皇太子時代の昭和天皇が、英国皇太子と親善ゴルフ
まずは、1964年の東京五輪の時に第二会場になった、「都立駒沢オリンピック公園」から歩き始めた。全国民が注目したスポーツの祭典はテレビ放送の黎明期でもあった。「世田谷区」の名は放送網に乗り全国区になった。
この公園の歴史は1940(昭和15)年に遡る。第4回国民体育大会時のハンドボールコートとホッケー場が建設され、その後、バレーボールコート、弓道場が作られた。そして、1961(昭和36)年に、第18回オリンピック大会の東京招致が決定。全面的な整備は、都市計画事業として実施された。
そして、1964(昭和39)年の東京五輪では、サッカー、レスリング、バレーボール、ホッケーの会場として使われ、当時は人であふれかえっていたという。
約41万㎡の広い園内を歩くと、体育館や競技場など巨大なスポーツ施設が並ぶ。しかし、コンクリートの威圧感はない。それは、ほとんどの施設を半地下式にしているからだろう。また、奥行きを考慮した日本庭園風の植栽がされていることにも気付く。ここは区内の緑の拠点なのだ。豊かな緑に心地よい風が渡り散歩やジョギングをしている人も目立つ。
戦前の地図を見ると、ここには「東京ゴルフ倶楽部」というゴルフ場があったことがわかる。1914(大正3)年6月に、政財界の指導者・井上準之助たちの指導により、6ホールのコースがあるゴルフ場が誕生。1922(大正11)年4月19日には当時の英国皇太子プリンス・オブ・ウェールズと皇太子時代の昭和天皇が親善ゴルフを親しんだという。当時の貴族階級はここでスポーツを楽しんでいたのだ。もともと、瀬田や等々力などに偉人たちが別荘を構えた影響で、等々力や砧にもゴルフ場があった。駒沢はなかでも名門コースと言えるだろう。
大学跡に立つ、緑と調和したマンション群
駒沢公園から西の方向を見ると、2004年に完成した大規模マンション「深沢ハウス」が見えた。約4万㎡の敷地に、住棟が13棟あり、総戸数は772戸だという。広い土地を活かしてビオトープを設けるなど、敷地の1/3程度の面積に緑が配され、周囲との調和を図っている。
最も高層の建物は19階だが、これも威圧感は少ない。外壁タイルの優しい風合いや設計に工夫がされているからだろう。調べると、全13棟それぞれの建物は、立地に合わせており、多様性を感じる佇まいを見せている。また、住棟の階数もそれぞれ違う。都立駒沢オリンピック公園周辺の街並と一体化しており、集合住宅でありながら、山の手の邸宅街として成立していることがわかる。
さらに深沢学園通りのなだらかな勾配を歩いて行くと、ゆとりのある構えの邸宅や低層マンションが続く。沿道には途切れることなく街路樹が並び、深沢の街の整った印象はこうした様子からも窺える。
深沢から桜新町にかけての一帯は、文教施設が多いことも挙げられるだろう。駒澤大学、日本体育大学、東京学芸大学附属中高などの名門校が集中している。歩いていると、制服姿の子供たちや、放課後の学生の一行とすれ違う。静謐な住宅地でありながら、若い世代の賑わいが街の全体に活気をもたらしている。
『サザエさん』で知られる桜新町へ
大正初期は田園が広がっていた桜新町を住宅街として開発したのは1902(明治36)年設立の、東京信託株式会社だ。当時から玉川電気鉄道(現在の東急田園都市線)の沿線は郊外住宅として注目されていた。玉川電気鉄道は1906(明治40)年に渋谷-二子ノ渡(現在の二子玉川)が開通。その後に桜新町の開発が始まった。
実際に歩いてみると、高台に位置し、爽やかな風が吹く。当初は著名人や事業家が別荘として使用しており、「東京の軽井沢」と言われていたのも納得だ。
関東大震災、第二次世界大戦を経て、現在のような住宅地に変わっていく。国民的アニメ『サザエさん』の舞台としても有名だ。原作者の長谷川町子が九州から桜新町に引っ越してきたのは1934(昭和9)年。彼女が14歳のときだった。作品は、健康で文化的な当時の中流家庭の暮らしを今に伝えている。現在も駅周辺にはさまざまな飲食店や商店が並び、食事や買い物をする人々で昼夜通して賑わっている。
桜新町や深沢エリアは、一歩裏道に入ると、広い敷地の屋敷が未だ残っていることがわかる。今、都内の住宅地では、屋敷があった場所を分け、小さな建売住宅として分譲するケースが多い。しかし、ここは邸宅街の威容を保っている。住民が街に誇りを持ち、街づくりに積極的に関与していることが伝わってくる。
都市水道計画の歴史的遺産
このエリアのランドマークのひとつが、1924(大正13)年に完成した駒沢給水所だ。桜新町駅から徒歩6分の邸宅街の中にある。建設の背景には現在の渋谷区と世田谷区エリアの人口増加がある。当時、コレラや赤痢の流行もあり、安全な飲料水の確保が喫緊の課題だったのだ。
着手したのは、水道事業の権威だった東京帝国大学の中島鋭治。実地調整をし、取水地を多摩川河畔の砧村(現鎌田)に選定。ここに浄水所を設け、中継の給水所として、駒沢が選ばれた。まさに、世田谷を横断するような、大規模な水道工事だ。着工から4年の歳月を経て、全工事が完了した。高さ30メートルの給水塔は西欧の中世風のデザインが印象的だ。2つの塔は特徴あるトラス橋で結ばれている。この独特な設計を手がけたのも中島鋭治だという。彼は二度もヨーロッパに行っているその美意識が伝わってくる。日本の西欧化を見越して、このデザインにしたのではないだろうか。
そんな給水塔も現在は使われていない。戦後は水道技術革新が進み、浄水所は大規模化して、役目を終えた。現在は歴史的遺産として管理されている。
同潤会から始まる世田谷邸宅マンション街
世田谷の街を歩いていると、時代の一歩先を行くような華やぎと落ち着きがある。土地の雰囲気は、素質に加え積み上げてきた文化にある。戦前の地図を見ると、現在の弦巻1丁目、上馬5丁目付近には、同潤会の松蔭住宅があった。先述の桜新町にも、同潤会の分譲住宅があったことを発見する。
同潤会は、内務省が先導し、関東大震災後の住宅供給を行った。対象は都市生活をする中間層だ。上下水道が整備された衛生的でモダンな住居は当時の憧れだった。今も渋谷区内にある「表参道ヒルズ 同潤館」の建物で当時の雰囲気を味わえる。
区役所方面に広がるほのぼのとした風景
邸宅マンションが多いエリアから、世田谷区役所がある松陰神社駅方面に向かって歩いていく。厳かな趣がある邸宅街から、徐々に光が優しく、ほのぼのとした風景に変わっていく。このエリアは、江戸の風情を残し、昭和の商店街の雰囲気を残しながら、近年はオーナーのこだわりがうかがえる個人ショップも増加している。この多様性もまた、世田谷区の魅力なのだ。
世田谷区役所方面に向かって歩く。緑が多く、空が広く開放感があることを感じる。最寄り駅は世田谷線の松蔭神社駅。世田谷線は三軒茶屋と下高井戸の約5キロを結んでおり、一部は路面を走るのでスピードは速くない。2両編成でのんびり走っている。駅間は300m程度の区間もある地元に密着型であり、各駅停車だ。タイムパフォーマンスが叫ばれる時代に、この電車に乗ると、心がほどけていくのを感じる。
松陰神社が東京にある理由とは
区役所が置かれ、世田谷の中心地ともいえる松陰神社駅。駅名の由来は松陰神社で、祀っているのは、幕末期に活躍し1859年に安政の大獄で刑死した思想家・吉田松陰。故郷・山口県で松下村塾を主宰し、初代総理大臣・伊藤博文や山県有朋など近代日本黎明期の政治家に多大な影響を与えた。
刑死から4年後の1863年に門下生であった伊藤博文や高杉晋作により、この地に改葬された。一帯は、江戸時代から長州毛利藩の別邸があった。神社として信仰の対象になったのは、1882(明治15)年。吉田松陰の由緒にちなみ、近年は学問の神として崇敬を集めている。
住宅地として発展した文教地区
世田谷区内を歩き、その範囲の広さに驚く。渋谷の繫華な雰囲気が残る駒沢公園駅付近から、田園の面影を残す弦巻エリアまで、土地により表情が異なる。
一帯を歩いていると、塀などに大正から昭和初期を思わせる建材が使われている邸宅がある。この時期に東京の人口は急増し、都心から郊外へと人が移動したのだろう。関東大震災後は、都心に町工場などができ、都心の生活環境は悪化していった。東京大空襲で破壊された後、高度経済成長期を迎え、排気ガスや工場排水の汚染がひどく、光化学スモッグや悪臭は社会問題に発展。加えて、都心は土地が低く、湿気も強い。
健康を損ねる土地よりも、環境がいい郊外に住みたいと思うのは必然だ。そこで、戦後、高台にありさわやかに風が吹き抜ける世田谷区が注目され、急速に宅地開発が進んだのだろう。
また、軍の施設も多かったからか、道路も広く交通至便だ。世田谷区には、三宿の騎兵第一連隊、祖師谷の第二衛戍病院、駒沢の砲兵営(駒沢練兵場)などがあり、今も石碑が残っている。
さらに名門大学もキャンパスを構える。駒澤大学、日本大学、東京農業大学、昭和女子大学など歴史ある大学が、世田谷区内には20校近くもある。
総理大臣に選ばれる街
松陰神社から環七を渡り、下北沢方面に向かうと、偉人たちに愛された住宅街、代沢地区がある。
高級邸宅街として世田谷区の名を押し上げたのは、戦後を代表する総理大臣・佐藤栄作や竹下登、中曾根康弘(すべて故人)が代沢や上北沢の地に居を構えたことだろう。
もともと、代沢は戦前には帝国高等音楽学校があった文化地区であり、文豪・坂口安吾や、詩人の萩原朔太郎など戦前の芸術家を魅了。現代も作家、歌手、画家などが多く住んでいる。
高台にあり、富士山が見える風光明媚な地区ゆえに、政財官界の著名人からも選ばれるようになる。よく知られているのは、上述の昭和の長期政権で知られる元総理たちだ。政治家は運を担ぐ人も多いという。彼らはこの高台の土地に何かをひらめいたのかもしれない。
ここから数分、坂道を下るように歩いていけば、サブカルチャーの聖地・下北沢だ。坂を下るごとに、街の空気が変わっていき、淡島通りを越えると、一気にカラフルで雑多になる。
世田谷区の魅力はエリアごとのコントラストがはっきりしていること。洗練された都会と緑豊かな農村の風情、両者の魅力を享受できる東京でも稀有なエリアなのだ。これこそが、世田谷区の持つ知られざる力ではないだろうか。
参考サイト
駒沢オリンピック公園総合運動場
▶︎https://www.tef.or.jp/kopgp/
駒沢オリンピック公園マネジメントプラン
▶︎https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/content/000059542.pdf
世田谷区
▶︎https://www.city.setagaya.lg.jp/
長谷工コーポレーション 深沢ハウス
▶︎https://www.haseko.co.jp/hc/technology/works/200408_01.html
桜新町商店街「さくらのね」
▶︎https://sakuranone.com/
日本不動産 100年の歴史
▶︎http://www.nihonfudosan.co.jp/history/
名古屋大学 日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース
▶︎https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-606
長谷川町子美術館
▶︎https://www.hasegawamachiko.jp/
同潤会の独立木造分譲住宅事業に関する基礎的研究
▶︎http://www.jusoken.or.jp/pdf_paper/2003/0210-0.pdf
松陰神社
▶︎https://www.shoinjinja.org/
宮川憲治建築事務所
▶︎http://k-miyakawa-arch.co.jp/column/2266.html