コロナ禍のアメリカで幸運な出会いを果たした名器
史上最年少でチャイコフスキー国際コンクール優勝を果たしたのが18歳のとき。以来、海外を拠点に活躍を続けてきた諏訪内晶子氏。昨年、日本音楽財団より2000年から長期貸与されてきた1714年製作のストラディヴァリウス「ドルフィン」に別れを告げた氏は、新たにワシントンDCを拠点に「The Ryuji Ueno Foundation」を主宰するDr.リュウジ・ウエノより1732年製作のグァルネリ・デル・ジェズ「チャールズ・リード」を長期貸与されることに。今回の取材では特別に、その愛器をお持ちいただいた。
「楽器と演奏者というのは特別な関係で、誰よりも時間を共有する相手。家族と過ごす以上に長い時間を共に過ごしますから、非常に大切なものです。また、私たちは自分の声ではなく楽器を通して自分を表現していくので、相性もあります。そういう意味では、楽器は探そうと思って見つかるものではないのです。それは前の楽器のときもそうでしたし、この楽器も同じです」
アントニオ・ストラディヴァリ(1644~1737)が製作したヴァイオリンと、バルトロメオ・ジュゼッペ・アントニオ・グァルネリ(1698~1744)が製作したヴァイオリンは、どちらも圧倒的な名器として知られている。諏訪内氏ほどの演奏家になれば楽器探しには苦労しないのではないかとも思えるが、氏によれば「探しても会えないときは会えない、会えるときは偶然のようなもの」なのだそう。
「ストラディヴァリウスを返却しなければならないことは2年前からわかってはいました。ただ、やはり20年近く弾いてきた楽器ですし、『ドルフィン』はストラディヴァリウスのなかでも黄金期に作られた、本当にいい楽器でしたので、当時の自分はそこから先に何を選べばいいのかをなかなか想像することができず、実のところ、あまり探しもしていなかったのです」
「その頃、現代に作られた楽器で演奏するのもいいのかな……、と思ったりもしました。ただ、新しい楽器は使用する木材自体も新しいので、歴史の深みのようなものは滲み出てこない。そうすると、どうしても自分が表現したいものに制限がかかってしまうことになりますから、結局選ぶには至りませんでした」
手に取った瞬間に感じた、運命のヴァイオリン
「チャールズ・リード」との出会いが訪れたのは、2020年2月、演奏会で渡米していた際のこと。諏訪内氏が新しい楽器を探しているということを聞きつけた知人にウエノ氏を紹介されて渡米、貸与されるに至ったのだという。
「声をかけていただけるとは思ってもいなかったので驚きました。手に取ってみて、『あ、これだ。この楽器で演奏したい』。人との出会いと同じです」
「前の楽器との出会いも同様でした。こういう巡り合わせはなかなかあることではないですし、非常に幸運なことなのかなと思います。前のストラディヴァリウスとの20年があったからこそ、こういう楽器に巡り合わせていただく機会もいただけたのかな、とも」
300年近い歴史を持つ楽器ながら、この「チャールズ・リード」は諏訪内氏曰く“非常にいい状態”なのだそう。過去に大学の教授職についていた人物が演奏していたという記述はあるそうだが、しっかり弾き込まれた楽器ではなく、基本的にコレクターが所有してきたため、ダメージなく現代まで伝わってきたのだという。実際に近くで見ても、確かにそれだけの年月を経た楽器とは思えないほど美しい。
経験を重ねたからこそ気づけたデル・ジェズの魅力
ストラディヴァリウスとグァルネリ・デル・ジェズ。同じ時代に生まれながら、この2つの楽器は全く違う個性を持つと言われている。「チャールズ・リード」は「ドルフィン」と比べてサイズも小さく、フォルムも違う。後者のf字孔は少し縦長で角度も違い、表板の膨らみもフラットだ。
実際、弾いてみると個性の違いは明確で、「ストラディヴァリウスの倍音はキラキラした、透明感のあるものなのですが、デル・ジェズの倍音は地響きのよう。体に触れているところからその素晴らしさを感じます」と諏訪内氏は話す。
「ストラディヴァリウスは楽器自体が完成されていますから、その良さを引き出すのが演奏家の役目。私に馴染んでくるのではなく、逆に私が馴染んでいくという感じです。楽器自体に緊張感があって、それをできるだけ崩さない形で音を作っていくことが必要です。一方、デル・ジェズは弾いているだけでは音はあまり出てこないのです。ストラディヴァリウスの場合は、楽器の持っている音を壊さないでいい状態で出すことが必要ですが、デル・ジェズは楽器が持っている音を引き出してあげるのが演奏者の役目。ですから、自分の出したい音のイメージがはっきりしている人のほうが演奏しやすいと思います。私には黄金期のストラディヴァリウスを20年弾いてきた経験がありますから、出したい音のイメージがある。それがなければここまではっきりしたイメージは持てなかったと思うのです」
「実は30年前にデル・ジェズを弾いたことがあるのですが、そのときはピンとこなかった。デビューから30年以上、いろいろな経験を重ねるなかで自分の好みや表現したいものがかなり確立されてきましたから、そういう意味では『チャールズ・リード』は自分のいきたい方向に一緒にいける楽器かな、という気がします」
そう話す諏訪内氏。とはいえ、20年を共にした楽器との別れは辛くなかったのだろうか。
「『ドルフィン』からは私ができる限りの可能性を引き出してあげようと常に過ごしてきたので、私としてはもうやり切ったという感じです。ですから、振り返ることもなく、いい形で前に進むことができたのだと思います。最後は返却が決まっていましたし、もっと後ろ髪を引かれるのかなと思っていたのですが、不思議なことにそのようなこともありませんでしたね。『チャールズ・リード』と出会うことができて、落ち着くところに落ち着いたという感じがしています」
楽器に合わせて新たに手に入れたドミニク・ペカットの弓
楽器が替わると、もちろん合わせる弓も替わる。諏訪内氏は「チャールズ・リード」に合わせて、演奏会用の弓を新調した。「いい弓は一番無理のない形で楽器の音を引き出すことができるもの。相性が合えば、ヴァイオリンと弓の間には何の抵抗もないのです」と言う氏が愛用するのは、19世紀フランスの名弓だ。
「『ドルフィン』のときに使っていた弓は、フランスのフランソワ・グザヴィエ・トルテ(1747〜1835)という、ちょうどモーツァルトと同時代に弓の製作をしていた人のもの。トルテの弓は倍音を上手に引き出してくれるのです。一方、今は同じくフランスのドミニク・ペカット(1810〜1874)の弓を使っています。トルテで『チャールズ・リード』を弾くと、いまひとつ良さが引き出せる感じがない。弓が違うだけで、違う人が弾いているかと思うくらい音が違うのも面白いですね。弓もヴァイオリンと同じで、19世紀の作者による希少な弓は数が限られています。弓は楽器と違って消耗品なので、私がペカットの弓を使うのは演奏会や録音時のみです」
新たな楽器と弓を得て、昨年から気分も新たに演奏会活動をスタートさせている諏訪内氏だが、これまで弾き慣れた曲を新しい楽器で演奏するのはどんな気分かと尋ねると、「全然感覚が違って、本当に楽しい」という答えが返ってきた。
「ちょうど楽器が替わる前と後にブラームスの『ヴァイオリン協奏曲』を弾いたのですが、自分が表現していたものの幅が広がる、想像していたのとは別の世界を見るということを感じました。素晴らしい楽器や弓は、それ自体も芸術品。そういうものに毎日触れながら生活できるというのは幸せなことだと、改めて感じています。ですから、私にはほかに欲しいというものもないのです。むしろ、楽器との関係をよく保つためにも、ほかのものは排除して生活していると言えるかもしれません。こういった楽器というのは芸術品として非常に強く、それ自体に魂があるようなもの。片手間に付き合うことはできないのです」
余計なものは何も置かない。ミニマルに徹したパリの家
現在はパリに拠点を置き、ヨーロッパを中心に活動を展開する諏訪内氏は、自宅にも物をあまり置いていないのだという。
「私には物に対する執着が全くなくて。旅行が多いからなのでしょうね。ヴァイオリンは近年では演奏家が自分で所有できる価格ではなくなってしまっていますが、そうでなくても自分のものにしたいとはあまり思いません」
自宅はパリ中心部にある、1750年頃に建てられた建物のメゾネット。24時間弾けるように防音工事を施して暮らしているそう。
「物に囲まれていると集中できないので、極力シンプルでミニマルな、生活感が漂わない空間にしていますね。休みの日には頭を休めたいので、音楽もあまり聴きません。音を聴いていると、どうしてもそちらに気がいってしまうので」
音楽と共に生き、また音楽のために生きる覚悟。そんな諏訪内氏にパリという街は合っているようだ。
「パリには99年の終わりから住んでいるので、かれこれ22年になります。私たちは自分で自分を奮い立たせないといけない仕事をしているので、環境がとても大切。フランスはプライベートな部分とプロフェッショナルな部分がはっきりと分かれている社会なので、活動を終えて家に戻ったときにリチャージするのにもいいですし、一方でプロフェッショナルな環境が必要になったときにはそれがすぐそばにある。何よりフランスは文化を大事にする国なので、住み心地は大変いいですね」
取材時は2022年1月に発売となる新作アルバム『J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ(全曲)』に先駆けてのツアーに合わせて帰国中。今回のツアーのようにたった一人で舞台に上がる経験はこれまでもほとんどなかったそうで、「ピアニストは最初から最後まで一人ということが多いので、改めてすごいなと思いました」と話す。
とはいえ、後日筆者が訪れたリサイタルで舞台に上がった諏訪内氏は圧倒的な演奏を披露。終演後は客席より万雷の拍手が送られた。
点だけの活動を線へ、面へ。芸術監督として取り組む国際音楽祭
そんな諏訪内氏が2012年より芸術監督として企画・制作に取り組んでいるのが「国際音楽祭NIPPON」。多彩な出演者を迎えてのコンサートに加えて、現代作品の紹介や次世代の演奏家を対象にした教育プログラムなどを行うほか、被災地の復興を応援するプロジェクトも継続的に行っている。
「この活動は自分の芸術活動にも本当に大きな影響を及ぼしています。私のようなソリストは指揮者とも違うし、オーケストラの一員でもない。演奏も誰かとやる以上は完全に能動的というわけではなく、声をかけてもらったらツアーに出る。若いときに大きな賞をいただいて演奏活動に入ったけれど、このまま言われるままに“点”だけの人生を歩んでいっていいのだろうかと思ったことがあって。それで、40歳になったときにこの音楽祭を始めました。企画作りから自分で携わることで、さまざまな方と一方通行でない関係ができてきた。それが面白いですね」
これまで参加してきた音楽祭で印象に残っているものを尋ねると、外気温がマイナス30℃という極寒の中で開催されるスウェーデンの「冬の祭典」(2020年に終了)や、24時間日が落ちない中で開催されるノルウェーの「ロフォーテン国際室内楽音楽祭」、それに学生時代に7週間にわたって参加したという、アメリカのバーモント州マールボロで毎年開催される「マールボロ音楽祭」などの名前が挙がった。「その場でしかできない音楽作りができるのが音楽祭の楽しみ。私たちの音楽祭も瞬く間に10年が過ぎましたが、今後も一気にジャンプするのではなく、最良の形を模索しながら続けていきたいと思います」という言葉が頼もしい。
「チャールズ・リード」というまたとないパートナーを得たことで、表現者としてさらなる高みに向かう諏訪内氏。「人間は芸術が身近にないと、それを渇望するようになるもの」という氏の「芸術を信じる力」は、音楽祭を通じて、また録音作品を通じて、静かに、しかし着実に、私たちの暮らしに広がっていく。
諏訪内晶子『J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ(全曲)』
ユニバーサル ミュージック ジャパン
定価:通常盤¥4,400/初回限定盤¥5,800(写真は通常盤)
発売日:2022年1月19日
アルバム・デビューから25周年を迎える2021年夏、待望のバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲録音に挑戦。初回限定盤のブックレットには、以前より親交のあった阿川佐和子氏による「新たな恋の始まり」を掲載。
▶︎ https://www.universal-music.co.jp/akiko-suwanai/
「国際音楽祭NIPPON 2022」
日程:2022年2月11日(金)〜3月15日(火)
多彩な出演者によるコンサートに加え、現代作品の紹介や教育プログラムなどが催される音楽祭。東京、愛知、岩手などにて開催。
▶︎ https://www.japanarts.co.jp/special/imfn/
profile
1990年史上最年少でチャイコフスキー国際コンクール優勝。これまでに小澤征爾、マゼール、デュトワ、サヴァリッシュらの指揮で、ボストン響、フィラデルフィア管、パリ管、ベルリン・フィルなど国内外の主要オーケストラと共演。BBCプロムス、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン、ルツェルンなどの国際音楽祭にも多数出演。2012年、2015年、エリザベート王妃国際コンクールヴァイオリン部門および2019年チャイコフスキー国際コンクール審査員。2012年より「国際音楽祭NIPPON」を企画制作し、同音楽祭の芸術監督を務めている。デッカより14枚のCDをリリース。
桐朋女子高等学校音楽科を経て、桐朋学園大学ソリスト・ディプロマコース修了。文化庁芸術家在外派遣研修生としてジュリアード音楽院本科およびコロンビア大学に学んだ後、同音楽院修士課程修了。国立ベルリン芸術大学でも学び、2021年学術博士課程修了、ドイツ国家演奏家資格取得。