時代と共に変化を遂げた駒沢通りの街並み
恵比寿はどこから歩きはじめようか……と思ったのだが、代官山の駅からスタートすることにした。以前、ここで「代官山」を取りあげたときに、僕の仕事場が鎗ヶ崎交差点近くにあったことを書いたはずだが、その住所は恵比寿西だった。
代官山の駅のちょっと南方、鎗ヶ崎交差点から駒沢通りを恵比寿駅の方へと進む。僕がこのあたりに仕事場を置いていたのは、80年代後半からおよそ30年。駒沢通りの道幅などは変わっていないけれど、街並みは随分変わった。通りの右側(こちらの町名は恵比寿南)で、昔から目についたのが、イタリア三色旗の幌看板を出して、窓越しの店内に古風な赤いチェックのテーブルクロスの食卓が垣間見えた小さなイタリア料理店「コルシカ」。あれ?とうとうなくなっちゃったか……と思ったら、ビルになった1階にスマートな看板を見つけて、ちょっとホッとした。
「コルシカ」の前あたりに、「下通り五丁目」という東急バスの停留所が立っているけれど、下通りというのは昭和40年代初め頃まで駒沢通り沿いの帯状の領域に付いていた町名なのだ。こういう古町の名前が時折残されていたりするのがバス停のおもしろいところ。
食べ物屋でいうと、進行方向左手の恵比寿西の側には恵比寿ラーメン、そのちょっと先に香月(かげつ)というラーメン屋があって、1980年代に恵比寿の町を西の荻窪と比肩する東京ラーメンの代表地に押し上げた。が、いずれの店もいまはもうない(香月は別の町に移転したらしい)。
いまでいう“背脂ショウユ”あるいは“背脂チャチャ”系の名店・香月があったビルの先の路地を左折すると、前方に恵比寿神社というのがある。道の中央に神社があって、その島を囲むように路地が配置されているのが地理的におもしろい。この社が恵比寿の源と思う人もいるかもしれないけれど、恵比寿の由来は現サッポロビールのエビスビールの銘柄からであり、この神社はそれにあやかって昭和30年代頃には改称、それ以前は天津神社といったそうだ。
神社の側面から東へ進む横道を行くと、その突きあたりにかつて恵比寿市場という戦後バラック調のマーケットがあって、1本駅寄りの道まで通り抜けられた。90年代の初めの頃だったか、僕は入り口の瀬戸物屋の店頭で“ピンクレディーの写真入りコーヒーカップ”を見つけて買ったおぼえがある。レトロなお宝としてゲットしたわけだが、まだあの当時は解散して10年くらいだったのだ。
昔の面影を色濃く残す駅前商店街
駒沢通りにもどると、道の南側のアーケードの区間には、僕が鎗ヶ崎にいた頃までは割合と古い店が残っていた。漢方薬をずらりと並べて、その奥に白衣姿の薬学博士みたいなオジサンがいた「岩崎薬局」は店をやめてしまったようだが、黄色い看板を出した「大沢カメラ」はいまも健在だ。顔見知りの御主人の姿が見えたので、ちょっと覗いてみよう。
ここは店内の壁に先々代が撮影したという昭和20年代くらいの近所の写真が展示されている。駒沢通りを中目黒まで行っていた都電が走っている景色とか、防衛庁技研のところに駐留していたGHQの軍用車のショットとか……なかに、この店の前あたりを象が歩いている写真がある。
「いや、コレ本物の象じゃないんですよ。ハリボテの象」と、御主人。
昭和20年代の中頃、タイから上野動物園に寄贈された象のはな子を皮切りに、象がブームになった当時、駅前にあった「スヤマ」という小型デパートが何かのセールのときに作ってパレードに使ったハリボテ象らしい。
のどかな時代の恵比寿の話を伺ってから、山手線入り口脇のエビスビールの“ゑびす像”を横目にコンコースを東側へ出ると、その先のバス通りの方まで通り抜けられる「えびすストア」がある。小規模なアメ横のようなこのマーケット、おそらく始まりは戦後の駅前ヤミ市なのだろうが、最近は若い人がやるバーやアジアンフードの店なんかに移り変わってきている。店のタイプは変われど、駅前にこういうごちゃっとした感じの場所が残っているところが、恵比寿の魅力でもある(やりすごしたが、西口には純喫茶「銀座」などを残した恵比寿銀座商店街もある)
ビール工場の跡地に誕生したガーデンプレイス
「恵比寿ガーデンプレイス」に行くには、JR内の動く歩道の付いたコンコースを進むのが1番早くてわかりやすいのだろうが、白金や田町の方へ行く都バスが通る道を歩いてきても、途中を右手の方に曲がると前方に「恵比寿ガーデンプレイス」の高層ビル群が見えてくる。
サッポロビールの工場跡に「恵比寿ガーデンプレイス」がオープンしたのは1994年の10月。アメリカ橋(恵比寿南橋)の脇の正門の向こうにクラシックなレンガ建築風の洋館、低くなったパティオの向こうにフレンチレストラン「ジョエル・ロブション」(当時はタイユバン・ロブションと呼んでいた)の貴族の別荘みたいな一軒家が見える。テーマパーク型ショッピングモールはディズニーランドやハウステンボスが話題になった80年代バブルの時代を連想させるけれど、誕生したのは泡がハジケた後、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件の1995年が間近に迫った頃だったのである。
とはいえ、ショッピングモールに入った三越には高級ワインが陳列され、シャトー・ラトゥールのヴィンテージを眺めつつ久しぶりにバブルな気分になった……というようなことを僕は当時「週刊文春」で連載していたコラムに書いている。「ナウのしくみ」というコラムが終了する頃の話なのだが、その連載が始まって半年ぐらいの85年の4月、山手線傍らにまだ残されていた貨物引込線に設置した客車を使ったレストラン(ビヤエキスプレス)を取材した話を記している。このとき、客車に隣接してビヤプラザというレンガ建てレストランもあったようだが、まだ工場棟の多くは機能していた。冷房が普及する以前の夏の山手線でここを通過するとき、ツウンとビール醸造特有の匂いが開いた窓から漂ってきたのを思い出す。
ガーデンプレイス内には、通好みの洋画を掛ける映画館、ガーデンシネマやシブい展覧会をやる東京都写真美術館……といったカルチャー・スポットもあるけれど、南方を横断する道(プラタナス通り)の向こうにはタワマンの先駆け的な住居棟や「ウェスティンホテル東京」、そしていつしかなくなってしまったがレンタルビデオのTSUTAYAがあって、『ツイン・ピークス』のビデオソフトなどは、ここで借りた記憶がある。駅からは少し離れた場所だったが、ガーデンプレイスができて以降、おいしいイタリアンやフレンチの店が東口の裏道の方にまで散在するようになっていった。
プラタナス通りの「ウェスティンホテル東京」の北方からクネっと逆U字形に枝分かれする道は往年のビール工場の南縁の道だ。路傍は石壁と雑木の林が続いている。この道をしばらく歩いていくと、三田1丁目というバス停がある。「さんまバス」というコミュニティーバスのもので、目黒駅や目黒区総合庁舎のあたりを巡回しているようだから、その名は“目黒のさんま”にあやかったのだろう。
それはともかく、ここまで歩いてきたのは、古地図と照らし合わせたとき、ちょうどこのあたりに「エビス長者丸」という東京市電の停留所があったのだ。天現寺から分かれた支線の終点で、戦時中に廃止されたようだが、ビール工場の従業員が主客だったのだろう。ちなみに「長者丸」は南側の丘のお屋敷街・上大崎長者丸の地名に由来する。
泉麻人のよそ見コラム
景丘町の界隈
ガーデンプレイスの正門の前から恵比寿駅の方へ向かって線路際の道を歩いていくと、まもなく右手に上っていく湾曲した坂道がある。ちょっと先に「景丘の家」という表札を出した建物が見えるが、ここが90年代の終わり頃に元の住人が子供やお年寄りのサロンとして提供したものらしい。そう、いま恵比寿四丁目の町域のこのあたりには、昭和40年代初めまで景丘町という名が付けられていたのだ。とくに、この坂を上った右側の一画は、きちんと田の字型に区画されていて、いかにも“景丘の屋敷町”という感じがする。古地図をたどると大正時代の頃から田型の宅地表示が見受けられるから、かなり歴史の深い住宅地といえるだろう。道端に「中田喜直住居跡」の道標を見つけたが、この人は「めだかの学校」や「ちいさい秋みつけた」などを作曲した昭和戦後童謡の名音楽家だ。
景丘町の名が付けられたのは昭和の初めらしいけれど、それ以前の地図を見ると、「缺塚」の小字名がある。缺は「欠」の旧字でカケヅカと読み、古墳に由来する地名のようだ。ガーデンプレイスよりのところに加計塚小学校という小学校があるけれど、校内に「欠塚」と刻んだ昔の石碑が残されているという。つまり、景丘の名はカケヅカにオカを重ねたイメージネームだったのだろう。そういえば90年代の頃だったか、この住宅街の一角に「パラボラのある家」とかいう看板を屋根に大きく掲げたお宅があって、印象に残っているのだが、その家はもうなかった。
profile

1956(昭和31)年、東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。『週刊TVガイド』等の編集者を経てコラムニストに。主に東京や昭和、カルチャー、街歩きなどをテーマにしたエッセイを執筆している。近刊に『昭和50年代 東京日記』(平凡社)。


