長くゆるやかな菊坂は、文人ゆかりの坂道
丸ノ内線の本郷三丁目の駅(出入口)は、本郷通りと春日通りの交差点裏の横道にあるのが隠れ家めいていて面白い。古い地下鉄ならではの“浅い階段”を上って、横道から本郷通りに出ると、交差点のこちら側に「かねやすまでは江戸のうち」といわれた老舗の洋品店「かねやす」がある(長らくシャッターが降りて、閉業中のようではあるが…)。
交差点を東大のある北側に渡って、本郷薬師の参道を横目にもうひとつ先のスーパー「ライフ」の角を左折すると、ゆるい下り勾配のこの道が通称・菊坂通り。いまは入り口にその名が掲げられているけれど、本郷界隈で生まれ育った作家・木下順二(戯曲「夕鶴」で知られる)の自伝エッセイ『本郷』には、入り口の方は本郷四丁目通り、本妙寺坂との辻を越えた先からが菊坂、と書かれている。
本妙寺というのは、この辻の右手にあったという「明暦の大火」の出火点の一説として知られる寺だが、右方の台地の端は寺が集まっていた一帯で、いまも長泉寺というのがある。その長泉寺門前の崖際に大正から昭和の戦前までの文学者のサロン的ホテル、として知られた「菊富士ホテル」があった。袋小路のような所に見落としそうな碑が立っているが、そのホテルのあった台地側から下の菊坂通りにかけて、いまちょうど大規模なビルの建設工事をやっている。取材時(3月初め)の段階ではまだサラ地に近い状態なので、後楽園の方までよく見渡せる。菊富士ホテルの時代の眺望が、仄(ほの)かながら想像された。
“ズボン”に特化した老舗洋品店で裾上げを注文
本妙寺坂との交差点を過ぎると、菊坂通りは徐々に上り坂になっていく。これといって目ぼしい商店はないが、右側に樋口一葉ゆかりの質屋「伊勢屋質店」の古い建物が残る、その少し手前の左側に「ズボン堂」という立て書き看板が目につく商店がある。ここは、ズボンには違いないがアメリカンなGパン*を扱う店。とくにリーバイスのヴィンテージの宝庫としてファンの間で名高い。
1950年(昭和25年)に、いまの店主のオヤジさんが米軍払い下げの衣料専門店として立ちあげたそうだが、僕が散歩の途中にはじめてここを発見したのは90年代のなかごろだ。現店主がまだ40代の頃で、本格カウボーイのようなウエスタンルックに身を固め、彼が乗るハーレーダビッドソンが店先に駐まっていた。
当時、ショーケースに収納された1950~60年代のヴィンテージ・ジーンズを眺めながら、そのころ出始めた復刻モノのリーバイス(502)を買ったのだが、2時間ほど散歩をしているうちに見事なチェーンステッチによる裾上げが完了していた。
実は去年、創業150周年記念モノのリーバイス501を別の店で購入して履いているのだが、裾づめを施していない。折り返して履くにも若干長すぎるので、散歩の途中にズボン堂で裾上げをやってもらおう…というのが今回の本郷散歩のひとつの目的でもあった。
前日に電話予約をしておいた10時半、ズボン堂を訪ねて、店主の堀越さんに携帯してきたリーバイス501を手渡す。
「この裾の裏地の150 YEARSって入った刺繍のところをちょっと折り返して見せたいので、2センチくらい長めに…」
なんていう注文を付けてから、棚の商品を物色して、店を出た。
作家の住まいもあった古き良き住宅街
この辺からは、伊勢屋質店の先の胸突坂あたりを上って右方の台地へ進んでいくのが散歩の定番のコースだが、ズボン堂の手前あたりを左折すると、少し低いところを菊坂通りと並行するように細道が続いている。この筋は昔の川跡の暗渠道だ。本郷通りの向こうの東大構内がかつての水源らしく「東大下水」なんていう俗称もあったという。
現在、道として歩けるのは、本妙寺坂の辻の脇からだが、古地図で川筋をなぞると、小石川植物園のあたりで千川上水に合流しているような感じである。そういえば、15年くらい前までズボン堂の近くにあった菊水湯って銭湯、当初はたぶんこの川の水を使っていたのだろう。
水といえば、暗渠道の南方の袋小路めいた一角にポンプ式井戸があり、井戸前の家に樋口一葉が10年くらい暮らしていたという。グーグルマップなどに「旧居跡」の表示が出るが、この路地の突きあたりに木造3階建ての下宿屋風の建物があって、石段を上って奥へ進んでいくと、裏方の鐙(あぶみ)坂の途中に抜けられる。そのすぐ横に「金田一京助・春彦旧居跡」のプレートが掲げられている。
胸突坂(中腹くらいからは正に胸を突く)を上っていくと老舗旅館「鳳明館」(本館と大町別館)の年季の入った木造建築が目にとまる。僕はおよそ20年前、ここの別館の方に泊まったことがある。東京の町の宿に泊まり歩くエッセイの取材を兼ねたものだったが、受験シーズンに合わせたこともあって、東大を受けにやってきた鹿児島ラ・サール高校のグループが、引率の教師を伴って、合宿のような感じで泊まりこんでいた。
鳳明館前の道をずっと東進すると、本郷通りの東大の赤門と正門の間あたりに出る。正門の方にかけて、喫茶店のルオーとか、何軒かの古書店…2階建ての店屋が並ぶ街並みはあまり昔と変わらないな…と思ったが、よく見ると所々低い店屋のすぐ後ろに高いビルが建っているから、いずれ道幅が拡幅されて古い商店は消えていくのだろう。東大正門前の信号の横道角に2軒並んでいた果物屋とフルーツパーラーの「万定」も、昔ながらの建物こそ残っているが、店は閉めてしまったようだ。パーラーの老婦人が作るカレーライスとミキサー式の生ジュースのファンだったのだが…。
この「万定」のある横道の奥は三角形の小広場のようになっていて、なぜこんなスペースを取ったのだろうと思っていたのだが、突きあたりにかつて映世神社という神社があり、つまり参道の広小路のような場所だったのだ。ここから北方の旧町名は森川町。少し行くとアールデコ風コンクリート建築の求道会館が健在だが、さらに奥に存在した木造3階建ての下宿館・本郷館はなくなって、同名のマンションビルが立っている。
本郷散歩――この後、東大構内から池之端の旧岩崎庭園、湯島の方へ進んだり、根津谷中の方へ向かう手もあるけれど、この日は言問通りの向こう側の西片へ立ち寄った。菊坂下あたりから入っていった西片1丁目の界隈は、岬のように突き出した台地にお屋敷が並んでいて、どことなく目黒の上大崎長者丸とか五反田の池田山とかの邸宅街に似たムードがある。明治から昭和前半まで、もとは徳川家の家臣として名をあげた阿部伯爵家の大屋敷があった所だが、東大(帝大)の教授の家も多かったことから「学者街」の俗称もあった(夏目漱石が住んでいたことも)。
さて、西片の屋敷街をそぞろ歩いて、ランチなども食べて、ズボン堂に戻ってくると、リーバイス501の裾上げが、クラシックなミシンによる美しいチェーンステッチによって仕上げられていた。
*「Gパン」という呼称は、戦後間もなく日本に駐在した米軍のGI(アメリカ兵の俗称)が藍色の丈夫な木綿パンツを穿いていたので、そのGIパンツがつづまって転訛して「Gパン」となったのが定説。
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1956(昭和31)年、東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。『週刊TVガイド』等の編集者を経てコラムニストに。主に東京や昭和、カルチャー、街歩きなどをテーマにしたエッセイを執筆している。近刊に『昭和50年代 東京日記』(平凡社)。