
日本の近現代史に残る、由緒ある街並み
目白エリアを横断する街歩きは高台の東の端である「目白坂」からスタート。江戸川橋駅前の表示に内閣総理大臣を2人輩出した鳩山家のゆかりの洋館「鳩山会館」があった。一帯の古地図を確認すると、大名や旗本の屋敷が多く、古くから邸宅街だったことがわかる。
目白の地名の由来は、江戸時代に遡る。この地区にあった「新長谷寺」という寺に江戸五色不動のひとつである目白不動尊(昭和20年の戦災により焼失、現在は金乗院に合併)が祀られていたからという説が存在する。五色とは陰陽五行説の白・黒・赤・青・黄のことで、都内にはほかに目黒不動尊や、目赤不動尊がある。


目白坂の両側には、閑静な住宅地が広がっており、南側は早稲田方面に眺望が開いている。早稲田には早稲田大学の創立者・大隈重信(1838〈天保9〉-1922〈大正11〉年)が晩年を過ごした旧邸宅(現在は大隈会館)がある。当時の大隈邸からも、目白の高台が見えていたはずだ。

邸宅街特有の清々しい雰囲気に包まれながら、さらに進むと「ホテル椿山荘東京」が見えてきた。ここは、内閣総理大臣を歴任した、山縣有朋(1838〈天保9〉-1922〈大正11〉年)の別邸があったことでも知られる。
かつて、ここは椿の木が自生する「椿山」という場所だった。この土地を手に入れた山縣は、粋を極めた庭がある邸宅を造る。山縣自身、築庭造園の知識が深く作庭の名手としても知られている。
広大な森と樹齢約500年の椎(しい)の神木、室町期以降の石仏「風神・雷神像」など椿山荘の庭園は見どころが多い。なかでも「幽翠池」から水が流れ、岩間から「聴秋瀑」(ちょうしゅうばく)という滝になり、せせらぎが流れていく様に見入ってしまう。椿山荘には大正天皇も行啓(ぎょうけい)し、ほかにも歴史に名を残す人々が来訪している。彼らもこの滝を眺めていたのではないだろうか。

椿山荘は現在、将棋の名人戦や、著名なアーティストの作品展などが行われている文化施設でもある。文化人を魅了する“磁場”はどこにあるのかと地図を見たら、椿山荘の敷地に隣接するところに、『奥の細道』で知られる松尾芭蕉の史跡的な庭園「関口芭蕉庵」があった。芭蕉は神田上水の水役だった1677年ごろ居住していたという。
新目白通りの、美しい教会と武家屋敷跡
椿山荘から新目白通りに出ると、すぐに「東京カテドラル聖マリア大聖堂」の威容に圧倒される。1964(昭和39)年に完成した、丹下健三(1913〈大正2〉-2005〈平成17〉年)設計の建物だ。近未来を思わせるモニュメントのような教会は、上から見ると十字になっており、キリスト教の施設だとひと目でわかる。
前身は、1899(明治32)年建堂の聖母仏語学校「玫瑰塾(まいかいじゅく)」の付属聖堂だ。当時ここは、孤児院でもあり、外国人神父は孤児たちに職業指導を行った。土木や裁縫などの部門のなかでも製パン部門は評価が高く、各国大使館、在留外国人などが顧客になる。
そのなかにはフランスへの留学経験があり、総理大臣にもなった西園寺公望(1849〈嘉永2〉-1940〈昭和15〉年)もいた。当時の上流階級の人々や、その家の使用人たちが、目白界隈を行き交う姿を想像してしまう。そのパンの味は現在も近隣で営業する「関口フランスパン」(1888〈明治21〉年創業)が継承している。

椿山荘側の目白台周辺の江戸期の地図を見ると、久留里藩黒田家、熊本藩細川家、安志藩小笠原家などの下屋敷が置かれている。下屋敷は風光明媚(ふうこうめいび)な場所に置かれ、別荘のような役割を果たしていることが多い。そんな歴史も目白エリアの住みやすさを証明しているといえるだろう。
一帯の元大名屋敷は現在、「目白台運動公園」「肥後細川庭園」「永青文庫」などの文化施設になっている。


日本の名門大学が並ぶ、キャンパス街
新目白通りの対岸を見ると、1901(明治34)年に開校した「日本女子大学」がある。創設者は成瀬仁蔵(1858〈安政5〉-1919〈大正8〉年)で、大隈重信が創設委員長を務めた。
日本初の女子大学でもあるこの学校は、昭和を代表する脚本家・橋田壽賀子(1925〈大正14〉-2021〈令和3〉年)、建築家・妹島和世など多くの著名人の母校でもある。



さらに歩くと、「学習院大学」の敷地が見えてくる。1877(明治10)年に皇族の教育機関として開校した名門校だ。約18万㎡という広大な「目白キャンパス」には、「東別館」や「厩舎」など明治、大正期に建てられた名建築が残る。この大学が生み出す雰囲気が、目白の街に格式と落ち着きをもたらしているのではないだろうか。
また周辺には、「川村学園」「目白大学」「上智大学目白聖母キャンパス」など大学が多く、まさに文教地区という雰囲気がある。

旧華族ゆかりの邸宅地として発展
目白駅を越えて、さらに西に歩く。明治時代の地図を見ると、目白駅から西側は、近衞家や相馬家など旧華族の邸宅があった。当時の歴史を伝えるのは、五摂家筆頭、近衞家の邸宅の車廻しにあった樹齢100年を超えるケヤキの大木。この樹木は、1922(大正11)年の近衞邸の分譲後も地域住民の要望で保存された。


西側に歩いていくと、「おとめ山公園」がある。ここは江戸時代、将軍家の鷹狩や猪狩などの狩猟場があった。その一部が立ち入り禁止だったため「御留山」「御禁止山」と呼ばれており、それが公園名として残っている。
大正期になると、おとめ山を華族・相馬家が手に入れ自邸とした。庭を担当したのは、日本初の公園デザイナー・長岡安平だ。相馬邸は後に売却されるが、地元の人たちの保存の熱意により、1969(昭和44)年に区立公園になった。
現在も公園内には、池、樹林地など自然があふれている。湧水は「東京の名湧水57選」にも選定されている。


新目白通りに向かい、急坂を上っていくと、「下落合公園」があった。ここは、本田技研工業の創業者・本田宗一郎(1906〈明治39〉-1991〈平成3〉年)が晩年に住んだ自邸があった場所だ。

目白エリアと呼ばれる街を歩くと、豊かな文化の雰囲気にあふれていることに気づく。それは時の権力者たちに選ばれた土地であり、彼らが当時の最高技術とデザイン、素材で邸宅を建てたこともあるだろう。それらの邸宅には多くの文化人が集まり、生活を支える商業も彼らのニーズに合わせて発展していった形跡を街の随所に感じることができる。目白がこのような文化人に今も好まれているのは、急峻な高台で池袋や高田馬場という繁華街エリアからは隔離された別世界が形成されていることも理由だろう。
複数の大学を抱えながら、目白エリアは100年以上も営みを続けてきた。その時間が街をつくっているのだ。震災、戦争、行政改革、バブル期の土地狂乱など激動は襲ってきたはずだ。それらを飄々(ひょうひょう)とかわし、独自の雰囲気をつくっている。これが街の魅力になっているのではないだろうか。
(参考)
文京区公式サイト
▶︎https://www.city.bunkyo.lg.jp/index.html
文京区観光協会
▶︎https://b-kanko.jp/
早稲田大学「雉子橋邸を知っていますか 第1回 大隈邸の変遷」
▶︎https://www.waseda.jp/top/news/60490
『群像』2005年11月号「円地文子生誕百年記念特別エッセイ 目白台アパートの円地さん」瀬戸内寂聴
椿山荘公式サイト
▶︎https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/garden/history/
山縣有朋記念館
▶︎https://www.general-yamagata-foundation.or.jp/garden.html
山県有朋の庭園観と椿山荘
▶︎https://cir.nii.ac.jp/crid/1390001205669651328
東洋経済オンライン「村上春樹も住んだ男子寮「和敬塾」の濃密な日常」
▶︎https://toyokeizai.net/articles/-/853855?display=b
カトリック東京大司教区 東京カテドラル聖マリア大聖堂
▶︎https://tokyo.catholic.jp/archdiocese/cathedral/
関口フランスパン
▶︎https://www.sekiguchipan.co.jp/sekiguchi_co.html
『実録越山会 』小林 吉弥 著(徳間文庫)
日本女子大学
▶︎https://www.jwu.ac.jp/unv/
学習院大学
▶︎https://www.univ.gakushuin.ac.jp/
新宿文化観光資源案内サイト「旧近衞邸のケヤキ」
▶︎https://bunkakanko-annai.city.shinjuku.lg.jp/shosai3/?id=D010
東京都道路整備保全公社「将軍家の狩猟場だった・おとめ山(新宿区)」
▶︎https://tr-mag.jp/72/low_mountains.html
新宿区立図書館「本田宗一郎」
▶︎https://www.library.shinjuku.tokyo.jp/database/jinbutuyukari/060/post269.html