモナイトに、約4億年前の海サソリ、そして4~5億年前の三葉虫。訪れた人は、人類の歴史を超えた生物の歴史の壮大な時間軸に思いを馳せることになる。
化石窟の入り口の「古美術」という看板は、杉本が芸術家として名を成す以前、ニューヨークで古美術商をした時代に使っていたもの。彼が若い頃に奈良を旅していて拾った「落石注意」の看板があったりと、杉本らしいユーモアが発揮されているが、同時に全体を貫く強いコンセプトがある。建物の横の斜面にはクスノキの大木があり、パワースポットを思わせる場所になっている。
江之浦測候所は、2017年に開業してからも徐々に新しい施設を増やしている。中でも最も新しいのが「春日社社殿」で、昨年後半に竣工したばかりだ。現存する最古の春日造の社殿とされる奈良の円成寺春日堂を忠実に写し、今年3月には御分霊のセレモニーも行われた。屋根は木の皮を積層してつくる檜皮葺。丹波の職人がこの地を訪れて施工したもので、22~23枚の皮を重ね、端の部分は皮を縦にして仕上げてある。これも貴重な職人技だ。
この春日社社殿は正式な神社であり、古来から伝わる作法や様式に則って建てられている。赤い鳥居のある参道も整備され、社殿のそばには奈良時代の和泉国の国分寺跡から出土した礎石を置いた。こうした設えが、現代美術作家である杉本の感性を通すと、余計なアレンジや演出なしにアートとしても感興をそそる。
柑橘類の果樹や相模湾を見下ろすスペースには、最近になって「ストーンエイジ・カフェ」がオープンした。江之浦測候所がある甘橘山で採れた果物のジュースなどを提供する。看板には杉本の書で「万事汁す」(ばんじじゅうす)とある。見た目の悪い果物も、すべてジュースにすればおいしく飲めるという、彼ならではの駄洒落でもある。ストーンエイジ・カフェの小屋は、アルミのパイプを組み上げて板を渡した簡易な建築だが、ディテールにまで妥協せず見事に設えている。テーブルやスツールには石を多用し、特にテーブルの石は地元で産出する根府川石が選ばれた。
根府川石は、江戸城の石垣にも使われたという由緒正しい石材。十分に硬いが板状に割れる性質があり、その形状を利用して石碑などに使われることも多い。江之浦測候所の近隣に採石場があり、杉本博司は施設の施工中にもしばしばここを訪れて石を選んだという。江之浦測候所では多様な石材を使っているが、地元の石を使うことには特に意味がある。近場の石のほうが環境に馴染みやすく、違和感が生じにくい。建築においては、高価な石だからいいということはないのだ。
根府川石の採石場では、数メートルもの巨大な岩石から、両手で持ち上げられるほどの石まで、さまざまな石材が雑然と置かれている。岩壁を崩して取り出したばかりのものと、長く風雨にさらされていたものとの、色合いや質感の違いも大きい。表面に苔類が生じている石もある。見慣れほどにひとつひとつの石材がもつ個性がわかってくるのが楽しい。石碑として使いやすい、広く平らな面のある石ほど値段が高いが、江之浦測候所で使われるのは自然な曲線や凹凸のある石が多かった。
杉本は江之浦測候所を完成させるのと並行して、農業法人「植物と人間」を設立している。その敷地は江之浦測候所のある「甘橘山」の南東側斜面を中心に広がり、約30種類もの柑橘類を栽培。「植物と人間」の代表・磯﨑洋才が中心となって活動を支え、ストーンエイジ・カフェも運営している。農園では農薬を使わず、自然に近い状態で果物を育てる。そのため見栄えの悪いものも多いが、味わいはすばらしいという。自然そのものを尊重し、できるだけ手を加えず、あるがままに生かしていく。そんな姿勢は、石などの素材に対しても、果物に対しても、一貫しているのだ。
均質であることが重視され、規範を外れたものが排除されがちなのが、現代の社会の傾向だ。暮らしの環境も、知らず知らずのうちに人工的なもので埋め尽くされつつある。しかし江之浦測候所が提示する長大な時間と空間の中では、そんな価値観の限界が浮き彫りになる。人間は昔から、自然という豊かな多様性に包まれ、その多様性を取り込みながら、日々の生活を送ってきた。ここは、そんな感覚を取り戻すことの喜びを実感させてくれる場所だ。
小田原文化財団 江之浦測候所
神奈川県小田原市江之浦362-1
休館日: 火・水曜日、年末年始および 臨時休館日
午前の部 10:00~13:00/午後の部 13:30~16:30/夕景の部 17:00~19:00(8月のみ開催)
日時指定の予約・入れ替え制、2日前までに要予約
小田原文化財団公式ウェブサイトよりお申込みください。
<入館料>
インターネットから事前にご購入の場合
午前の部・午後の部 3,300円、夕景の部 2,200円
当日券
午前の部・午後の部 3,850円、夕景の部 2,750円
▶︎https://www.odawara-af.com/ja/enoura/