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泉麻人が散策する「白金」――プラチナ通りからナザレ通りへ
泉麻人の「東京カルチャーストリート」

泉麻人が散策する「白金」――プラチナ通りからナザレ通りへ

高台の邸宅地と下町風情の町並みが隣り合う街

コラムニスト・泉麻人が、都内の街や通りをテーマに時代の移り変わりとそのカルチャーを解説する連載、第14回は港区南部の白金エリア。80年代からこの街を知る泉氏が、シロガネーゼで一世を風靡(ふうび)したプラチナ通りから通称・ナザレ通りを抜け、今なお昭和の風情を残す商店街までを歩いた。

Text by Asato Izumi

シロガネーゼ時代の名店が点在する「プラチナ通り」

白金を散歩するのにJRの目黒駅は適当な出発点だ。東口を出て目黒通りを少し行くと、首都高をくぐった先に自然教育園を中心とする豊かな森が見えてくる。いまは国立科学博物館管轄の緑地だが、明治の頃は軍の火薬庫、それ以前は松平讃岐守の下屋敷、さらに室町の頃の伝説めいた人物・白金長者の居館跡…などの歴史をもつ一帯で、一瞬奥多摩あたりの林道に入りこんだようなハイキング気分を味わえる。そんな森林の手前にある東京都庭園美術館は1933年(昭和8年)竣工の旧朝香宮邸を保存したもので、館内の展示品はもちろん、白亜の洋館と美しい庭園を眺めるだけでも価値はある。

1983年に開館した東京都庭園美術館。アールデコ様式の本館は、宮内省内匠寮の担当技師だった権藤要吉による建築設計。

その先の白金台のT字交差点から左方に直進すると、以前にも青山、西麻布の区域を散策した外苑西通りだ。プラチナ通り(ストリート)の俗称の方がある世代にはピンとくるかもしれない。「シロガネーゼ」とともにバブル時代のイメージのある呼び名だが、この名がハヤったのは90年代も終わり頃のことで、出所は女性誌「JJ」のOG誌として創刊された「Very」だった。白金という全国的にはポピュラーと言いがたかったローカルな高級タウンを舞台したシロガネーゼのブームの背景には、ディスコやカフェバーに象徴される歓楽的なイメージの六本木や西麻布を卒業して、ちょっと静かな奥座敷に逃れたい…というバブル崩壊後の心理も関係しているだろう。とはいえ、シロガゼーネが話題になり始めて2年後の2000年秋には地下鉄の白金台駅ができて、観光客も容易に行ける街になってしまった。ちなみに白金の正確な読みはシロガネーゼのように濁ることなく、シロカネだ。

プラチナ通りに入る前に、目黒通りの右側に目を向けると、外観を他より高級な感じにしたスーパーの「いなげや」や「ドン・キホーテ」が並んでいたりするのがなんだか微笑ましい。さて、プラチナ通りは「白金」からきたものだが、その名が広がる以前、80年代当時の道は路面が石灰みたいに白っぽかったので“白金コンクリート通り”なんて呼んでいたことがあった。沿道の店で古いのは、左側の素朴な佇まいをみせた蕎麦の「利庵」、右側のドーム屋根をのせた緑色のビル(上階はプラネタリウム・バー。ビルの名称は「ナニ・ナニ・ビルディング」というらしい)も90年代にはあったはずだし、その先のレストラン「ラ・ボエム」の建物もかなり古参の方だろう。

イチョウ並木がずっと続く通りをしばらく行くと、道筋が右にカーブしながら坂を下っていく右側に東大医科学研究所(病院)の門がある。上り勾配の玄関口の雰囲気は昔と変わらないが、ひと頃まで奥に見えた褐色スクラッチタイルの古い病棟は改築されたようだ。そう、この医科研のちょっと先、坂を下ったあたりにペパーミント・グリーンの窓枠をみせた「ショコラティエ・エリカ」というチョコレート専門店は、僕がマガジンハウスの「Olive」誌の取材で80年代中頃、この通りで初めて入った店かもしれない。窓越しに眺めた店内は、午前11時前の時点でオモタセを物色をする御婦人方で盛況だった。

プラチナ通りの老舗店のひとつ、チョコレート専門店「ショコラティエ・エリカ」。

昭和のレトロな商店が連なる「白金北里通り」

プラチナ通りはまもなく首都高が上を通る交差点に突きあたる。ここを右折してもいいのだけれど、ショコラティエ・エリカの角を右に曲がって東大医研の裏の方へ進んでいくのもおもしろい。そのうち正面に見えてくる年季の入ったレンガ塀は聖心女子学院を取り囲むもので、こういう渋い紅色の発色はレプリカでは出せないだろう。塀づたいに左へ進むと中国の地名にちなんだ蜀江(しょっこう)坂に入るが、坂上を左に曲がって興禅寺の前を通っていく路地が気に入っている。この寺の門前にひょろっと伸びた松と桜のショットが実にいい。

聖心女子学院の西塀沿いの坂道「蜀江坂」。坂上の景観が、中国・四川省の紅葉の名所「蜀江」のように美しいことから命名されたという。
閑静な住宅街にある興禅寺は、延宝2年(1674年)創建で、米沢藩上杉家の菩提寺。門前には松と桜の大木が本堂を守るように立っている。

突きあたった明治坂を下ると、その坂下を横断するように通るのは通称・ナザレ通りというらしい。大きな表示板が立っているわけではないけれど、いま高層マンションが立っているあたりに10年かそこら前までキリスト教のナザレ修女会があったのが由来という。ナザレ通りを右に進むと都バスが往来する白金北里通り(商店会)にぶつかるが、この沿道は横路地まで含めて、昔懐かしい商店街の町並みがよく残っている。

プラチナ通りと白金北里通りを結ぶナザレ通り。かつて通り沿いにナザレ修女会があったことが名前の由来。修女会跡には現在、分譲マンション(写真右側)が立っている。

三田の慶應義塾大学に通っていた1970年代の後半、渋谷から田町方面へ行く都バスをたまに使うことがあったのだが、恵比寿三丁目の交差点の所で首都高をくぐってここの商店街に差しかかると、その当時からしてひと昔前の裏町になってきたような不思議な気分になったのを思い出す。昭和も戦前築と思しき木造2階建の商店のいくつかは、90年代くらいからレトロセンスのバーやカフェに変わったが、「ハチロー」という洋食屋は随分前からそのまま、という感じだし、「三越湯」という銭湯は建物こそ改築されたが、門前に〈国威宣揚 三光協和会 昭和十二年十一月三日〉などと刻んだ札を貼った国旗掲揚台が残されている。

白金北里通りの木造2階建ての商店。創業60年という洋食屋の「ハチロー」はいまも健在。
昭和12年(1937年)に設置された国旗掲揚台が「三越湯」の路地脇に鎮座する。

その前の横断歩道の向こう側に2軒並ぶ、だんご屋と豆腐屋もこの商店街に欠かせない物件だ。ちなみに、そちら側の歩道の電柱に注目すると、地区表示の札に「雷神」と記されている。この辺の旧町名は白金三光町だが、だんご屋や豆腐屋の裏手の小高い所にかつて雷(いかづち)神社が祀られていたので、そんな俗称が定着している。

ナザレ通りから白金北里通りに出たあたりには、ビルに挟まれて銅板張りの商店が昭和の風情を残している。

横路地に工場街の面影をとどめる「白金商店街」

白金北里通りの北里とは、通りの北側にある北里研究所病院が出自だ。千円札の肖像にまでなった北里柴三郎が立ちあげた医学研究所、先の東大医研といい、白金は医療の町という側面もあるのだ。北里研究所のバス停を通り過ぎて東進していくと、三光坂下のあたりからは右手南側に寺や神社が並ぶようになる。南の山側に寺社とお屋敷、商店通りを挟んで北の川側は金属、機械関係の工場地帯…という、昭和の社会科教科書みたいなわかりやすい町の構成といえる。

手前左側が2017年に竣工した地上14階の北里研究所/北里大学プラチナタワー、中央奥が1999年に新棟となった北里研究所病院。

三光坂下のバス停先に〈白金商店街入口〉という指示版の出た横道がある。20年ほど前までは〈四ノ橋商店街〉というアーチ型の看板が立っていたのだが、この通りが北方の古川に架かる四之橋まで続く商店筋だ。そもそも工場街に隣接した商店街だったので、下町の曳舟や砂町のようにおかず(おでんとかコロッケとか)を立ち売りする店なんかがぽつぽつとあったものだが、最近はめっきり減ってしまった。ほんの数年前に歩いたときにはまだ健在だった「四之橋市場」という戦後マーケット風の集合商店の一角が再開発の工事現場になっていたのには、諸行無常の思いがした。

個人商店が軒を連ね、生活感があふれていた白金商店街(1980年頃)。写真提供:港区
現在の白金商店街は、商店や飲食店が点在するものの、かつての賑わいは見られない。

四之橋の手前まで行って、最寄りの駅の白金高輪駅の方へ進路を取る。横道に入ると~製作所とか、~金属とか、古風な工場表札を出した建物が目にとまって、なんとなくホッとした気分になった。そういえば、「螺子」と漢字書きするネジ工場の看板を見かけて、そうかネジは巻き貝のぐるぐるからきた言葉なのだ…と、有機的な言葉の由来に感じ入ったのも、このあたりの路地を歩いていたときだった。

白金商店街の横道を入った路地に、板金やネジ加工などの製作所がひっそり佇んでいる。

泉麻人のよそ見コラム


雷神山のモニュメント

白金北里通りのだんご屋と、豆腐屋の並びの横路地の石段を上がると雷神山児童遊園というのがあって、写真のような雷神を表すモニュメントが置かれている。昭和の戦前くらいまでの地図にはここに雷神社と⛩の表示があるから、実際に祠(ほこら)などがあったのだろうが、平安時代に流行した疫病を鎮めるために雷神が祀られたのが源らしい。地形的に高台の端っこで、古地図に独立した高木のマークもあることから、雷がよく落ちる場所だったのかもしれない。

ところで、このだんご屋さん、屋号に大久保の名があるけれど、これは新宿の先の大久保ではなく白金にゆかりのある大久保彦左衛門が由来と聞く。白金高輪の駅近くに大久保の墓がある立行寺という寺があるけれど、もとはこの門前で始まった店らしい。以前、高輪の方から白金の方へ散歩しているとき、清正公前あたりの路地際にもこのだんご屋を見つけて入ったことがあった。

ひと頃まではだんご屋ののれんにも〈雷神山下〉の表記があったはずだが、僕がその地名を初めて見たのは、もうちょっと恵比寿三丁目交差点寄りの路地の口だ。ナザレ通りの方に斜めに入っていく道に明治乳業の古めかしい牛乳屋があって、もう店自体はやっていなかったような気もするが、青いトタンの看板に、「雷神山販売所」と記されていた。この界隈にそれほど浸透していた地名だったのだ。

profile

泉 麻人

1956(昭和31)年、東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。『週刊TVガイド』等の編集者を経てコラムニストに。主に東京や昭和、カルチャー、街歩きなどをテーマにしたエッセイを執筆している。近刊に『昭和50年代 東京日記』(平凡社)。

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