香りの歴史は古く、紀元前にまで遡るといわれている。芳しい香りを漂わせるフレグランスとしての役割はもちろんのこと、精神に安らぎを与え、心穏やかにする鎮静効果を生かしたリラクセーションの道具や、ときに宗教儀式や薬の代用品として使われるなど、その用途は実に多様だ。そもそもなぜ人は香りに惹かれるのだろう。
「わずか0.2秒という驚くべき速さで脳に直接信号を送ることができる嗅覚は、ほかのどの五感と比較してもとても敏感なもの。食べ物のにおいを嗅いで鮮度をチェックするのも、それが生死に関わる可能性もあるからこそ。人は自身が持つ最も鋭い感覚である嗅覚を巧みに利用しているのかもしれません。そう考えると、私たちはとても原始的な本能で香りに反応していると思うんです」
目指す理想は、“儚い香り”
アロマ調香デザインの第一人者として、これまでに6000種にも及ぶ香りを生み出してきた齋藤智子さん。人間が持つ鋭敏で繊細な感覚にまつわるものだからこそ、香りの仕事は奥深いとともに、日常の暮らしと切っても切れない関係にあると話す。
「リラックスするためだけでなく、ときに気持ちを瞬時に切り替えたり、集中力を高めたりするときにも、アロマは有効に活用することができます。コロナ禍でなかなか思うように外出できず、自分と向き合う時間が長かったせいでしょうか。最近は生活の節々に上手に香りの効果を取り入れ、自分らしい時間の過ごし方を見いだしている人が増えているように感じます」
数ある香りのなかで、ありのままの自分、自然体でいられる環境を演出するために必要なものを見つけるにはどうしたらよいのか。まず考えるべきは、強弱のバランスと香りの調和だと齋藤さんは話す。
「私が理想とするのは、“儚い香り”なんですよね。風がふっと抜けた瞬間に『あっ、いまのはなんだろう?』と、はたと気づく。印象には微かに残りつつ、それがどこから漂ってきた、なんの香りだったのかは具体的にはわからない。合成香料を使った香水は意識的に演出するものでもあるため、明確に印象づけられる香りだと思うのですが、私が手掛けているのは居心地のよい空間や、心を素の状態に戻すために厳密に計算されたほのかな香り。そのため、天然のエッセンスを微量に足し引きしながら、人や目的に応じた調合を探し出します」
香りのデザインは対話から始まる
香りの素となる精油が、揮発性に応じて大きく3つのカテゴリーに分けられることはよく知られている。瞬時に香るものの持続性の短いレモンやオレンジなどの「トップノート」。調合する際に香りの軸となるラベンダーやヒノキといった「ミドルノート」。そして揮発性が低く、ゆっくりと安定して香り続けるサンダルウッドやシダーウッドをはじめとする「ベースノート」。齋藤さんはこの3つのバランスを絶妙に調整しながら、唯一無二の香りをつくり上げるために、天然精油を1滴ずつ、細やかに掛け合わせていく。
「空間を演出する香りは、いくらいい匂いでも長時間嗅ぎ続けていると不快に感じてしまうこともあります。空間の目的、規模や構造。さらにはそこで時間を過ごす人々の行動や滞在時間も考えながら、香りの特性や時間にある変化の様子も鑑み、デザインを構築していくのです」
わずか1滴が、大きく方向性の違いにつながってしまう天然アロマ。無限の可能性が考えられるなかで、齋藤さんが手がかりにするのは、香りを求める人とのコミュニケーションだ。
「専門家として精油一つひとつの特性を知り、知識と研究を重ねていくことはもちろんですが、最も大切なのは、オーダーされる方にとって最適な状態がどんなものであるかをヒアリングから見つけ出すこと。個人であれば、その人のライフスタイルや服装、好みの色などを聞きながら、ペルソナを絞り込んでいく。大勢の人を対象にする企業や施設であれば、そこで何を表現したいか、感じてほしいかなど、30項目以上の質問にお答えいただきながら、方向性を定めていきます」
ヒアリングした内容を香りに置き換え、調合する過程において、より明確にデザインしていくために、匂いから想像する景色や色彩、味わい、人物像などを言語化しながらストーリーを紡ぎ、ときに写真も交えてより依頼人が理解しやすいかたちにしていく。具体的なシーンを描き出すとともに、その背後に思想や哲学が垣間見えるからこそ、齋藤さんのもとには、美術館やホテルなどの施設をはじめ、多くの企業やブランドからの依頼も寄せられるのだ。
日本の豊かな植生を香りに生かす
目には見えないものの、印象を心に刻んだり、奥底に眠っていた記憶を呼び覚ますための有効な手段と言える「香り」。その一方で、直感的に好き嫌いが分かれるため、使い方を一歩間違えるとまったくの逆効果になる危険性もはらんでいる。
「ひとえに良しあしを判別できないのが、香りの魅力でもあり、難しいところ。いい香りの代表格と言われるジャスミンは、甘くて濃厚な存在感が特徴的な香りですが、実はその中にインドールと呼ばれる糞便と同じ香り成分がほんの僅かだけ含まれているのですが、単体では強烈なにおいも100倍、1000倍と希釈することで、人を惹きつける華やかで、セクシーな香りになる。こうした複雑な嗅覚のベースになるのは、人の経験値。さまざまな環境、条件のにおいを嗅いでいくなかで、豊かな感覚が養われていくのです」
天然香料を調合する際、齋藤さんは花よりも木をベースとした香りに軸足を置くことが多いが、これも人の経験値をもとにした考えから来ているもの。
「国土の3分の2が森林に覆われている日本。街中も、街路樹や公園の樹木など緑にあふれていて、大気に木の香りが充満している環境のなかで日々私たちは過ごしているんです。体験したことのない初めてのにおいには違和感や刺激を感じる半面、日頃慣れ親しんでいる香りには安心感を覚えるもの。そう考えると、日本人の感覚に寄り添い、すっと気持ちが入り込む香りづくりには木の香りがとても大切なんです。一つの香りをつくるとき、だいたい15〜20種のエッセンスを混ぜ合わせていくのですが、そのうち5種類から、多いときには10種類近く木の精油を選ぶのもこうした理由からなのです」
単に森林が多いだけでなく、多様性のある植生というのも日本の特徴。四方を海に囲まれ、中央に山々が連なる日本は、決して大きいとはいえないながらも、南北に3000km伸びる列島のかたちが地域ごとに特徴のある気候を生み出し、さらに春夏秋冬と季節によって大きく移ろう景色が、私たちの自然に対する感覚をより鋭敏なものにしている。
「家の中にいても、温度や湿度の変化を気にする人は多いはず。エアコンなどで調整するだけでなく、そこに香りでニュアンスをつけることで、空間に深みや柔らかさが加わります。さらには産地によって野菜や果物の味が変わるように、精油も原料となる素材を採取した土地によって芳香が違うもの。豊かな自然環境が整っている日本には、まだ知られていないいい香りがたくさんあるんです」
香りが持つ可能性を探求して
京都の旧家に生まれ、幼少期より日本の伝統文化に親しんできた齋藤さん。アロマという西洋で生まれた香りの文化に、日本の感覚と環境を取り入れ、さらに親しみの持てるものへと昇華していきたい。そんな気持ちから、創香・研究の合間に全国各地を旅しては、生産者と交流を重ね、次なる香りと出合う機会を積極的につくり出しているという。
2023年6月に齋藤さんはブランド「TOMOKO SAITO AROMATIQUE STUDIO」をスタート。自ら研鑽を重ね、習得した知識と技術を、より多くの人々と共有し、さらに深みのある香りの世界をつくりたいと考えている。
「食べ物にはじまり、ファッション、インテリア、働き方にいたるまで、最近では自分の価値基準で物事を判断したい。余計なものは持たず、必要最小限なものだけでミニマルに暮らしたいと、考えている人が増えています。そんなとき、天然のアロマは、気軽に取り入れることができる暮らしのエッセンスだと思うんです」
アロマが体や心の状態に良いという意識はすでに広くに知られている。齋藤さんは、香りは複雑かつ繊細にデザインを重ね合わせることができるからこそ、アート、建築、教育など、これまでに香りと直接関係性を持っていなかった領域とも関わりが持てると信じている。
TOMOKO SAITO AROMATIQUE STUDIOを立ち上げるにあたり、ブランディングを担当したアートディレクターの川上シュンさんはデザインのコンセプトをこのように語る。
「目に見えないものながら、明確なフィロソフィーが存在する齋藤さんの香り。これをブランドのかたちとして視覚化するにあたり、特徴のあるベージュとブルーの色彩を基調に、デザインを構築していきました」
ベースカラーに採用したオレンジがかったベージュは、自然由来の精油を用いる感覚、木の切り株に見られる赤太、人の肌など、ぬくもりのある感覚を表現したもの。さらに文字に使っているブルーには少しパープルを加え、女性らしさのなかに凛とした品格を持つ齋藤さんの人物像を掛け合わせたという。
さらに川上さんは、ブランドを象徴するシグネチャーの香りの制作も提案。齋藤さんが現地に赴き、森を吹き抜ける風や清らかな水の流れを感じながら、これぞという日本の素材を厳選した。
結果として熊野のヒノキ、京都・北山のスギ、土佐の柚子、鹿児島のホウショウ(クスノキの一種)、北海道のトドマツの5種をセレクトした「5signature scent」が誕生。さらに、17種類をブレンドした精油を特殊なフィルムの中に閉じ込め、名刺入れや手帳の中に入れておくだけで、数週間にわたり優しく香りが漂う新作の香り「0 -zero- 」(アロマチップ)も手掛けた。
「食べ物や着る物のように、香りはそれがないと生きていけないような生活必需品ではありません。それでも香りは確実に生活の質を上げ、心を豊かにしてくれるもの。お茶やコーヒーをおいしく淹れるような感覚で、自分の空間に香りを纏わせる。そんな気軽な存在になってくれることを信じ、これからも新しい香りを送り続けます」
profile
10代続く京都の家に生まれ、幼少期より伝統的な香りや文化に親しむ。一般企業を経て、アロマセラピーの世界へ。2013年、調香の技術を広めることを目的に、⼀般社団法⼈プラスアロマ協会を設立。以来、15年のあいだで創作した香りは6000種以上に及ぶ。2017、2018年ミラノサローネにおいてパナソニックの展示「TRANSITIONS」に参画し、ミラノデザインアワードを受賞。天然精油にこだわり、現在は企業やホテルの大型アロマ空間演出のほか、化粧品開発、執筆、セミナーなどを手掛ける。2023年6月自身のブランド「TOMOKO SAITO AROMATIQUE STUDIO」をスタートさせた。
▶︎https://ts-aromatique.com
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