甲州街道の路面を走っていた京王線
新宿は子どもの頃からよく出かけた親しみのある街だ。さて、どこから歩き始めようか……と思ったのだが、ちょうどこの原稿を書こうとしている年の初め、京王百貨店で駅弁大会(第58回 元祖有名駅弁と全国うまいもの大会)がスタートした。「第58回」と記されているけれど、小学5年生のとき(第2回だったらしい)からほぼ毎年立ち寄っている冬の恒例行事なのである。
その思い出話を書くと先へ進めないので、ここでは省くけれど、例年どおり盛況の会場をひとまわりして「越前大野 九頭竜まいたけ弁当」(後で食べたが、具のまいたけも焼きさばも炊き込みご飯もウマかった)を買って、甲州街道側に出た。こちら側からアプローチしようと思ったのは、僕が小学校に上がる頃(1963〈昭和38〉年3月)までの京王線は、その後の京王百貨店のところの地上駅を出て、甲州街道の路面をしばらく走っていたのである。
さらに、大正時代初めの開業から戦時中までは、甲州街道の陸橋を渡った東口が始点だったのだ。1945(昭和20)年5月の空襲で変電所が被災して、電圧のかかる陸橋の上り下りができなくなったという話だが、そんな往年の景色を想像しながら甲州街道を新宿4丁目に向かって歩いていくと、明治通りとの交差点の北東角に「京王新宿追分ビル」というのが立っている。地下1階から3階にIKEAが入ったこの場所に、戦前の京王線の駅(新宿追分)はあった。ビルの名称にも「追分」とあるが、北側の新宿通りにかけて、この一角は昔の甲州街道と青梅街道の分岐点だったことから追分と呼ばれ、江戸の頃から新宿の中心地だった。いまも「追分だんご」という老舗が営業している。
今回はまだ、そちら新宿通りの方へは行かず、もう少し甲州街道を進むと、右手(南側)の新宿高校の手前に雷電稲荷神社という小さな神社と、その奥に“昭和的なビジネス旅館”が数軒ばかり残っている。フェンス越しの新宿高校の構内に、かつて街道際に通っていた玉川上水の樋(とい)の遺構が覗き見えるが、おっ!と思ったのは、その先の広告の東側で長らく工事をしていた明治通りのバイパス(環状第5の1号線〈千駄ヶ谷〉)が開通している。新宿御苑の緑を横にして新道の前方にNTTドコモビルがすっくと聳(そび)え立つショットは、なかなかの東京絶景といえる。
江戸時代から続く歓楽街「二丁目」
新宿御苑の前から北方の新宿通りを向こう側に渡ると、いわゆる「二丁目」の歓楽街に入る。ゲイバーをはじめとしてコアな店が寄り集まっている界隈だが、この一帯も歴史を遡れば内藤新宿の宿場裏の遊郭地に由来する。そんな歓楽街のなかにある太宗寺の境内は、大きな銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一つ)、塩かけ地蔵、閻魔像と奪衣婆(だつえば)像が並ぶ閻魔堂など見所が多い。その奥の正受院にも奪衣婆像が祀られているが、これは遊郭の女性が信仰したという説もある。
靖国通りの北側の三番街という素朴な商店筋をさらに北進していくと、文化センター通りに行きあたるが、この道は70年代初めまで人形町の水天宮の方まで行く都電13系統の専用軌道だった所。僕は中学生の頃に廃止寸前のこの都電に乗りにきたことがあったが、新宿を裏へ裏へと入っていくようなコースがおもしろかった。昔の都電軌道をたどるように新宿中心街の方へ歩いていくと、明治通りを突っ切って、ゴールデン街裏手の繁華街に入る。いま「四季の路」という遊歩道になっている所が古い都電軌道の跡なのだが、僕が13番の都電に乗りにきた頃は、大久保車庫に出入りする回送車がたまに走るだけの“半廃線状態”になっていた。
変化し続ける歓楽街、歌舞伎町
新宿区役所通りを渡った西方は歌舞伎町の中心街。いまどきこの辺りでまず目に入ってくるのが、人気ホストの顔をアイドルのようにずらりと並べた、ホストクラブの広告看板だ。ビルの外壁自体が「ホスト図鑑」のようになっている建物もある。こういうホストの男子をいわゆる「推し」の対象にして、カジュアルに遊んでいるファンもいるのだろう。
ゴジラのオブジェもすっかり歌舞伎町のシンボルマークとして定着した、東宝のビル前の小広場までやってきた。ここ、ひと頃は東宝ビルの前身のコマ劇場にちなんでコマスタジアム広場(「歌舞伎町ヤングスポット」なんて記されている地図もある)などと呼ばれていたが、いまはシネシティ広場というらしい。広場の西武新宿線の駅側にあったミラノ座のビル(新宿東急文化会館)の跡地にも、向かい側のゴジラの東宝ビルと対峙するように「東急歌舞伎町タワー」が建設されて、映画館、ライブハウス、ミュージアム、さらにホテルを収容したニュースポットがまもなくオープンしようとしている(2023年4月に開業予定)。
新宿原風景が広がる新宿通りへ
歌舞伎町からこんどは南進、靖国通りを渡ってアルタの横あたりまで歩いてきた。ここがまぁ昔からの東口。新宿通り(青梅街道)の四谷方面を眺めたショットこそ、僕の世代の“新宿原風景”といっていい。左側の「ABCマート」の所にはかつて同業種の「ワシントン靴店」(隣は「アメリカ屋靴店」)があり、その先の「紀伊國屋書店」、右側の「高野フルーツ」「中村屋」といったあたりは老舗処。
さらにもうひとつ。いまは右側の歩道に立たないと見えにくいけれど、左奥に「伊」の赤い看板を掲げた「伊勢丹」は、コンクリートの建物も含めて、ほぼ開業時のままだ。伊勢丹がここにオープンしたのは1933(昭和8)年(創業地は神田)というが、この東口のメインストリートの街並みはほぼ昭和の初めにできあがった。
大きなきっかけとなったのは1923(大正12)年の関東大震災。被害の大きかった銀座や日本橋の商店がこちらに移転してきて“山の手銀座”と呼ばれるようになる。さらに1927(昭和2)年に小田急が開通、京王も八王子までの直通運転が始まって、新宿の駅が郊外との中継駅(ターミナル)になった。それによって、追分より西に街の中心が移動してきたのだ。
薪炭屋だった紀伊國屋が2代目の田辺茂一によって書店に鞍替えしたのも1927(昭和2)年。ここから戦後の30年代、40年代にかけて、サブカルチャーも含めて文化の素が発信される。
その向かいの中村屋の創業は明治時代だが、レストランを本格開業してカレー(カリー)ライスを初めて出したのが、紀伊國屋書店と同じ1927(昭和2)年なのだ。創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻が日英同盟の状況下でかくまっていたインド独立運動の志士、ラス・ビハリ・ボース氏のレシピがもと、というのも「革新の街」らしい。
というわけで、久しぶりに中村屋のチキンカリーでも食べて散歩を締めくくろうかな。
profile
1956(昭和31)年、東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。『週刊TVガイド』等の編集者を経てコラムニストに。主に東京や昭和、カルチャー、街歩きなどをテーマにしたエッセイを執筆している。著書に『銀ぶら百年』(文藝春秋)など。