山手線の向こう側は、遠浅の海だった
三田と芝……まずは三田の歴史からひもといていく。文明開化後の古地図を見ると、この一帯は、慶應義塾、松方邸、徳川邸、浅野邸など元大名屋敷の周辺に、御家人の屋敷や寺社が多い。当時から格式高い町であることがわかる。
そこでまずは、JR田町駅から現在も街の象徴的存在である「慶應義塾大学」方面に歩いていく。
駅前の幅広い幹線道路が、旧東海道(国道15号線・第一京浜)だ。ここを参勤交代の大名が行き来していたと考えつつ渡る。すぐに「慶応仲通り商店街」の看板が目に入った。
田町駅側の住所は“芝”であり、ビル名も“芝”の名を冠したプレートが目につく。しかし、慶應義塾大学側に出てすぐの信号には「三田2丁目」とある。慶応仲通り商店街は東京湾から山の手へと結んでいるようにも感じた。
この商店街の中には、「水野監物邸跡の史跡」がある。ここにあった水野邸に『忠臣蔵』で知られる赤穂浪士47士のうち9名が幕府の命令を待つために預けられた。そして、この地で切腹をしたのだ。
風光明媚な聖坂からの風景は浮世絵にもなった
慶応仲通り商店街を抜けて、「聖坂」を上がっていく。この辺りはかつて、東京湾を望む風光明媚な場所として知られていた。その様子は浮世絵師・歌川広重の名作『月の岬』として残されているが、今は見る影もない。
現在の聖坂のランドマークの代表的存在は、「在クウェート日本国大使館」(以降クウェート大使館)だろう。これを設計したのは、「東京都庁舎」(1991年完成)で知られる建築家・丹下健三(1913〈大正2〉年― 2005〈平成17〉年没)。海外を中心に活動していた丹下の作品は、国内に少ない。そのひとつが、この地で見られる。
この坂には、1887(明治20)創立の中高一貫女子校の「普連土学園」がある。新渡戸稲造と内村鑑三の助言により設立された名門校で、現在も人気が高い。
近くの坂名を示す札を見ると「潮見坂」と記されている。今ではビルしか見えないこの坂から、海が見えたのか……と思いながら調べると、まさにそのとおりだった。江戸時代に芝浦の海の潮の満ち引きを眺めることができたために、この名が付いたという。この南側に松平大和守邸があったので、別名「大和坂」ともいった。
邸宅街・綱町エリアでひときわ輝く建物
潮見坂から「蛇坂」を抜けて、地図を見る。すると、この周辺は、慶應義塾関連の施設が多いと気づく。付属の女子高等学校や中等部、研究施設、部活動のクラブハウス、綱町グラウンド……そのほとんどが、徳川家をはじめとする元大名屋敷跡に立っている。
周辺は邸宅街であり、三井グループの会員制倶楽部である「綱町三井倶楽部」、各国の大使館がある。
その中に、ひときわ美しくそびえる建物を見つけた。「三田綱町パークマンション」だ。
1971年の完成時には、日本初の高層マンションとして話題になった。現在のタワーマンションの先駆けと言っても過言ではない。そして時代を経ても色あせない洗練されたデザインに胸をつかまれる。白を基調とした高貴かつシンプルなデザインが美しい。
全戸角部屋で、緑豊かな庭園を臨んでいる。各戸の専有面積は100平米以上という広さで、これも都心には希少だ。
周辺を歩くと、よく手入れされた木々が植えられた広い一角がある。綱町三井倶楽部の西洋庭園だ。三田綱町パークマンションからは、この庭園を眺められるのだ。この環境もまた素晴らしいと感じた。
ジョサイア・コンドルの名建築にも魅了される
大通りに出ようと庭園の横を歩く。それだけで心がホッとする。人は自然のそばにいると、満たされていくのだ。
綱町三井倶楽部の前に出た。この建物は、1910(明治43)年に完成したジョサイア・コンドルの作品。鹿鳴館などの名建築で知られている英国人建築家だ。
ここに面しているのが日向坂だ。なぜそう呼ぶのか調べるとこの土地は、もともとは、日向国佐土原(さどわら)藩の江戸藩邸だったからだ。この土地を三井総領家第10代当主・三井八郎右衞門高棟が譲り受け、この壮麗な建物を建てたのだ。
会員制の倶楽部であり、一般開放はしていないが、建物を見ているだけで心が凛とする。
この綱町三井倶楽部を背にして、芝浦側が「綱の手引き坂」(綱坂)だ。名前の由来は平安時代までさかのぼる。摂津源氏の祖・源頼光の四天王の一人に渡辺綱という武士がいる。彼の生誕地がこの付近の「當光寺(とうこうじ)」という寺という言い伝えがあり、渡辺綱の一文字をとって、坂の名前がついたのだ。また、渡辺綱が産湯を使ったという「綱の井戸」が、綱町三井倶楽部敷地内に残っている。
綱町三井倶楽部の近くに、「在イタリア日本国大使館」(以降イタリア大使館)がある。ここは、かつて伊予松山藩邸であり、その後は1924(大正13)年まで内閣総理大臣を歴任した松方正義公爵の住居であった。
航空写真を見ると、敷地の大部分を庭園が占めており、大きな池もある。
イタリア大使館は、ワインや食文化、イタリア語を学ぶイベントで文化や産業の情報を積極的に発信していることでも知られる。
日向坂から麻布方面に歩いていく
さて、日向坂に戻る。ここには「在オーストラリア日本国大使館」(以降オーストラリア大使館)がある。敷地は蜂須賀侯爵家の屋敷があった場所で、1980年代あたりまでは、蔦がからまる洋館が立っていたが、現代はスタイリッシュな近代建築だ。
都内屈指の人気ヴィンテージマンションを発見
このエリアには、ヴィンテージマンションが多い。大手建築会社が持てる力を出し切り、国の威信をかけたと言っても過言ではないほど、重厚なマンションが並んでいる。
人気のヴィンテージマンション「三田ハウス」もこの地にある。三田ハウスは1972(昭和47)年に完成した、地上15階建ての建物で、白い外壁の曲線のバルコニーが、かつてこの地から見えたであろう海を思わせる。
三田綱町界隈を歩いていると、庶民的な街とは異なる上品さが漂っているようにも感じる。これまで多くの街を歩いてきて、人間同様、街にも性格があるように感じるのだ。
外界と隔絶されたような超高級住宅街
そこで、もうひとつの邸宅街である麻布永坂町と麻布狸穴町(まみあなちょう)に向かって歩くことにした。いずれも知る人ぞ知る高級邸宅地である。三田綱町との共通点は、高台にあり、周囲とは隔絶されたような雰囲気であることだ。
麻布永坂町も麻布狸穴町も旧町名が現代に残されたものだ。1962(昭和37)年以降、住居表示制度により、都内で歴史ある町名が次々と消滅していった。
本稿冒頭で紹介しているクウェート大使館一帯は、かつて三田功運町だった。イタリア大使館一帯も三田綱町と表記されていたが、いずれも地図からは消滅した。
この麻布永坂町と麻布狸穴町は住民が猛反対をして、その名を残した。このことからも、土地への深い愛が伝わってくる。
麻布永坂町には、2019年まで「ブリヂストン美術館永坂分室」があった。ここは「ブリヂストン美術館」(現アーティゾン美術館)の研究活動や展示の補完施設で一般公開もされていた。今はどうなっているのだろうかと前を通ったら、建物が残っていた。
「在ロシア日本国大使館」と「東京アメリカンクラブ」
東と西が同居する麻布狸穴町
次の目的地である麻布狸穴町に向かう。「狸穴坂」があるこの街は、高級マンションや邸宅が並ぶ高級住宅街だ。
在ロシア日本国大使館(以降ロシア大使館)、会員制の東京アメリカンクラブのほか、広大な敷地の邸宅もあり、どこか秘密めいた趣がある。
街の歴史を調べると、1874(明治7)年は海軍により「観象台」(天文観測台)が設置され、その跡地は「国土地理院」の「日本経緯度原点」になっている。
また、「南満州鉄道」の東京支社も狸穴にあった。俗世から少し隔絶された感が、これらの施設の用地になったのではと想像してしまった。
東京タワーに向かって歩くと庶民的な商店街
さて、ここからはひたすら坂を下り、東京タワー方面に向かって歩くことにした。
すぐに「東麻布商店街」の幟(のぼり)が見えた。幟にはかかしがデザインされていた。調べてみると、かつてこの一帯には東北方面から上京し、住み込みで働いている人が多かった。そこで、故郷を離れて働く人を励まし、お祭りをしたいという思いから、毎年9月末に「かかし祭り」が行われているとのことだ。
今では、この地に住む人や働く人、そしてかつて働いていた人はもちろん、そのアットホームな雰囲気に惹かれ、遠くから参加する人も多いという。
そんな人情も含め、ここは、坂の上の邸宅街とは打って変わった庶民の息遣いがある。そのコントラストもこのエリアの魅力かもしれない。
東京タワーと芝公園、古墳と貝塚と……
芝公園に向かった。ここは庭園、運動場、遊具、紅葉谷、梅園まである都民の憩いの場所だ。開園は1873(明治6)年と古く、敷地は増上寺の一部だった。
ここの目当ては、前方後円墳の「芝丸山古墳」と「丸山貝塚」だ。都心に遺跡があると知ると、心躍る人も多いだろう。
芝丸山古墳は展望台のようになっているのかと思っていたが、木が茂っており眺望は開けていない。しかし、木々の間から周辺の景色を見渡すことはできた。
さて、帰ろうかと思ったが、肝心なものを見ていなかった。それは日本最初の私立大学・慶應義塾大学だ。
中津藩士だった福沢諭吉が藩命により1858(安政5)年に開校した「蘭学塾」がルーツであり、その後変遷を繰り返し、1890(明治23)年大学部が開設した。
歴史ある大学ゆえに、敷地内は名建築の宝庫で国指定重要文化財もある。その代表格が1875(明治8)年に完成した「三田演説館」だ。
文化財ではないが、建築家・谷口吉郎(1904〈明治37〉年―1979〈昭和54〉年没)と彫刻家のイサム・ノグチ(1904〈明治37〉年― 1988〈昭和63〉年没)がタッグを組み、1951(昭和26)年に完成した「萬来舎」がかつてこの敷地内にあった。その建物を再生した「新萬来舎」も有名。
街を歩いていると、芝近辺が海であり、その海を臨む三田段丘や麻布台地が風光明媚な邸宅街として発展してきたことがわかった。
海岸は沖へ沖へと埋め立てられてしまったが、土地に染み付いた“性格”のようなものは、そう簡単には消えないことを感じた。
土地と人とは惹かれ合う。そのことをこのエリアを歩いていると感じるだろう。
参考
港区ホームぺージ
▶︎https://www.city.minato.tokyo.jp/
綱町三井倶楽部
▶︎https://www.tsunamachimitsuiclub.co.jp/
駐日イタリア日本国大使館
▶︎https://www.it.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html
駐日オーストラリア大使館
▶︎https://japan.embassy.gov.au/tkyojapanese/aboutus.html
はじまりは麻布から(港区ホームページより)
▶︎https://www.city.minato.tokyo.jp/azabuchikusei/mirai/documents/10_hajimari.pdf
東麻布商店会
▶︎http://www.higashiazabu.com/event.html
慶應義塾大学
▶︎https://www.keio.ac.jp/ja/
『大東京繁盛記 山の手編』(講談社文芸文庫編・講談社)