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泉麻人が語る、<br>渋谷公園通りの変遷
泉麻人の「東京カルチャーストリート」

泉麻人が語る、
渋谷公園通りの変遷

泉麻人が語る、渋谷公園通りの変遷 ―’64東京オリンピックとパルコとライブステージが織り成す、スポーツと芸能の“MIXカルチャー”

東京の街や通りには、それぞれ時代を映した独特な文化がある。東京・昭和のカルチャーやトレンドの第一人者であるコラムニスト・泉麻人が、都内の街や通りをテーマに時代の移り変わりとそのカルチャーを解説する連載コラム。第1回は「渋谷公園通り」。懐かしくも少々甘酸っぱい記憶を添えながら、1964年東京オリンピックから芸能に至るカルチャーの変遷を紹介。

Text by Asato Izumi

渋谷パルコの誕生がきっかけとなった、「公園通り」の名称

1973年の公園通り、オープンしたての渋谷パルコを望む。通りを走るバスやクルマに時代を感じる。
Photo:朝日新聞社/アマナイメージズ

駅前(というか、ほぼ駅上)に竣工した渋谷スクランブルスクエアをはじめ、相変わらずトレンディーな話題に事欠かない渋谷の街で、僕が青春の頃にとりわけ親しんだのは公園通りの界隈だった。マルイの前から始まる緩やかな坂道。この道に「公園通り」の名称が定着したのは、1973年の6月にオープンしたパルコが発端だったという。オープニング広告のキャッチコピーに、その名が使われたのだ。ちなみに、開店(6月14日)前日の新聞に掲載された広告の複写をもっているが、黒犬を抱えたカッコイイ黒人女性のモデルの写真に『明日10時。公園通り渋谷パルコ誕生。女は明日に燃えるのです。』なんていうコピーが打たれている。そんなパルコも先頃(2019年11月)、新たなスタイルで再オープンしたばかりだが、2020年代に向けてどんな文化を作り出していくのだろうか。

Photo:朝日新聞社/アマナイメージズ

パルコのオープンは高校2年の年だったが、この道に初めて足を踏み入れたのは、前年の高1の頃だったと思われる。当時はまだ通称「区役所通り」と呼ばれていて、店よりも一般の民家が目につくような印象があった。ちょうど1972年の秋刊行の住宅地図が手元にあるので、これをチェックしてみると、やはりパルコの交差点を過ぎたあたりからは、道の右手に普通の家の名字が並んでいる。左側に「ピザハウス・ジロー」というのがあるけれど、ここは都心に何軒かあったピザパイをウリにしたレストランで、軽井沢の別荘地にあるような白木造りのオープンハウス調の建物だったはずだ。もう少し先の右側には「アメリカンコーヒー・時間割」という表示があるけれど、この店は実に懐かしい。当時ちょっと仲の良かったような女の子と何度か待ち合わせで使った。頭に付いた“アメリカンコーヒー”とは、アメリカ西海岸あたりでハヤッていた薄めのコーヒーのことで、僕らは堂々と「アメリカン!」とオーダーしていた。女子たちの間では、シナモンの小枝をカップに添えたシナモンティーってやつがブレイクしはじめていた頃である。

パルコがオープンして2、3年後、大学生の時代には「時間割」のある坂上のほうまで、ずらりとファッショナブルな店が並ぶようになっていた。ファッション系の店ではないけれど、パルコの手前の山手教会の地階に存在したライブハウス「ジァン・ジァン」にも何度か行った。ビートルズの曲を歌う松岡計井子(けいこ)のライブをよくやっていたが、僕がここで観た印象が強く残っているのはマルセ太郎のパントマイム劇と初期のシティボーイズ(大竹まことら)の公演。教会の建物をそのまま使っていたので、客席の一角に不自然な太い柱が立っていて、その脇の席にあたるとステージがよく見えなかったことを思い出す。

コンサートの殿堂「渋谷公会堂」は、当初どのような用途で造られたのか?

渋谷公会堂から渋谷C.C.Lemonホール、そして2019年にはLINE CUBE SHIBUYAとしてリニューアルした。

ステージといえば、坂を上りきったところに区役所と隣接して渋谷公会堂があった。ここも2019年秋「LINE CUBE SHIBUYA」のニックネームを付けてリニューアル・オープンしたが、昔から「紅白歌のベストテン」など歌謡番組の収録会場や、80年代くらいからはニューミュージックやJポップス系アーティストのライブ会場としてもよく利用されるようになった。僕も一度、みうらじゅん&いとうせいこうの「ザ・スライドショー」の際、とある“ゆるキャラ”の着ぐるみを被ってステージに立ったことがあったけれど、建物が竣工してまもない1964年の秋、意外な人もこのステージに立っている。

東京オリンピックの日本の金メダル第一号となった、重量挙げの三宅義信選手。この写真の場所がまさにその渋谷公会堂なのだ。その後時を経て、ライブの殿堂になろうとは……。
Photo:朝日新聞社/アマナイメージズ

10月10日に始まった東京オリンピックのウエイトリフティング競技の会場に使われて、フェザー級の三宅義信選手がここで日本に初めての金メダルをもたらしたのだ。つまり、言ってみれば、ステージ上で60キロ相当のバーベルを持ち上げた男から、渋谷公会堂の歴史は幕を開けたのだ(正確には当初オリンピックの競技会場として建設され、公会堂としてオープンするのは翌1965年)。

一帯のオリンピック関連施設と米軍ワシントンハイツ、そしてジャニー喜多川さん

この公会堂の傍らに、226事件の慰霊碑が置かれているのは、ここで事件に関わった将校らが処刑された(陸軍刑務所が存在した)からで、戦前は代々木側に陸軍の練兵場が広がっていた。終戦後、一帯はGHQに接収されて米軍家族が暮らすワシントンハイツの敷地となり、オリンピック開催を前にした交渉の末、米軍住宅は調布に移転、ここにオリンピック選手村と代々木競技場などの関連施設が建設されたのだ。そしてオリンピックの中継基地として、このときNHKの放送センターがいまの場所に開設された(内幸町の旧局舎は1972年まで残っていた)。

ところで、先日他界したジャニー喜多川さんは、戦後米軍関係の仕事をもっていたことからワシントンハイツに暮らし、60年代初めに近所の子供たちを集めて編成した野球チームがジャニーズの発端だったという。初代ジャニーズが「若い涙」という曲で正式にレコードデビューするのは1964年の暮れ。オリンピックとともに、この辺から新しい芸能の波動も生まれたのである。

真新しいアディダス・スーパースターの靴ヒモを抜いて投げ捨てた、公園通りでのナウな記憶

Run DMCメンバー。1984年発表のファースト・アルバムはヒップ・ホップのアルバムとして初のゴールド・ディスクを獲得した。足元の3本線に注目。
Photo:Getty Images

そう、渋谷公会堂の思い出をもう1つ。『週刊文春』で時事コラム(ナウのしくみ)を連載していた1986年の暮れ、日本でもトレンドになりはじめていたヒップホップの人気グループ・Run DMCがアメリカから来日、渋谷公会堂で催されたライブを取材に行った。彼らのファッションのポイントは足元のスニーカー“アディダス・スーパースター”。黒い3本線が入ったスーパースターの“ヒモをわざわざ抜いて履く”というのがRun DMCのスタイルだった。渋谷から公園通りを上っていくと、そこかしこにヒモ抜きのスーパースターをカポカポいわせながら歩いて会場へ向かうファンらしき若者がいる。スーパースターを調達して履いていた僕も、彼らにならって路端でヒモをピッと抜いて、ワイルドに投げ捨てた。あれは公園通りのどの辺だったろう……もう33年も前の話だ。

profile

泉 麻人

1956(昭和31)年、東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社。『週刊TVガイド』等の編集者を経てコラムニストに。主に東京や昭和、カルチャー、街歩きなどをテーマにしたエッセイを執筆している。近刊に『1964前の東京オリンピックのころを回想してみた。』(三賢社)。

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