フェンスの中のアメリカ……代々木にあったワシントンハイツ
代々木のイメージは、オリンピックや外国文化、トレンドの発信地・奧渋谷の先にあるオシャレな街などではないだろうか。実はそれだけでなく、代々木は屈指の邸宅街なのだ。東京には伝統的な邸宅街は多くあるが、代々木には常に“新しい”というイメージがある。実際にこの地に住んでいる人も、経営者や芸能関係者など、時代の先を進んでいる人が多い。なぜそうなるのだろうか? 街の歴史を掘り下げて検証すると、この地にかつてワシントンハイツが存在していたことが大きいのではないか。
ワシントンハイツは、1946(昭和21)年に建設された、アメリカ空軍とその家族用の団地だ。初代アメリカ大統領の名を冠し、92.4万平米の敷地には、軍用施設と住宅のみならず、学校、教会、劇場などもあった。周囲はフェンスで囲われ、日本人は基本的に立ち入り禁止。“街”としての機能が集約されていたのだ。
ここが、1964(昭和39)年、東京オリンピックの年に返還され、選手村となった。その後、この地は、代々木公園、NHK放送センター、国立代々木競技場、国立オリンピック記念青少年総合センターなどになっている。
当時、アメリカは遠い夢の国だった。時代のトレンドを取り入れた小説で知られる作家・片岡義男氏は、下記のようにワシントンハイツ時代のことを回想している。
一歩なかに入ると、そこは完全にアメリカだった。空気の匂いからしてアメリカだった。日曜の午後などは、アメリカの日曜日の午後がそのままにそこにあった。
(出典『片岡義男.com』2017.8.18記事『ワシントン・ハイツの追憶』)
周囲が1945(昭和20)年の山の手大空襲で焼け野原となったなか、フェンスの中では、物質と文化にあふれた、燦然と輝くアメリカがあったのだ。
当時の建物が代々木公園内に残されている。原宿側の入り口から入り、5分ほど歩いたところに、ライムグリーンの窓枠が特徴的な木造平屋建てが見える。これが、ワシントンハイツにあった建物なのだが、案内板にはその記載はない。
ワシントンハイツが返還されてからも、先進的かつハイセンスな生活の雰囲気は残った。そして、多くの外国人が、このエリアに住み続け、街のイメージを向上させている。外国人を対象としたお店も多く、デンマーク大使館御用達の老舗パン店『イエンセン』はその代表格だろう。欧米風のライフスタイルが憧れという時代は長く続いた。これらのお店が、街のイメージを向上させる要素の一つになっていることは間違いない。
美しくダイナミックな国立代々木競技場を望む
代々木を象徴する建物といえば、1964年東京オリンピック時に造られた国立代々木競技場だ。建築家・丹下健三によるこの建物は、2016年に「代々木屋内競技場を世界遺産にする会」が発足したことでも話題となった、優美かつ躍動的な建物だ。
この建物は、世界から絶賛された吊り屋根構造が特徴的だ。竣工から約60年という時の流れを感じないほど、先進的で優雅。羽ばたく鳥の翼を思わせる感動的な形状をしている。2020年東京オリンピックでも使われる予定だった。
ミックスカルチャーの大邸宅街・代々木上原を歩く
代々木公園から、屈指の邸宅街・代々木上原方面に進む。なだらかな坂が続き、「上原」という地名は、その名のとおりなのだと感じるはずだ。すれ違う人に、外国人の姿が多くなるのは、ブルガリア大使館、ベトナム大使館、コートジボワール大使館などがあるからだろう。
加えて、2000年竣工の日本最大のモスク(回教寺院)「東京ジャーミィ・トルコ文化センター」がある。オスマン・トルコ様式の石造りの建物は、ドームとミナレット(尖塔)が美しく、最大2000人を収容する規模がある。室内はアラベスク模様のステンドグラスや、ドームの装飾など、東京に居ながらイスラム文化を感じられる場所として、多くの人に親しまれている。
「徳川山」と呼ばれた渋谷区大山町から上原二丁目を通り、駒場へ
東京ジャーミイを中心に、井の頭通りを挟んで左右は、渋谷区大山町という地名だ。壮麗な邸宅が並ぶこの街の歴史は、昭和初期までさかのぼる。
1927(昭和2)年に小田急線が開通し、現在の代々木上原駅が『代々幡上原駅』として開業してから、一気に宅地化が進んだという。かつてここは、「徳川山」の名で、高級住宅地として分譲されたのだ。この土地の持ち主は、紀州徳川家出身の貴族院議員・徳川頼倫侯爵とその息子の頼貞。近代日本で活躍した彼らは、私設図書館を作ったり、人材と文化の育成に私財をなげうつ。そして、度重なる外遊や留学で莫大な財産を使い果たしてしまう。その結果、都内の家屋敷を手放すことになったのだ。
当時、華族であった彼らが住んでいた街は、関東大震災でも被害が少なかった。その盤石な地盤と、大名屋敷から続く歴史的な住宅街ということもあり、このエリアの人気は今もなお高い。よく手入れされた松やツゲなどが枝葉を広げる庭を持つ日本屋敷が点在し、全体的に緑が非常に多い。
区画が整然としており、ゆったりと配置されているから、町全体に余裕とゆとりが感じられる。空襲の被害も少なく、戦後は米軍人用住宅として接収された家もあったという。今ではそんな歴史を一切感じさせない、閑静な住宅街だ。代々住み続けている人が多いというのも納得する。
モダンな邸宅が多い上原二丁目を歩く
大山町に隣接する上原二丁目も高級住宅街だ。ここには多くの経営者や芸能人が居を構え、日本を代表するアーティストやクリエイターも、この地を選ぶことが多いという。1960年代後半からマスコミ業界で活躍していた現在74歳の元テレビプロデューサーにその理由を伺った。
「多くの芸能人がここに住むのは、便利ということも大きい。ワシントンハイツの跡に1973(昭和48)年にNHK放送センターができて、代々木に人が集まるようになった。その後、1976(昭和51)年に渋谷ビデオスタジオが完成した。バブル経済の影響もあって、代々木には多くのタレント、ミュージシャン、デザイナーなどが集まってきた。飲食店にも名店が多いのは、そういう背景もあるよね」と当時を振り返る。
以降、このエリアに終の棲家を構えている人の顔ぶれを見ると、代々木エリアは、人を広く受け入れるが、残れるのは成功者のみなのではないか……という考えがチラリと頭をよぎった。
1936(昭和11)年創設の『日本民藝館』に昭和の東京を感じる
大山町を駒場方面に邸宅街を進むと、1936(昭和11)年創設の『日本民藝館』がある。創設者の柳宗悦は、無名の職人による民衆的美術工芸に美を発見し、これを世に知らしめる「民芸運動」を始めたことでも知られる。ここには、日本各地の焼物、漆器、木工細工、染織などの日用雑器や仏像、朝鮮王朝時代の美術工芸品などが展示されている。
建物は、本館(写真上)と西館からなり、和風を基調とした洋風との折衷部分も多く、昭和初期の建築の美しさを今に伝えている。この本館の道路に面した石塀は、1999年に国の有形文化財に登録された。
オシャレで住みやすい、ミックスカルチャーの街・代々木エリア
代々木エリアは、住みやすさでも知られる。駅周辺の低地は商業エリアで、高台に向かうにつれて瀟洒な邸宅が増えていく。「代々木上原駅前商店街」や「上原銀座商店街」などには、昔ながらの商店や定食店が存在する。また、全国チェーンのスーパーやドラッグストアもあり、買い物にも便利だ。スタイリッシュなコーヒースタンドや、ミシュランガイドに掲載されるレストランなどがバランスよく存在。品の良い山の手文化が醸成されている。
1972(昭和47)年に東京メトロ千代田線・代々木上原駅が開業してからは、若者層の住みたい街としてランクインするように。外国人やアーティストが多く住み、渋谷や原宿まで徒歩圏内という魅力的なエリアだからだろう。
今、代々木エリアは文化の発信地として、多くの才能が集まっている。街を歩くと、クリエイターによる小さなショップ、マニアックなレコード店、作り手の想いがつまったパン店や洋菓子店などがあちこちに登場している。そして、それらのお店に、ずっとこの街に住んできたであろう人々が通う姿も見られる。新たな流れを受け入れながら進化してきた、大人の落ち着きと余裕……そんな空気を感じながら、代々木エリアを歩くと、時代の最先端の「気分」に出会えるはずだ。
参考資料・文献
『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』(秋尾 沙戸子著 新潮文庫)
『東京の道事典』(吉田之彦、 樋口州男 、武井弘一、渡辺晋編 東京堂出版)
渋谷区の歴史(渋谷区公式サイト)
▶︎https://www.city.shibuya.tokyo.jp/kusei/ku/history.html
片岡義男.com
▶︎https://kataokayoshio.com/essay/170818_washington_heights
日本オリンピック委員会
▶︎https://www.joc.or.jp/
国立国会図書館「近代日本人の肖像」
▶︎https://www.ndl.go.jp/portrait/
日本民藝館
▶︎http://www.mingeikan.or.jp/