昼も静かな千鳥ヶ淵公園界隈から、江戸と現在が混在する空間を探す
番町という地名を聞くと、億ションとオフィスビルの街を想像する人も多いだろう。ちなみに番町とは、千代田区一番町から六番町までの総称である。
東京の街にはさまざまな歴史と表情があるが、注目されるのは江戸期の大名屋敷街や寺社街、町人街が多い。番町がある麹町台地に何があったのだろうか……と古地図を開くと、武家屋敷街だった。現代の地図と重ねると、道の多くが現代の道路と重なっている。関東大震災、東京大空襲を経て、この街の区画には“江戸”が残っているのだ。
今回は、番町から市ヶ谷、神楽坂を歩くが、街歩きは千鳥ヶ淵からスタートする。今なお豊かな水をたたえた江戸城内堀周辺を巡り、当時の武士の気持ちを想像しながら、北に向かって歩いていく。
千鳥ヶ淵の名前の由来は、「千鳥」の形をしているからだという。堀に沿うように、約700mの千鳥ヶ淵緑道が続く。約260本の桜が植えられており、春になるとソメイヨシノやヤマザクラ、オオシマザクラなどが競って花を咲かせる。緑道の近くに、樹木が茂り、森閑とした千鳥ヶ淵戦没者墓苑の出入り口がある。ここは、第二次世界大戦のとき海外で亡くなった方が祀られている。
この緑道を歩いていると、格調高く閑静な街の雰囲気が伝わる。街全体にノイズがなく凛(りん)とした様式美があるのだ。そして、目の前には豊かな水をたたえた内堀。いかに江戸城のお堀が深く広いかが伝わってくる。しかも、当時このあたりには将軍の警護をする武士が住んでいたのだ。その江戸城の完璧ともいえる防御体制に舌を巻く。
千鳥ヶ淵を抜け、麹町台地の起伏を感じる番町へ
靖国通りに出てから、内堀通りを南に戻るようにして、番町界隈に向かって歩みを進める。この界隈は、江戸期に中級の旗本が住む屋敷が並んでおり、道や区画はほぼ江戸期のままだ。これは、ベストセラー『東京の空間人類学』(陣内秀信著・ちくま学芸文庫)ほか、多くの書物に記されている。
この本から一節を引用する。
「山の手の細やかな起伏を生かしながらも、ひとつひとつのまとまりのなかでは直線道路の組み合わせによって均一な町割り、敷地割りを見せているところも数多い。城下町の街づくりの神髄ともいうべきものである」
都市づくりの専門家も指摘した、江戸の道が残る番町を歩く。
番町は一番町から六番町まである。歩いていると、麹町台地の起伏に富んだ地形を感じる。坂を主要道路にし、その両サイドに格子状に並んだ区画を配している。そこに旗本たちが住んでいたのだ。この街を歩いていて感じるのは、整然とした区画だ。当時の尺貫法が使われており、60間(1間は約1.818mなので、60間は約109.09m)を1つの区画としていたという。ちなみに、尺貫法では60間で1町(丁)になる。単位の視点で街を歩く楽しみがあるのも、番町ならではだ。
また、番町には、近世の軍人や政治家の邸宅跡も多い。代表的なのは、三番町にある東郷平八郎の邸宅跡である「東郷元帥記念公園」だろう。日露戦争における日本海海戦で連合艦隊を率いたことで知られる、東郷平八郎の旧宅が公園になっているのだが、取材時は工事中だった。ほかにも一番町には、第3代、第9代の内閣総理大臣を務めた山縣有朋の邸宅が、四番町には満州事変など戦前の激動期に内閣総理大臣だった若槻礼次郎の屋敷があった。
麹町通りから大妻通りに抜ける東西の道を『番町文人通り』という。界隈には、作家・武者小路実篤、歌人であり詩人の与謝野晶子と鉄幹夫妻、作家・有島武郎、画家・藤田嗣治ほか、多くの作家、画家、音楽家などが住んでいた。
北へ少し足を延ばし、外堀の外へ……低層マンションや大邸宅がある市ヶ谷は高級住宅街
市ヶ谷も東京屈指の邸宅街で知られる。その歴史は明治時代までさかのぼる。外堀の外側には下級武士の屋敷や幕府の直轄地などがあり、そこに当時の富裕層が住み、高級住宅街としての歴史が始まる。
オフィス街のイメージがあったが、実際に歩いてみると、外堀の水と緑が目に優しい。おそらく、この近辺は周辺の邸宅街の公園のような役割を果たしているのであろう。この“公園”の反対側は、高台になっている。その市ヶ谷へ足を延ばしてみた。
この街の地図を開くと、「市谷砂土原町」「市谷薬王寺町」「市谷長延寺町」「市谷鷹匠町」などの地名が示されており、“〇丁目”などの住居表示がないことに気が付く。これは、1950年代ごろから多くの地域で住居表示に変更されていったが、このエリアは住民が地名を残すことを行政に働きかけたことによる。その活動により、歴史を残す町名が残されているのだ。ちなみに、新宿区は住居表示未実施の地域が新宿区全体の24.87%あるという。
武家屋敷には多くの伝説が残る。市ヶ谷で有名なのは江戸中期の仇討話で知られた『浄瑠璃坂の決闘』だろう。宇都宮の奥平氏に仕えていた家臣の派閥争いで、反目する二派が騒ぎを起こし、当事者は左遷されたり、切腹させられたりした。その残された遺族が討ち入りを行う物語で、歌舞伎の『浄瑠璃坂幼敵討』として、今も伝えられている。
だがしかし、そんな歴史を全く感じないほど現在はシンプルで美しい邸宅が立ち並んでいる。
市ヶ谷で有名な屋敷と言えば「最高裁判所長官公邸」だろう。1947(昭和22)年から使われてきたが、2011(平成23)年の東日本大震災によって倒壊の危険性が増大し、使用を停止。2014(平成26)年に、重要文化財に指定された。現在は耐震補強工事が行われており、最高裁判所の迎賓施設として、新公邸としてのリニューアルが進められている。
市ヶ谷から神楽坂に抜けると、戦前の華やぎの気配を感じる
神楽坂の名の由来は、坂の途中にあった穴八幡の御旅所で神楽を奏したからという説のほか、数種類ある。神楽坂のランドマークといえば、『毘沙門天 善國寺』だ。安土桃山時代に麹町に創建されたが、火災の被害に遭い、1793(寛政5)年にこの地に移転する。余談だが、『善國寺谷跡』の石碑は、麹町三丁目交差点の脇の歩道に建てられている。今回の街歩きのスタート地点付近から、歩いたコースと似たような道筋を通ってこの地に根を下ろしたのだと考えると、感慨深い。
善國寺は移転後も、徳川家の信頼と保護を受け、武家から庶民まで、篤い信仰を集め続けた。神楽坂周辺は、武家屋敷が多いにもかかわらず、参拝客を相手に、飲食店や商店が建ち、門前町としても発展。これが、庶民的でありながら格調高いという、独自の文化や雰囲気を醸成させてきたのかもしれない。
明治になっても、神楽坂は発展を続ける。戦前までは「山の手銀座」とも呼ばれ、東京屈指の花街として知られるようになる。今も路地裏を通りかかると、三味線の音が聞こえることもあり、往時の色気と艶がある“裾”のような空気を感じることもできるだろう。
また、神楽坂は、東京で最初の夜店が始まった地でもある。第二次世界大戦前の華やかな様子は『東京夢幻図絵』(都築道夫著 中公文庫)などの作品にも描かれている。神楽坂を愛した作家は多く。その代表は夏目漱石だろう。1906(明治39)年発表の『坊っちゃん』で神楽坂のにぎわいの様子を描写している。神楽坂に住んでいた泉鏡花は『神楽坂七不思議』という作品を残している。
ゆっくり歩きながら重ね合わせた、目の前にある風景と江戸の面影
番町、市ヶ谷、神楽坂と歩き、関東大震災や東京大空襲で消えてしまった江戸の面影は、区画などの見えない部分にも濃厚に残ることを感じた。何も書かれていないからこそ、知識を動員して「感じる」。想像力が刺激される街歩きができるのだ。
参考文献
『東京の空間人類学』(陣内秀信著 ちくま学芸文庫)
参考資料
千代田区ホームページ
▶︎https://www.city.chiyoda.lg.jp/
参考資料
新宿区ホームページ
▶︎https://www.city.shinjuku.lg.jp/